おばけなんて

@madoX6C

おばけなんて

「おとうさあん」

 ペタペタと鳴る足音と一緒に不安そうな声が近づいてくるのがわかる。僕はそれが微笑ましくって、ついクスっと笑いが零れてしまう。机から離れ、部屋の扉を開けて待ち構える。

「なあにぃ、ゆうくん。どうしたの?」

 真っ暗な廊下には部屋から漏れた光の筋が射している。そこに、ぬうっと小さな足が現れた。続けて、電車のイラストが描かれた青いパジャマ姿のゆうくんが姿をみせる。

「あのねえ、ぼくね、怖くなっちゃった」

「そっか、じゃあおとうさんのお部屋においで」

 目元を微かに赤く腫らした息子を仕事部屋に招き入れる。背中に手をおいて移動を促すと、柔らかなぬくもりが手の平から全身に広がっていくような心地がする。

 先月から一人部屋で寝るようになったゆうくんは、はじめの内は自分の部屋ができた喜びを爆発させるようにはしゃいでいた。だが、数日経つと再び一日の大半をリビングで過ごすようになった。

 理由を聞くと、どうやら夜一人で寝るのが怖いらしく、そのせいで部屋で過ごすこと自体を避けているようだった。僕も仁美も小学校に上がる前から一人部屋で寝るようになっていたので、自分たちに息子ができるまですっかり失念していた。

 子どもにとって、夜ほど恐ろしいものはない。

 僕が幼い頃は、母が絵本を読んでいる内に眠りについてしまったので、部屋に一人ぼっちでいる恐怖というものをほとんど経験せずに済んでいた。仁美の場合は、毎日くたくたになるまで遊び疲れていたため、部屋でベッドに横になるとものの数秒で眠りについていたという。

 そういう幼少期を過ごしたせいか、僕ら夫婦には怖がる息子の様子が新鮮に感じられた。夜に寝室に駆け込んでくる息子を優しく迎えることが、僕ら夫婦の密かな愉しみになっていた。

 しかし、ここ最近はゆうくんも一人で部屋で眠ることに慣れてきたのか、夜に起きてくることも少なくなっていた。

 起きてくるとすれば、それはをみたときだろう。

「どうしたの? ゆうくん」

 ゆうくんを抱えたまま、椅子に腰かける。ゆうくんは僕の胸に顔を押しつけて、身体をもじもじさせている。

「あのね、えっとねえ」

 ゆうくんは夜中に父親の部屋にいる感覚にそわそわとしているのか、中々言葉を続けない。少し誘導するような形になるが、こちらから質問してみるか。親としては、子どもの方から話し出すまで待ってやりたいが、恐怖で縮こまる息子の緊張を早く解いてやるべきだろう。

「もしかして、怖い夢をみたのかな?」

「……うん」

 一人部屋に慣れだした後も、ゆうくんは怖い夢をみると僕と仁美の眠る寝室まで泣きついてきた。大抵はおばけが出てくる夢だ。

 

 隙間におばけがいる。


 ベッドの下に怖い怪獣がいて、ぼくを食べようとしてくる。


 大抵はその日読んだ絵本や観たテレビの内容が頭に残っていて、それが夢に出てきたと考えれば説明がついた。ゆうくんは、そうしたおばけや怪獣、架空の人物が自分の部屋の中にいると訴えてくることが多かった。それを聞いて、子どもながらに部屋の暗がりや隙間、所謂な場所というものをよく観察しているのだなあと感心した。

 

