最終話

 弘美が戻ってきた。


「あと三周でライダー交代だから、パドックのテントで待っててくださいって。チーム名が書いてあるから、テントはすぐわかるはずよ」


 それだけ言うと、彼女はもうメカニックたちの会話に何の違和感もなく溶け込んでいった。


 祐二は彼女がレースに関してまったくの素人ではないことを、その時初めて知った。


 この瞬間、レースのことを何も知らずにピットにいるのは祐二だけだった。


 なんとなく取り残されたような気がしてそのまま帰りたくなったが、歩いて帰るわけにもいかない。


 仕方ないので、敦也に言われたとおり、テントで喬一が来るのを待つことにした。


 彼は10分ほどでやってきた。


 真紅のレーシングスーツを着、両方の袖を腰のまわりに結んで固定し、白いTシャツ姿の上半身を剥き出しにしている。


 肌が浅黒く日に焼けて、高校時代に比べ格段に逞しくなっていた。


 額に噴き出す汗を青いタオルで拭いながらテントの下の日陰へ入ってくると、祐二の方へ笑いかけた。


「久し振り。元気そうじゃん、学校の方はどうだい?」


「相変わらずだよ」


 祐二は答えた。


「退屈なもんさ」


「ふうん」


 喬一は椅子に腰掛け、テーブルの水筒から紅茶を注いで飲んだ。


「それより凄いな」と、祐二は身を乗り出した。「本当にレースを始めたんだ。しかも、他の連中よりずっと速い」


「原付の草レースだし、騒ぐこっちゃねえよ。優勝したって賞金も出ないんだからな。そのくせ、エントリー料だけはしっかり取りやがる。こっちは参加するたびに赤字さ」


「そのわりには、みんなピットじゃ真剣そのものだったぜ」


「やっぱり負けたくないのさ。でもダメだ、優勝は無理だよ」と、喬一は忌々しげに吐き捨てた。


「何で?あんなに速いのに」


「もっと速いやつがいるからさ。メカドックの原田って奴なんだが、あいつがいるうちは、おれたちの優勝はないね」


「そんなに速いのか」


「鬼だ」


「おまえの追い越しだって、かなり無茶だったぞ」


「あんなもんじゃねえよ。あれでまだ中学生だってんだから、才能が違うよ。いずれきっと一流になる。あとで見ておくといい」


「そうするよ」と、祐二は肯いた。「それより、彼女はどういう人だい?」


 弘美について探りを入れてみたのだが、喬一は笑って答えなかった。


「女子大生?」


 やはり答えず、喬一はまた紅茶を一口含んで唇を湿らせると、祐二の膝にある紙袋を指差して、逆に訊き返した。


「何が入ってるんだ?」


 答えたくないならまあいいさ。


 そう思い、祐二は中から矢萩玲子の原稿が入った薄茶色の封筒を取り出し、喬一の方へ差し出した。


 分厚く、ずっしり重い封筒だった。


 喬一は眉をひそめた。


「何だこりゃ?」


「小説の原稿だよ」と、祐二は暗い顔で答えた。


「おまえが書いたのか?」


「ある作家が書き遺した最後の小説だよ」


 喬一はいよいよ怪訝そうな顔つきになった。


「どういうことだ?」


 祐二は洗いざらい話した。


「で、おまえにこの原稿をいっしょに読んでもらおうと思ったんだ」


 聞いている間、喬一は椅子に深く腰掛け、腕組みをして何事か真剣な表情で考え込んでいたが、しばらくすると言った。


「おれには読めないよ」


 思いがけぬ拒絶に遭い、祐二は慌てた。


「どうして。読みたくないってことか」


「読みたいよ、そりゃ」と、喬一は厳かな口調で言った。「でも、その小説は彼女がおまえのために遺していったものだ。おまえだけのためにだぞ。そんな大切な原稿をおれが読むわけにはいかないよ。それに、おまえだって絶対他人に見せるべきじゃない」


「そんな簡単に突き放さないでくれ」


「おまえが一人でその原稿を読めない理由は簡単さ。いくじなしなんだ」


 返す言葉がなかった。


 そのとおりだと思った。


 仮に喬一が今の彼と同じ立場だったなら、彼女の原稿をためらわずに読んだろうし、ましてそれを祐二に見せたりはしなかったろう。


 同じようにできないというのは、明らかに自分が喬一より弱いせいだと祐二は思った。


 喬一に原稿の入った封筒を返されると、黙って膝の上に置いた。


 そこへ、血相を変えた弘美が駆け込んできて、喬一は驚いて椅子から腰を浮かせた。


「大変よ、茂くんが!」


 ほとんど悲鳴だった。


「どうした?」


「ヘアピンでクラッシュしたのよ。低速だったからマシンは無事だけど、肩を痛めたみたいで、監督が急いで来てくれって。ライダー交代よ!」


「わかった、すぐ行く」


 喬一はそう答えて彼女を先にピットへ送り出すと、祐二を振り返った。


「わりぃ。ひとっ走りしてくるから待っててくれ」


 彼は笑い、念を押した。


「帰るなよ」


 慌ただしく日陰から出て行くその後姿を、祐二は声もなく見送った。


 自力で夢中になれるものを見つけ、それに向かって少しずつでも確実に歩み続けているように見える喬一が羨ましかった。


 彼のように生きてみたいと思った。


 けれども、祐二には自分が何をしたいのかすらさっぱりわからないのだった。


 行く手に手の施しようのない荒涼たる迷路が茫漠と広がり、言い知れぬ不安に襲われた祐二は、急に玲子に会いたくなった。


 会いたくてたまらなくなった。


 だが、それも所詮かなわなかった。


 祐二はたった一人取り残されたテントの下で、長い間塑像のように動かなかった。


 しかし、しばらくすると封筒を取り上げて、その端を細く切り裂いた。

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彼らの遺してくれたもの 令狐冲三 @houshyo

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