後編

 その後に起きた出来事を、私は断片的にしか覚えていない。

 ベッドの上の二人に向かって中身が詰まってずっしりと重い重箱を投げつけてやった、気がする。

 女が悲鳴をあげて、智昭がパンツをはきながら「いきなり来るんじゃねえよ」とか罵っていた、気がする。


 私はものも言えずに、というか、目の奥がめりって真っ赤になって、頭全体がどくどくと脈打ってるみたいになって、なんか人間やめました、みたいになって。

 手当たり次第に物を投げつけ、ギターが手に触れると、ネックを両手で掴んで振り回し智昭に殴りかかった。

 智昭はやられっぱなしではなく、私は顔やお腹を殴られた、気がする。

 それでも私は泣きわめきながらもがいて、智昭をひっかいたり髪を引っ張ったり、蹴り飛ばしたりした気がする。


 それから記憶が途切れて、いつの間にか私は自宅に戻っていて、私の周りでは友人たちが私と同じように泣きじゃくっていた。「だからあんなヤツやめろって言ったのに」「ひどいよ」「あきちゃんかわいそう」「もっとちゃんと話してれば」

 ぼこぼこになった私の顔にこわごわ指を伸ばしたり、肩を抱いたり、背中をさすったりしてくれながら、みんな泣いてて、私は泣きすぎてひっくひっくとしゃくりあげすぎて、なんか頭がぼーっとなってて、現実感がなくなってた。


 友人たちは「あの男ぶち殺す!」と興奮し始め、それが伝わったわけでもないだろうが、みなで乗り込んだときには智昭の部屋はもぬけの空だったという。

 姿を消した智昭の行方を知っているのかいないのか、〈ベリル〉のメンバーさんたちは黙して話してくれなかったという。

 気持ちのおさまらない友だちは、女の方に突撃しようとしたらしいが、別の友だちが宥めて止めたそうだ。それで良かったと私も思った。あんなクズ男のためにどうして女同士が争わなくてはいけないのか。


 数日間は泣きつぶれていた私だったけれど、どうして自分が泣くのか理由もわからないまま、残ったのは借金返済という現実で、私は何もなかったような顔で社会復帰しバリバリと働いた。

 仕事のことだけを考えるようにしていても逃避は長続きせず、思い出しては情けないやら悲しいやら悔しいやら。涙も枯れ果ててしまえば干上がった心の底に恨みだけがこびりついていた。


 淡々と働き、食べて眠ってまた働き、その繰り返しの中で時々、どうしようもなく心が乱れた。

 そういうとき、私はリサイクルショップにギターを買いに走った。ジャンク品扱いのギターを安価で手に入れ、ネックを握って振り下ろし叩きつけ、何度も何度も叩きつけ、ちきしょう智昭、死ね、死ね、死ね! と叫びながら破壊した。殺してやる、殺してやる!


 そうやって衝動的になりながらも私が自傷行為に向かわなかったのは、一緒に泣いてなぐさめてくれた友人たちのおかげだと思う。

 両親は、もう大人なんだからと傍観に徹していて、見ようによっては冷たいかもしれなかったけれど、それは私を信じてくれていたからで、へたに干渉されずに良かったと感謝している。


 だって、私も心の端っこで信じていた。大丈夫、今はこんなだけど私は立ち直れる、そのうち大丈夫になる、あんな男にこの先の人生までぐちゃぐちゃにされてたまるか。





 借金を返し終えてきれいな体に戻ってから、心機一転職場も変えた。

 今ではギターを壊したりはしないし、まずまず穏やかな日常をすごしている。

 けれどふと思い出しては腹の底が怒りで熱くなる。思い出しムカつきで手が震える。


 食後に合わせてダイキくんが淹れてくれたブレンドの香りを吸い込み口に含みながら、ゆっくりと気持ちを落ち着かせる。アイスではなくホットを選んで良かった。リラックスできるもの。


「雨が上がったみたいですね」

 戸外を窺っていたダイキくんが言った。雨粒を落としていた分厚い雲が流れて、明るくなっていくのが席に座っている私にも見て取れた。

「それじゃあ午後も、頑張ってくるかな」

 コーヒーを飲み干し、ごちそうさまでしたと手を合わせてから鞄を持って立ち上がった。


 ダイキくんに見送られて一歩を踏み出すと、もわもわした外気はさっきよりも緑の匂いが濃くなっていた。

「こうやって、夏になっていくんですね」

 ダイキくんの言葉に頷きながら、熱気を帯びていく日差しに私も目を細めた。

 降り注ぐ光に灼かれた地表から水蒸気が昇り大気の熱を上げていく。でも私の心の底にこびりついた怒りや恨みはちょっとやそっとじゃ溶け出さないし、できた人間でもない私には一気に昇華もさせられない。


 十年一昔というけれど、八年やそこらじゃまだまだ。なかったことにも昔の出来事にもできない。

 尖ったままでブルーノートになりきれない私の音は、まだまだ中途半端に耳障りな響きを発しているけれど。いずれまた、魔法の音にしみじみと聴き入ることができるだろうか。


「ねぇ明子さん」

「うん?」

「夏になったら、レジャーに出かけませんか?」

 一緒に、とはにかんだ笑顔でダイキくんは付け加えた。あらカワイイ。

 でもな、カフェのイケメン店員だって3Bに近いと思うぞ。バリスタってBだし。

「夏はなぁ、紫外線がコワイお年頃だしなぁ、私は」

「オレが日傘持ってバッチリ守りますから」

 ……………………そこまで言われたらな。

「考えとく」

 緩む口元を隠して彼に手を振り、私は雨上がりの道を駅へと歩き出した。


 夏がくればまた恋が始まる、私はまだまだ若い、イイ男はたくさん、そうよ私は懲りないオンナ。なんちゃって。





※自主企画「筆致は物語を超えるか」【初夏色ブルーノート】 https://kakuyomu.jp/user_events/16816452219771446698

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

オトナの短編集 奈月沙耶 @chibi915

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