「どんな夢みたのかなあ?」

「えっとね……うーんとね」

 ゆうくんは中々口を開こうとしない。僕は優しくゆうくんの背中を撫でる。

「大丈夫だよ。夢だから、本当にあったことじゃないよ」

「……ほんと?」

「うん、本当だよ」

 じゃあだいじょうぶだね、とゆうくんは顔を上げる。ゆうくんと目が合う。僕は努めて優しい表情を浮かべて安心させようとする。

「ちょっとは怖くなくなった?」

「うん、ちょっとだいじょうぶになった」

 ゆうくんの顔に少し余裕が戻ってきた。この様子なら、もう少し落ち着かせれば一人でも眠れそうだ。念のためもう少し話をして安心させよう。

「大丈夫、大丈夫。夢なんだから本当に起こる事じゃないよ」

「そっか」

「ゆうくんは、どんな夢をみたのかな?」


 おとうさんが死んじゃう夢。


 背筋がすっと涼しくなった。子どもの口から『死』という言葉が出てくることのグロテスクさのようなもので、心の中が苦々しくなる。

 だが、「人が死ぬ夢」というのは割とメジャーなタイプの夢だ。夢占いには詳しくないが、ネガティブな印象に反して何かが好転する良い兆候を示す夢だったはずだ。

「そっか~、でもおとうさんピンピンしてるよぉ~。全然元気だよぉ~」

 僕はわざとおどけた態度で自分の身体ごとゆうくんを揺らす。その動きが面白いのか、ピンピンという音の響きが愉快なのか、ゆうくんは部屋に入ってからはじめて笑った。

 そうして遊んだ後、ゆうくんを寝かしつけにかかる。このまま背中をさすりながら会話を続けていれば、いずれ眠りに落ちるだろう。

「怖い夢をみたんだねぇ」

「ううん、もうこわくなくなっちゃった」

「そっかあ。ゆうくん、すごいねぇ」

 褒められて得意になったのか、ゆうくんは先程まで怖がっていた夢の内容を語ることで、もう平気になった自分を誇示しようとしたらしい。むしろ愉しそうに夢の中身を話し出した。

「ゆうくんねえ、おへやで、ねてたの」

「うん」

「そしたらね、ベッドからおきて、おとうさんとおかあさんのおへやにいったの」

「うんうん。そこにおとうさんとおかあさんがいたの?」

「ううん。おかあさんはいない」

 仁美は親友の結婚式に参加するため地元に帰省していた。明日の夕方まで帰ってこない。ここ数日、ゆうくんと二人きりの生活はとても新鮮に感じられた。現実が夢の内容に影響するのだと感心した。こうした夢のことを逆夢と言うのだったか。

「おとうさんと、おんなのこがいたの」

「女の子? それは誰のこと?」

「しらない。みたことないこ」

 テレビかなにかで観た子どもが夢に出てきたのだろうか。それとも所謂イマジナリーフレンドという奴だろうか。

「おんなのこがね、ベッドのしたでわらってたよ」

 なぜだろう。愉しそうに話すゆうくんとは対照的に、僕は先程から背中に嫌な汗をかいていた。夢の内容は、夢なのだから当然だが現実的な内容と非現実的な内容が混ぜこぜになっている。存在しない女の子が出てきても不思議はない。しかし、先程ゆうくんは、僕が死ぬ夢だと言ったはずだ。引っ掛かりが残る。

「どうしてそれでお父さんが死んじゃうの?」

「だって、ちがいっぱいだったから」

「ち?」



 足を持ってベッドの下から引っ張ったら、足がとれちゃうの。

 

 手を持って箪笥の隙間から引っ張ったら、手がとれちゃうの。


 頭を持って天井の隅っこから引っ張ったら、頭がとれちゃうの。


 ゆうくんは愉しそうに話し終えると、急に瞼が重くなり出したかのようにうとうととし始めた。もう少し夢の内容を聞きたかったが仕方がない。椅子から立ち上がって、ゆっくりとした足取りでゆうくんの部屋に向かう。

 ベッドにゆうくんを横たえると、スヤスヤと可愛らしい寝息が聞こえてくる。怖い夢に怯えた夜は、恐怖から解放された反動でぐっすりと眠れるようだった。

 壁に掛けらた時計に目をやる。そろそろいい時間だ。残った作業は明日に回して、そろそろ寝ようか。

 ゆうくんの部屋を出て、そのまま寝室に行ってもよかったが再び仕事部屋に引き返す。机に広がった資料を片付け、PCの電源を落とす。机の上を手で払って、床に落ちたゴミやほこりを手で拾う。

 立ち上がって、なんとなく本棚をいじる。何年も前に読んだきりの本を手に取り、朧気ながら内容を頭に浮かべる。目次に目をとおし、思い浮かんだ内容が書かれていることを確かめる。それを何冊か繰り返す。 

 部屋に置いた時計を確認する。部屋に戻ってきてまだ十分も経っていない。早くも手持無沙汰になった事実を誤魔化したくて、椅子に腰かける。

 再びPCを立ち上げ、メールの整理やソフトの更新が必要だったことを思い出す。いつもなら億劫な作業がすいすい進み、あっという間に片づいてしまった。



 さて、どうしたものか。


 何年ぶりだろう。一人で寝るのが恐ろしい夜は。

 

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