中編
智昭は、本人曰く音大出身で、クラシックではなくジャズに進みたいと両親に相談したら猛反対され勘当されて、繁華街に近いボロアパートで独り暮らしをしていた。
本人曰く、であったから真偽は定かじゃないのに、疑うことを知らない当時の私は、智昭が語ることはみんな真実だと受け止めていた。
あやしい身の上話ではあったけれど、智昭はタイコもピアノも叩くし、ギターも弾く、サックスも吹く、マルチプレーヤーだったことは確かで、音楽の知識も豊富だった。智昭が傾けるうんちくに私はよく聞き入り感心し、ヤツはさぞ気持ちよかっただろうなと思う。
そんな智昭が特に滔々と語っていたのがブルーノートだ。クラブやレーベルの方じゃなく、音階のほう。
ジャズやブルースは、アフリカからアメリカへと連れてこられた黒人たちが故郷を偲んで歌った音楽から誕生した。その独特の音程は西洋式の譜面にはそれまでなかった音で、そこで譜面上ではそのあいまいな音を中間の音で表すようになった。
聞きなれない不思議な音、あいまいで、中間で、どこにも属せない音だったから、もの哀しく憂いを帯びているのかもしれない。
ブルーノートを使って構成されたブルーノートスケールを用いて演奏すれば、ジャジーでブルージーな曲になる。でもうんと練習しないとうまくできないんだぜ、と智昭は得意そうにギターをかき鳴らしたものである。
何がジャジーだよ。何がブルージーだよ。今なら鼻で笑えるけれど、すっかり智昭に心酔していた当時の私は、智昭が語るようにジャズについて語り、あ、この音クサいねぇ、ジャジーだねぇ、なんてツウぶっていた。
恥ずかしいにもほどがある。自分をしばき倒したい。
楽曲に加えれば、たちまち哀愁と郷愁と憂いがあふれる魔法の音ブルーノート。あの頃の私も、魔法にかかっていたとしか思えない。過去の私はまるで他人だ。
「〈サマータイム〉なら、一度はちゃんと〈ポーギーとベス〉で聴かなきゃダメだと思うんだ」
智昭がそう言うから、オペラを観に文化村まで出かけた(私のお金で)。
飛び入りジャムセッションで武者修行したいと言うから、プロミュージシャンも訪れるという専門店に一緒に通った(私のお金で)。
有名どころのライブにもたくさん出かけた(私のお金で!)。
バンド活動の費用もカンパしたし、チケットノルマにも協力した。
「音楽のことを偉そうに話してたって、カネもなくてさ。恥ずかしいよね、俺」
憂えたように目を伏せて智昭がニヒルに笑うと、私はきゅんとなって、この人を私が支えて応援するんだ、と甲斐甲斐しくアパートの部屋に食事を届けたりもした。愚かすぎるね、過去の私。
そうして愚かな過去の私は、とうとう借金までこさえてしまったのである。
智昭と付き合っている間に私は就職していたが、社会人になりたての年若い女の子の給料で、はぶりよく男に貢ぎ続けられるわけもなく。
最初はスマホの使用料の支払いが滞ってしまい、給料日までの数日間だけだから、と消費者金融でほんの少額の借金をした。
予定通りにたいした利子もかからず返済できたことにほっとして、それからちょくちょくお金を借りるようになった。
これで智昭の頼みをなんだって聞いてあげれる、そう気持ちが大きくなりさえした。
そんなんだったから、返済のためにWワークでバイトをかけもちしなければならない状況になるのはあっという間だった。
朝も昼も夜も働いて、ライブハウスに足を運ぶこともできなくなった。
心意気だけで音楽をやっている人たちを応援するのが好きで、ケイコさんのカッコよさに一目ぼれしてジャズロックも好きになって、智昭がいろいろ教えてくれたからジャズにも詳しくなった。
智昭はイチから作曲する才能はイマイチだったけれど、人の曲をアレンジすることにべらぼうにセンスを発揮した。
適当に歌詞をのせる替え歌も上手くて、「明子かわいい、明子は女神、俺の天使」なんてよく歌って、私は恥ずかしくて悶え死にそうになるのだけど、でも嬉しかった。
それなのに、朝も昼も夜も働いてばかりの私は、大好きな音楽を聴くことさえままならなくなった。
おかしくない? おかしいよね? でも当時の私はそんな疑問さえ持てなかった。
たまにアルバイトが早く終わって、智昭の演奏に間に合うかもしれないと、真夏の熱帯夜の街を汗だくになって走った。
出番には間に合ったけど「汗臭いよ」と言われて恥ずかしかった。それからバイトの後駆け付けることはやめた。
だからその夜も、いったん自宅に帰ってシャワーを浴びて、それから差し入れの準備をした。
暑くて食欲がないってハイボールばっかり飲んでいたから、食べやすそうなカレー味の炊き込みピラフに、シーフードのマリネ。それらを詰めてずっしりとしたお重を持って智昭のアパートに出かけた。
私自身は音楽から遠ざかっている日々だけど、でも智昭は私のものだ。私はまだそんなふうに思っていた。
智昭にごはんを食べさせて、最近のライブはどんな感じなのか話を聞くのだ。もしかしたら、またお金が必要かも。でも大丈夫、私はまだ働けるし。
そうしてたどり着いた部屋では、智昭が知らない女と交わっていた。
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