正直者の雪女

齋藤 龍彦

夏の雪女

 その夏はたいそう暑い夏であった。武蔵の国の或る村にミノキチという今年十九になる木こりがその母とふたりで暮らしていた。


 このあまりの暑さには若いミノキチでさえ耐えかね、あまりの暑さに母の食は細り次第に次第に痩せていく。そんな夏の日の夕方、ミノキチの家の木戸を叩く音がする。ミノキチが戸を開けるとそこには旅装束の一人の女、いや、少女が立っていた。背は高く、ほっそりとしていて、大層綺麗であった。


 だが目が合ったもうその刹那にはミノキチはこの少女にただならぬものを感じ取っていた。

(この世のものじゃない)

 しかしミノキチはそうした直感をおくびにも出さず、なにげに少女に尋ねた。

「旅ですか? どちらから?」と。

「越後です。三国峠みくにとうげを越えて上州に入り昨日からようやく武蔵の国です」と少女は答えた。

(ますます怪しい、)とミノキチは思った。それは少女がこの夏の日々の間それだけの長い旅をしてきているにも関わらずまったく日に焼けていないからであった。

 しかし少女の方はと言えば、そうしたミノキチの内心がまったく読み取れないのか、その形の良い唇から、

「美少年ですね」と素っ頓狂なことばが飛び出してくる。


 ミノキチはそう言われても誉められたとも思えない。歌舞伎の女形が生業だというのならともかく、彼は正真正銘の木こりなのである。だがその一言は未だ夏の西日の支配下にあるミノキチの心胆を寒からしめ、直感を確信へと変えさせた。


「知らない。知らない、知らないなぁ」と突然訳の分からない事を口走り始めるミノキチ。

 ソレを見て、

「またまたまた〜」と少し毒の入ったような笑みを浮かべる少女。

 必死に話しを逸らそうとするミノキチは、

「まだ夏は日が長い。あとふたつくらい村を越せるかも」と口端に乗せるが、

「いえいえ、もうすっかり疲れてしまったのでこれ以上は越せません。今晩ここに泊めてはくれませんか?」と少女からは戻ってくる。

 その頼みに可とも不可とも答えずミノキチはさらに質問を繰り出す。

「旅はどちらまで? やっぱり江戸まで?」

「江戸ですかぁ、〝ここまで〟って言ったらどうします?」

「ごごご、ご冗談を、知らないんですから本当に」

「でもわたしにはどこかでお会いしたように思えるのですけど」

「たた、他人のそら似でしょう」


 その時だ。戸口の奥からか細く母の声がした。ミノキチが誰といったい話し込んでいるものかといぶかしく思い声を掛けたのだ。

「なんでもないよ、」とミノキチは奥へ向かって声を飛ばすが、その時肩口から首筋にかけ冷気を感じた。

「お母上様はだいぶこの暑気に悩まされている様子ですね」とミノキチの肩越しに少女が家の奥を覗いていた。


 嫌でもミノキチはおよそ半年前のことを思い出さずにはいられない。しかしそんなミノキチの心の内など母はつゆ知らず、起き出し戸口のところまでやって来る。そうして口にしたことばが「あれまあ」だった。

 そうしたことばが飛び出て、そこでことばが止まるくらい少女の容貌は人の心を引きつける。

 彼等三人は長い間ものを云わないでただ戸口のところで立ち尽くしている。しかし諺にある通り『気があれば眼も口ほどにものを云い』であった。

 次に母が言ったことばは、

「一晩泊めておあげよ」だった。

 ミノキチは顔面が蒼白となり、母に向かって、

「この人は誰だか分からない知らない人なんだ」とわめくように言ったが、母は息子の気がふれたのかと思いいぶかしげな表情をするだけ。

 もうその最中、

「〝雪〟といいます。お世話になります」と少女がミノキチの横をするりと通り抜けた。少女が通り過ぎると冷気が糸を引くようで、たちまちのうちに今の季節がいったいいつであるのか、きれいさっぱりと忘れるほどであった。

「まあ、おゆきさん。どんな字で〝ゆき〟なんだい?」母が少女に話しかける。

「冬に空から舞って落ちてくる雪、その雪の字です」少女が答えた。

 もはや忘れたくても忘れようもないつい今し方少女が口にした〝雪〟という名。そのあまりにあけすけな名前でたちどころにミノキチの心がびきびきと氷結していく。しかしもう少女はミノキチのあばら屋に上がり込んでしまい元には戻せそうにない。



「どういうことだろうねえ」と、すっかり暑気の引いたうら寂れた我が家で生気を蘇らせた母。いつも以上に食が進み、そしてこれまで積もり積もった疲れが出たのか早々に布団の中で寝入ってしまった。


(おっかあ、寝られちゃ困るんだよ)と母を起こしたくなるミノキチだったが、雪と名乗る少女はここぞとばかりにミノキチの手首をつかんだ。

「ようやくふたりきりですね」と妙なことを口にした雪の手の平は氷のように冷たく、別の意味での冷たい汗が流れ益々身体も心も寒くなる一方のミノキチであった。

「知らない。知らないんだ。だから知らないんだから、ここまで来るのはナニカの間違いだ」

「もうそれは解除しましたよ。よくここまでとぼけきって約束を守ってくれました」

 ミノキチはおよそ半年前のあの雪の夜の渡し守の小屋で、白い女から一方的に結ばされてしまった約束を片時も忘れることなく覚えていた。その約束の期限がたった今切られた旨耳にして、ようやくシラを切るのをもうやめた。

