第4話 水の始まり

 真っ暗なグラウンド。周囲を囲う防球ネット。その向こう側に広がる闇。なぜか点いている背の高い照明。


 彼女に手を引かれながら僕は歩く。唐突に握られて、それからずっと握られっぱなしだった。嫌な感じはしない。少しだけ温かくて、そして冷たい。彼女の目と同じだ。手を繋ぐと、歩きやすいことが分かる。相手のテンポに合わせようとする必要がない。


 涼しい風が吹き抜ける。それと同時に、周囲に立つ木々がさざ波のような音を立てる。


「走ったことがある?」彼女が僕に尋ねてきた。


「グラウンドを?」


「そう」


「あるよ。体育の授業で、何度か」


「一周? それとも、直線?」


「どちらも」


「どちらの方が面白かった?」


「どちらも、特別面白くはなかったかな。ただ走るだけでは、つまらない」


「では、どのように走ると面白い?」


「蛇行したり、ものを飛び越えたりしながら」


「見ている方も面白いかも」


「見てみる?」


「走るの?」


「いや、やっぱりやめておこう」


「疲れるのは、嫌だ?」


「嫌ではないよ。ただ、損だと感じることがないわけではない」


 広大なグラウンドの中心に立つ。


 二人だけ。


「静か」僕はコメントする。


「うん」


「さっきもそう言ったね。言ったのは僕だったかな? それとも、君だったかな?」


「覚えていない」


「どちらでもいいか」


「なぜ、学校にはグラウンドがあるのか」


「運動しなければならないからだよ」


「そのために、これだけの空間が必要、ということ?」


「そう」


「そうか」


「君、ときどき変なことを言うね」


「よく言われる」


「言われてどう思うの?」


「そうか、と」


「そうかというのは、疑問形? それとも、普通に述べているだけ?」


「その中間。分けられない」


「なるほど」


「人間には空間が必要、と感じることがある」


「いつ?」


「今も」


「今?」


「これくらい広大な空間に立っていなければ、こんな心情は生まれてこない」


「こんな心情って?」


「上手く言葉にできない」


「もしかして、僕が愛おしいという心情?」


「分からない」


「ごめん、冗談だよ」


「それは分かる」


「そう……」


「空間を移動することは決して無駄ではない。頭と身体の両方を持ち合わせているのが人間だとすれば、人間は空間に馴染むようにできている。つまり、考えるだけでなく、実際に動かなければならない。しかし、最近は頭と身体を切り離そうとする。そんな状態にあるものを、人間と呼べるのかと考える」


「そんなことを考えながら、授業を受けているんだね」


「授業を受けているとは限らない。なんとなく、そんなことを思いつく。それは、いつでも。あるいは、眠っているときもそうかもしれない」


「もう、眠りたい?」


「ううん」


「君はよく眠る方?」


「あまり」


「活動する時間が沢山ありそうで、羨ましいよ」


「眠るのも活動の内と思われる」


「しかし、現代ではその価値は消えてしまったと言っていい」


「貴方はよく眠る方?」


「うん、まあ、どちらかといえば、そうかな。眠りすぎて、困ってしまうことがあるくらいだ。本当はやりたいことが沢山あるのに、ついつい寝坊してしまうんだ」


「夜、遅くまで起きているからでは?」


「いや、そんなことはまったくないよ。十時には布団に入っている。布団に入ったからといって、すぐに眠りに就けるとは限らないけど」


「沢山眠るのが貴方の体質なら、それに合わせて生きる術を見つければいい」


「仙人みたいなことを言うね」


「仙人?」


「そんなふうに賢く考えることができれば、もう少し楽に生きられるんだろうな」


「考えることは誰でもできる」


 僕は、少し体重を横に預けて、彼女の腕に身体を寄せてみた。彼女は抵抗しない。むしろ、相手もこちらに身体を寄せてくる。


 鼓動が聞こえそうだった。


 しかし、聞こえない。


 彼女は生きていないのではないか、と思いつく。


「ずっと一緒にいたい」僕はそんな言葉を口にした。


「なぜ?」


「なんとなく、心地がいいから」


「それは、私も」


「じゃあ、一緒にいてくれる?」


「限度がある」


「どんな?」


「たとえば、トイレに行くときとか、一緒にいると困るのでは?」


「それはオーバーだ」


「許容できないわけではないけど、あまりいいことはない気がする」


「うん、そうだね」


「可能な限りでいいのなら、いいよ」


「君の言う可能な限りというのは、案外短そうだ」


「なぜ、そう思う?」


「なんとなく」

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