〈ヒダリ・マキ戦記〉

朝倉桜

旋風《つむじかぜ》、その流れ右から左にうつろうとき、妖魔が凍える──


 ヒダリ・マキ戦記


            朝倉桜


───────────────

  美術工芸科 第二学年第二組

      左京マキ

   右の者、暴力行為により

   退学処分に処す

     令和三年九月二十一日

   私立 北瑛高等学校

         校長 赤坂等

───────────────


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「顔貸せ、マキ」

 無理です。顔は外せません。貸せません。

「相変わらず無表情だな。能面か?」

「少しは、しゃべれよ。沈黙はキンタマってか~」

 つまんない冗談に迎合のわざとらしい笑い声。こんなのと、これから先もずっと過ごしていかなければならないのか。

「ほんと、しゃべらねえ奴だな、ヒダリ・マキは」

 ヒダリ・マキ──。

 入学してすぐに付いた素敵なニックネームです。いちいちヒダリとマキのあいだを区切って強調しやがるからいやらしい。なんか、いやんなってきたな。

「お、反抗的な目つき!」

「こいつ、やる気みたいだよ。反抗心燃えてますね~」

 当たり前だ。夏休み明け早々、テメエら、なに考えてんだよ。

 善枝が真顔になった。

「体育館の裏、行こうか」

 私は腰巾着に両脇をつかまれて、無理やり立ちあがらされた。

 クラスメートは見て見ぬふりだ。Prime Videoがどうこうと、ぎこちなく上ずった口調で言葉を交わしている。

 フィルターが変色した喫いがらが、まばらに落ちている。じめついた日陰でタバコを喫う。楽しいのでしょうか。

 と、思っていたら善枝ってば、メビウス・スーパーライトをくわえた。取り巻きが火を付ける。

 悪ぶってるくせにスーパーライトかよ。お父さんみたいに五〇本も入ってるピーカン、一日で喫いきって、尻の穴からヤニが出る~とかぼやいてみろってんだ。

 あー、やだやだ、ほんとお父さんてヤニ臭いんだよ。毒をまき散らす煙突だ。白いレースのカーテンとか、いまや茶色ですから。私の部屋でも平気で喫いやがる。お父さんのせいでファブリーズ、手放せません。

「おい」

「はい」

「おめえ、なに物思いに耽ってんだよ。なに考えてた? こっからどう逃げだそうかってか~」

「はい」

「逃げられねえよ。ヒダリ・マキ包囲網、完璧」

「はい」

 いきなり脛を蹴られた。

「ここ、弁慶の泣きどころってんだ。知ってるか?」

「はい」

「痛いか?」

「はい」

「そうか。痛いか。痛いだろう」

「はい」

「──ヒダリ・マキさんてば、てめえ、ぜんぶ『はい』で、すます気か」

「はい」

 善枝の奴、大きく手を振りかざした。こいつってば、見境ないとこあるからな。すぐキレる。なんか家庭に問題、あるのかな。

 けれど、これ見よがしなので対処の時間、充分だ。誰かを殴るときは、予兆を見せたらダメじゃん。どこからパンチがくるのかわからないのがプロってテレビで言ってたぞ。って、プロじゃねえか。不良を気取る、地味でしつこいイジメグループでした。

 拳が頬に当たる瞬間、私、飛びました。

 いかにもブッ飛ばされたという風情を醸しだしはいたしましたが、じつは当たってないんですよ~。

 それよりも脛だ。絶対アザになってるよ。あーあ、まだ我慢しなければなんないのかなあ。耐えなければなりませんか。なりませんよね。耐えますとも。

 でも夏休みが終わって通学したとたんに、これはねえよ。

 いや、入学以来、格好のイジメ相手だった私と、夏休みのあいだ、絡めなくて寂しかったのかな。私の姿が懐かしすぎたのかな。私に飢えてたってか。

 冗談じゃねえ!

