やましくない話

三奈木真沙緒

山岡と小長井、その後。

「……はい、それではあさって10時に、橋爪はしづめさんのオフィスに。……はい、はい……ありがとうございます。はい、よろしくお願いします。では失礼します」

 やや早口に打ち合わせを切り上げると、終話して、時刻を確かめる。まずい、もう13時が近い。アイツが来てしまう。私はスマホをバッグにつっこみ、手帳とペンも押し込んだ。12時前には外出して、昼食も外で取ろうと思っていたのに、出かける間際に仕事の電話がかかってきた。こればかりはおろそかにできない。イライラを押し殺しながら1時間も会話を続けて、ようやく終わったと思ったらこんな時間だ。鏡で化粧と髪型を確かめると、バッグをひっつかんで玄関へ急ぐ。


「話があっから、そっちに邪魔するわ」――数日前、アイツが電話でそう言ってきたので、私は即座に急用を入れることに決めた。その日は都合が悪いと答えても「まあそうつれないこと言うなよ」とゴリ押ししてくる、ろくでもない男だ。なんとしてでも肩すかしを食らわせてやらなくちゃ。……そう思っていたのに、現実は無情だ。

 仕事の打ち合わせこそリモートでも済む時代だ。でもイラストレーターとしては、やはり色彩は画面越しではなく直接見てほしい、というこだわりもある。地元の美大を卒業後、東京に出てきて、もう7、8年か。本当はもっと「絵画」と呼ばれる分野で活躍したかったけど、私の絵はあまり絵画向きではなかったらしい。イラストという分野なら多少は需要があるらしく、今はそっちで活動している。コミックに挑戦したこともあったが、私は「イラストの人物」は描けても「コミックの人物」は描きこなせないらしく、早々に見切りをつけた。ただ、プロットそのものは悪くなかったようで、コミック原作の依頼はたまにある。今では大事な副業だ。


 靴をつっかけ、玄関を出て、ドアに施錠したところで、足音が聞こえてきた。まずい。アイツだ――向き直ると、ギターケースをかついだひとりの男が、アパートの外階段を上がって来て、頭部を見せ始めたところだった。やっぱり……アイツだった。万事休す。外出する唯一の通路がアイツに塞がれてしまった。気づかれずにここを離れることはもう不可能だ。

「おう、小長井こながい!」

 なにがおうだ。私は為すすべなく、玄関ドアの前に立ちつくした。古いアパートで、廊下も階段も外構むき出し。もちろん防音なんて洒落た機能は期待できない。そこへ、よく通るハスキーな声で、堂々と呼びかけてくる。ああ憎たらしい。ソイツの姓名を山岡伸明のぶあきという。中学時代の同級生だ。成績はよくなかったけど、絵が得意で、センスは確かに光っていた。サッカー部の主将もしていた。ギターが大好きで、当時からバンドを作って、中学校の文化祭に出ていたりもした。そう、ギターの腕もよかった。高校が別々だったからそれきり、時々思い出す程度だったりしたけど、数年前、東京でばったり再会してしまった。思えばあのとき、連絡先を交換してしまったのが運の尽きだった。あのとき私はどうかしていたのだろう。

 山岡は、高校を卒業してすぐ上京したという。結局ギタリストの道を選んだらしい。再会したときはまだまだ売り込み中だった。それからしばらくして、ヤツはよく私のアパートを訪ねてくるようになった。といっても、色っぽい話では決してない。ヤツが私の家に押しかけて何をするのかというと……絵を描くのだ。ひたすら。私をモデルにするわけではなく、ただ自分の描きたい題材を、ひたすら。「いい気分転換なんだ」とほざいているけど、だったら自分の家でやれ。実際そう言ったことは何度かあるけど、返答は「まあそうカタイこと言うな」と、いささかずれたものばかり。背が高く、顔は……悪くはないんだと思う、しゃくにさわるけど。美形というより、野性的な感じ。中学生の頃からまあまあモテていた。東京に来てからはそれなりに苦労続きだったらしいけど、ここ2、3年で売れ始めたようなのだ。割と有名な歌手のバックバンドを務めているとか。最初は、ギタリストがどうしても都合がつかない場合のピンチヒッターだったのに、いつの間にか正規のメンバーになっていた。ライブツアー、レコーディング、どうかすると練習にも同行することがあり、つまり俄然忙しくなったのだ。バックバンドにもファンはいるものだそうで、山岡の場合は女性だけでなく男性のファンもけっこういるらしく、そこはまあ、たいしたものだと思う。当然ながら私の部屋に来ることはめっきり減った。けれど忘れた頃に突然電話が来て、「明日邪魔していいか?」などと聞いてくる。外出とか仕事の打ち合わせがあるときはさすがに遠慮しているようだけど、私がどんなに追い込みの時期でも、ひとりでいるときはずかずか上がり込んでくる。そして……ひたすら絵を描く。自分の家でやれってのに。くり返すが、男女の行為にもつれこんだことは本当に一度もない。手すら握ってこない。たまに山岡が、下品な冗談を言うのがせいぜいだ。しかも小中学生レベルの。そのたびに私が殴り飛ばすと「ゴメン、悪かった」と口では言うものの、次回来たときにまた同じことをやり、同じ鉄拳制裁を食らう。学習能力がないのだ。その一方で、コイツがやって来ることに、少しだけ安堵する自分もいる……安堵? とんでもない、いまいましく思うのだ。まだ野垂れ死にしてなかったのか、と。



