第2話 影の始まり

 リノリウムの床。炭素製の窓硝子。木造りのドア。


「どうして、ついてきたの?」少女が尋ねてきた。


「自分の飲み物は自分で選びたいから」


「そう」


「変わっているね、君」


「そう?」


「うん」


「竹藪焼けた」


「何、それ」


「早口言葉らしい」


「早口言葉にはまっているの?」


「はまってはいない」


「じゃあ、今は何にはまっているの?」


「何にもはまっていない」


「勉強は、どう? 楽しい?」


「楽しいかどうかは分からないけど、面白い」


「たとえば、どういうところが?」


「数式で、右に向かって進むことも、左に向かって進むこともできるところとか」


「それが面白いの?」


「文ではできない」


「英語ならできそうだけど」


「日本語ではできない」


「君は日本語が母語?」


「たぶん」


「僕もそうだ」


「そんな感じがする」


「え、そうかな」


「違う?」


「そうかもしれない」


「貴方は、勉強は面白い?」


「いや、あまり……。うん、僕には向いていないようだ」


「なぜ、そう思う?」


「テストでなかなかいい点が取れないからね」


「テストでいい点が取れないと、向いていないの?」


「少なくとも、学校の勉強には向いていない」


「勉強そのものに向いている可能性はある、ということ?」


「そうそう。よく分かるね。話が通じる相手に会うのは久し振りだ」


「みんな、同じ言葉を使っているから、通じるはず」


「僕もそう思っていたよ。でも、皆、一つ一つの言葉の定義がずれているんだ。それで、通じない」


「そっか」


「そう」


「私も、人と話したのは久し振り」


「あまり陽気な感じには見えないからね」


「うん」


「ごめん。傷ついた?」


「傷?」


「いや、何でもない」


 建物の中は冷たい。昼間の温度はもう残っていなかった。駆け抜ける生徒の喧噪も、頭上から話しかけてくる放送も、今はない。二人分の足音と、二人分の息遣いだけがある。


 昇降口に着く。靴を履き替えると、少女が昇降口のドアを開けた。施錠されていても、内側からなら開けることができる。


「どこに行くの?」僕は尋ねる。


「食堂前の自動販売機」


「そこでコーヒーを買うの?」


「うん。まずい?」


「何が?」


「自動販売機では」


「いや、全然。でも、そこにコーヒーがあったかどうか、覚えていない」


「コーヒーでないと、駄目?」


「君がコーヒーがいいって言ったんじゃないか」


「そうだった」


「忘れんぼさんなんだね」


「ほかのことを考えていたから、一時的に忘れた」


「どんなことを考えていたの?」


「貴方のこと」


 階段を下りる。その先は駐車場だ。今は一台も駐まっていない。静まりかえった敷地内を二人で歩く。


「いつも、こんな時間まで残っているの?」僕は歩きながら質問する。


「いつもではない」


「では、どのくらいの頻度?」


「風が吹く程度」


「君にとって、風の定義は?」


「物体の移動によって生じる空気の密度の変化、あるいは、空気の密度の変化によって生じる物体の移動」


「どちらかでは駄目なの?」


「実は、あまり詳しく定義していない」


「なるほど」


「なるほど?」


「まずは、定義という言葉を定義しなければならないと思うんだ」


「それは、しかし、できないはず」


「まあ、そうか」


「前に試したことがあるけど、上手くいかなかった」


「それで、体調不良になった?」


「なった」


「どんな具合に?」


「頭とお腹が痛くなった」


「寝込んだ?」


「寝込んだ」


「熱が出た?」


「出た」


「僕と同じだ」


「立つのが大変で、一日中布団の中にいた」


「お母さんに看病してもらった?」


「お母さんはいない」


「そう……。もしかして、訊いてはいけないことだった?」


「なぜ?」


「いや、違うならいい」


「布団の中で横になって、天井を見ていたら、それがぐるぐるし始めて、吐いてしまった」


「苦しかった?」


「ううん、あまり」


「むしろ、気持ちがよかったんじゃない?」


「うん」


「それから、どうしたの?」


「それから、コーヒーを飲んだ」


「それで、コーヒーが好きになった?」


「それは関係がない」


「そう思っているだけで、実は関係があることが多々ある」


「そう?」


「少なくとも、僕の場合は」


「そうか」


「綺麗な声をしているね。何か練習をした?」


「生まれつきだと思う」


「持って生まれたものは、大切にした方がいいね」


「なぜ?」


「そうでないと、自分が消えてしまうから」


「初めからないという可能性は?」


「考えられるけど、それだと、一般的な考え方と合わないよ」


「合わなくてもいいのでは?」


「うん……。その通りだ」


 自動販売機が見えてくる。

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