「待ってくれ! おっかあを殺さないでくれ!」堰を切ったように感情をほとばしらせるミノキチ。

「はい?」と露骨におかしな顔をする雪。

「どうせ茂作さんのようにするつもりなんだろう⁉ 年寄りだから!」

「その〝茂作さん〟というのは、あなたが住み込み、あなたを召し使ってきたお人でしょう?」雪にはまともに答えるつもりが無いのと同時に既に何らかの事情を知っているかのようであった。


 今ミノキチの頭の中にはあの半年前の雪の夜の光景が昨日のことのようにありありと絵のように浮かんでいる。


『わたしは今ひとりの人のように、あなたをしようかと思った。しかし、あなたを気の毒だと思わずにはいられない、あなたは若いのだから。あなたは美少年ね、ミノキチさん、もうわたしはあなたを害しはしません。しかし、もしあなたが今夜見た事を誰かに、あなたの母さんにでも云ったら、わたしに分ります、そしてわたし、あなたを殺します。覚えていらっしゃい、わたしの云うことを』

(この同じ顔が確かにそう言ったんだ)ミノキチは己の記憶に少しもあやふやなところが無いことを確認でき、改めて自身で念を押すことができた。


「これだから武蔵の国の人は困るのです」雪はおかしなことを喋りだした。

 ミノキチはただじっと雪の顔を吸い寄せられるように見つめるだけ。

「あんな大層寒い、大吹雪になりそうな日に、片道二里、往復四里も歩いて仕事に出るなど越後では考えられませんよ。せいぜいお家の周りで雪かきにいそしむ程度です」

「……」

「あの方にあのまま奉公し続けていたら、あなたの命など少なくともあと五個か六個くらいないと、あの方の歳までも生きてはいられませんよ」

「だから殺したのか?」

 雪はにっこりと笑うと「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ」と口にし「自然と死んだだけですよ」と続けた。

 そのことばだけでミノキチの身がすくむ。到底信じられない。だが雪もすぐさまミノキチのその様子を悟りことばを付け足した。

「あなた達のいた小屋には火鉢は無かった。火をたくべき場処も無かった。あんな大吹雪の晩にあそこで寝てしまったらどうなると思います?」

「そんなものは分からない」

 雪は小さくため息をつくと、

「だから武蔵の国の人なんですよ。寝たらそのまま自然と死ねますからね」

「え?」

「現に寝てしまっていたあの茂作さんは帰らぬ人になったでしょう? ふふっ、でも敢えてわたしが起こさなかったからですけど」

「……あれ? ということは……」

「わたしがミノキチさんにしてさしあげたのは〝寝させないようにすること〟。どうです? 怖かったでしょう?、わたし。念には念を入れて『殺す』とも言っておきましたし、あの晩一睡もできなかったでしょう?」

「じゃああなたは、このワシの命を助けてくれたんですか?」ミノキチは己の胸に手を当て訊いた。

「はい、もちろんです」と雪。「だけど偶然なんですけどね」とも付け加えた。

「ぐうぜん?」

「武蔵の国が大雪になるのは珍しいでしょう? だからです、わたしが武蔵の国まで出かけたのは」


 ただ、雪の次のことばはミノキチの心を完全にカチンコチンに凍らせた。

 今度は、彼女の方でミノキチは結婚しているか、あるいは約束があるかと尋ねたのである。

 彼は彼女に答えた。

「見たとおり養うべき母が一人あるが、お嫁の問題は、まだ自分が若いから、考えに上った事はない」と。

「つまり相手はいないんですね」となぜか笑顔で言われてしまうミノキチ。

「あっ、いや、まあ、」と返答はしどろもどろに。そういう趣旨では無く婉曲に断ったつもりであったがまるで通じていないようであった。

「若くなくなってしまうと今度は来るお嫁さんがいなくなるのかも」と身もふたも無いことを言い出す雪。しかしそれは真実そのように思われたのでミノキチは何かを言い返すこともできない。その間隙を突き再び雪が喋りだした。

「なんてったってミノキチさんは美少年だし、がんばってわたしと男女十人くらい子どもをつくりませんか、みんな綺麗な子どもで色が非常に白くなるって思います」


(今年齢は十九で、少年のように見えるのは長くてあと三年が限度か。美青年くらいはまだ成り立つとして美中年など聞いた事も無い)


(ワシは歳をとったらどうなるのだ?)


 しかしその疑問をミノキチは口から外へと出せない。

 怖いのと命を助けられた恩とで、もはや送りつけられてきた好意を突き返すことなどできない。〝せめてもう少しだけ平穏な日常を〟と欲したためだろうか、実にくだらないことを雪に訊いていた。


「雪さんは雪女といったところですよね?」

「ええ、雪女ですね」

「なんでわざわざこんな暑い中を? あと半年経ってからの方が季節が合っていたんじゃあ」

「でも寒いときにわたしが訪ねると喜ばれませんよね、暑いときの方が歓迎されると思って」


 それを聞いてミノキチは頭を抱えた。

(今は凄くちょうどいい。だが冬になったらいったい家の中はどうなってしまうのか)と。


 確実に言えそうなのは、子作りをするなら夏の間にいそしむに限るという、そのことであった。ミノキチは思った。

(この人と冬に肌を合わせたら死ぬんじゃないか)


                                 (了)

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