第3話 空の始まり

 コインを入れると、自動販売機が飲み物を排出した。それを手に取る。缶タイプのもので、掌が冷たかった。凍ってしまいそうなほどだ。


 食堂の前に噴水があり、僕と彼女はその縁に腰を下ろした。


「静かだね」僕はコメントした。


「うん」


「いつも、このくらい静かだったらいいのに」


「どうして?」


「どうしても」


「静かでも、音は聞こえる」


「そうか。それが静かという状態なんだ」


「無音ではない」


「無という状態は、ありえるのだろうか」


「ありえない、と思われる」


「それについて、きちんと考えたことがある?」


「何について?」


「無について」


「あまりない」


「考えても、仕方がないから?」


「それもあるけど、考えようと思わなかった」


「何も考えないことってできるのかな?」


「そういう教えを説く宗教がある」


「そうか」


「考えても無駄ということは、普通はない」


「話が飛躍するね」


「考えると、何かしらの結果が導出される。分からなければ、分からないという結果が導出される。分からないという結果が導出されることに、意味を見出さない人たちもいるけど、分からないということが分かれば、分からないことを解消しようとすることができる。つまり、次のタスクが与えられる。それは、たぶん、何がタスクか分からない状態よりも、一歩前進した証拠」


「なかなかポジティブに考えるんだね」


「そうかな」


「うん、まあ、ポジティブというよりも、ネガティブでないと言った方が正しいか」


「ニュートラル」


「車には詳しくないんだ」


「では、車について調べればいい」


「なるほど」


「分からなくても、そのままでいい、と思うことができる?」


「また、別の話?」


「別の話ではない。一連のプロセスから派生した連鎖のようなもの」


「分からないことが沢山あるのが普通なんじゃないかな。分からないから勉強するし、分からないから対話する。すべて分かっているのなら、そんなことをする必要はない。分からないことがあって、分かろうとする段階でも、すぐにすべてを分かることはできないから、分からないことを内に抱える時間が必ず生じる。そう考えれば……。ちょっとニュアンスは違うかもしれないけど、分からなくても、そのままでいい、と思わざるをえないんじゃないかな」


「ずっと、分からなくてもいい、と割り切ることは?」


「それは……。分からない」


 彼女が少し笑った。


 息が漏れる程度の、音でしか認識できないような笑い。


「面白い?」僕は尋ねる。


「面白い」


「君は? 分からなくても、そのままでいい、と思えるの?」


「思えないこともない」


「曖昧だね」


「人は常に曖昧」


「君は人なの?」


「どう思う?」


「人?」


「貴方の考えは?」


「考えても分からないよ。ああ、そうか。今、分からないということが分かった」


「では、貴方の直感はどう言っている?」


「人。そして、女性」


「どうして、女性であることを意識するの?」


「うーん、どうしてだろう」


「好きだから?」


「何が?」


「女性が」


「それは、うん、たしかに、その通りだよ。綺麗なものは、誰だって好きだ」


「では、男性でも、綺麗なら好き?」


「好きだよ」


「その場合、女性か男性かという区別は、関係がないのでは?」


「うん、そうだね。たぶん、女性、男性というのは、外見から分かりやすい特徴について述べているだけなんだ。そう……。女性的な側面、男性的な側面というのが本当なんじゃないかな」


「面白い見解」


「どうもありがとう」


「分からなくてもいいと思うことにすると、少しだけ優しくなれるかもしれない」


「急に話を戻すね」


「人間は、分かろうとして、これまで生きてきた。そのために、地球を球体と考え、物は落ちると考え、脳が身体を支配すると考え、死後の世界があると考えた」


「分かろうとしても、いつか、どこかで、必ず限界に直面する」


「そう」


「分からなくてもいいと思えば、世界が広がるということかな」


「直接的に言えば、そう」


「君は優しいね」


「どうして?」


「どうしても」

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