「なんだよ、わざわざ出迎えてくれたのか?」

 そんなワケないだろうに。にこっと笑った顔がまあまあ男前なのが腹立たしい。

「急用ができたのよ。悪いけど帰って」

「まあそう言うなよ。こっちが先約だろ? 話だけでも」

「急用だって言ってるじゃない」

「そう言うなって。部屋に入れてくれよ、な?」

 女ひとり暮らしの部屋に入れてくれ? なんでそういうことを真っ昼間から、堂々と大声で言えるかな。しかも外廊下で。アパート全室が留守とは言い切れない。誰かは在宅かもしれないのだ。繰り返すが、防音なんて期待できない。特に2階の、階段上りきってすぐの部屋に住む男性は、ピアノが趣味らしく、よくガンガン弾いている。勤務形態を知らないが、昼間に弾いていることもある。幸いこのアパートには今小さい子はいないらしいし、遅くとも夜の8時には静かになるので、苦情を申し立てるほどではないが。とにかく、よく音が通るのだ。

 そもそも、今どき話なんて電話でもメッセージアプリでも済むことなのに、なんでわざわざ会いに来るのか。ロクな用じゃないに決まってる……ふと私の頭の中で、ぴんと跳ねたものがあった。そうだ、これでいこう。


「話なら、ここで聞くわ」

 ドアの前でややふんぞり返って、私は言い切った。わざと、声を少々張り気味にして。

「ここで?」

「そうよ。やましくない話なら、ここでだってできるでしょ?」

 少しばかり、鼻息を荒くしてやる。案の定、山岡はうろたえたようだった。

「ここではちょっと……部屋じゃ、だめか?」

「あら、じゃ、やましい用件というわけね?」

「いや、やましいわけじゃねえけど……」

「なら、ここで言ってみなさいよ。やましくないっていうならね」

 アパートの周囲には住宅も、営業中の店舗もある。どんなしょうもない話か知らないけど、私が大声で助けを求めれば、コイツのギタリスト人生は終わる。それでなくても、周囲に聞かれると思えばコイツも気おくれするはずだ。そこそこ成功しつつある女たらしを無下に扱う、という行為に、少しばかり快感を覚えたことも否定できない。私は絶対的優位という足場の上から、山岡を見下してやった。――のだが。

「――わかった。そのコトバ、後悔すんなよ?」

 ……なにを思ったか、山岡のヤツは、にっと笑った。私は、足元が崩れるような揺れを感じた。



 今思い返すも、アイツはとんでもないことをやらかした。服のポケットから何かを取り出した――小さな箱に見えた。おもむろに、山岡は片膝をつき、開けた小箱を私に向けながら、デカイ声で言ってくれたのだ。

「小長井椿つばきさん、好きです、おれと結婚してください!」

 比喩でなく、私は本当によろめいた。こちらに向けられた小箱の中身を、説明する必要はないと思う。

 情けないことに、このとき私は、理性が吹っ飛んでいたようだ。

「なっ……何言ってんのよ、こんなとこで!」

「やましい用事じゃないならここで言えって、そう言ったのお前だろ?」

 片膝ついた姿勢のくせに、どうやってこっちを見下してくるのか。

「あ、言っとくけどおれ、お前が好きだって気づいてから、ほかの女とはいっさい遊んでねえから。仕事の付き合いで酒飲むまでがせいぜいで」

「そんなことどうでも……!」

 ……どうでもよくはないか。いや、そうじゃなく。

「恥を知りなさいよ、こんなとこで大声で、そんな……」

「お前の声の方がデケエよ」

 いったん体を起こした山岡は、ギターケースを下ろして、ごそごそ開け始めた。まさかこんなところで1曲やろうってんじゃないでしょうね。

「だいたい、そんなそぶり、全然……」

「好きでもねえ女のとこに、そんなに会いに来るわけねえだろう」

「だって、一度も、襲ってきたことないくせに」

「本当に好きな女、遊び相手と同じノリで扱えるわけねえだろうが。つうか、こんなとこでそんな話するなって」

 悔しいが、もっともだ。顔が熱い。私は何を口走っているんだろう。

「だいたい、アンタ、女の人なんてよりどりみどりじゃ……」

「おれはお前がいいんだ」

 ……頭が真っ白になった。黙り込んでいると、山岡はギターケースから、超がつくほどクラシックにも、赤いバラの花束を取り出した。持って来たのはギターじゃなかったのだ。指でさっと手直しすると、恥知らずにも、こっちに差し出してきた。

「椿、愛してるぜ。おれと一緒になってくれ」

 なんたる直球。私は、背中が玄関ドアにぶつかったのを感じた。


     ◯


 ……それからどんなやりとりをしたのか、覚えていない。気がつくと私は、山岡に手を引かれ、一緒にどこかの店で昼食をとるために、アパートの外廊下を歩いているところだった。階段に差しかかったとき、すぐ前の部屋からピアノの音が聞こえてきた。結婚行進曲だった。――やっぱり丸聞こえだ。もしかすると、外堀を埋められてしまったかもしれない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

やましくない話 三奈木真沙緒 @mtblue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説