 おっと、キレてはいけません。

 我慢、我慢。忍耐、忍耐。忍耐──。

 と、耐えているうちにも奴ら、加減せずにあちこちパンチ、叩き込んできた。

 一応顔は避けるのね。痕が残ると面倒だもんね。蹴りもかまされるけど、足はハイソックスの上からだもんね。

 ほんと、小さいね。せこい。イジメなら、堂々と私の顔を殴ってアオタンの刻印を刻みやがれってんだ。

 ブレザーの襟首をつかまれて、引き倒された。善枝が馬乗りだ。

「こいつの旋毛つむじ、調べるべえ」

「ヒダリ・マキさんの旋毛、どっち向きかなあ?」

「ほんとに左巻きだったりしたら、大洗海岸だぜ」

「なに?」

「大洗海岸。大笑い海岸と引っかけたの」

「だから、なに?」

「わかんねえのかよ~。地理とか、まぢめにやれよな~。ちなみに『まぢめ』の『ぢ』は『ち』に点々です」

 こいつ、なに言ってんだ?

 いや、そんなことより旋毛はまずいよ。

 ほんと、やめて。

 旋毛だけは、やめて。

 しゃべらずにやり過ごすつもりだったけれど、切迫してきたぞ。

「あんたらさ、いつもヒダリ・マキってバカにしながら、私の旋毛、確かめたことなかったのか?」

「ないねえ~。興味の対象外」

 さんざんヒダリ・マキって嘲りながら、そんなもんか。ていうか、こいつらの頭のなかでは確かめる前から左巻きが確定してたんだろうな。

 善枝が私の髪をつかんで顔を持ちあげた。旋毛に視線を落とす。指先が時計回りに円を描く。鼻梁に皺を刻む。

「こいつ、右巻きじゃん」

「どれどれ、ほんとだ。右巻きだ」

「えー、なんだよ、名前倒れかよ」

「なんかムカつくぜ。毛、抜いたろか」

 やめろ!

 あんたたちのためだ!

 善枝の指先がいやらしく旋毛をなぞる。

 旋毛に触れた。

 触れて、しまった。

 ヤバいよ、ザワついてきた。

 なんとか抑えなくっちゃ。

 だめだ。もう遅い。あなたは触れてしまった。

 触れなくたって、本当に私を怒らせてしまえば──。

 怒らせてしまえば!

 髪が逆立って、善枝の手を覆った。

 じわりと巻きついた。

 髪が暴れだしたせいで、シャンプーの香りがする。通販。無添加。高かったけど、どうってことなかった。匂い、なんか石油臭い。

 私はこれから起こることに対して諦めちゃってるから、奇妙な平常心だ。

 いや、この異常な落ち着きぶりと平常心は──旋毛のせいだ。

 嗅覚、その他五感、六感が異様に鋭くなってるのも、旋毛のせいだ。

 やっちまったなあ、チンケなお嬢様方。

 私を怒らせて、旋毛が左巻きになっちゃったら──。

 頭髪が逆立ったまま、渦を巻く。

 右から、左へ。

 右巻きから、ヒダリ・マキへ。

「いつまで乗っかってんだよ」

 掌で押すと、善枝は体育館の壁まで大げさにぶっ飛んでしまった。

 いかん。

 やりすぎたら、いかん。

 力を抑えるのに必死です。

 立って、ハイソックスをおろして、蹴られた脛を一瞥する。

 青アザがするする消えていく。

 さんざん殴られ、蹴られた腹や胸は確かめるまでもない。

 どこにも、痛みはない。

 青アザが消えるのを目の当たりにしていた子が、目を剥いている。名前、覚えてない。確かに私の同級生に対する無関心は、尋常ではありませんな。

 名無しの子に迫る。

「ふふふ。顔、殴ってもよかったんだよ」

「いえ」

「なにが、いえ、だよ。どうせ、すぐ治っちゃうから顔殴ってもよかったんですよって言ってんだよ」

「なんで──」

「治っちゃう? 知らねえよ」

 ほかの子が口をはさむ。

「あの、マキさんてば、そんなガラ悪かったっけ」

 マキさん?

 態度変えすぎだぜ。みんな、なんか怯えてる。でも、いまさら遅いよ。

 そっと頭に手を伸ばす。

 確かめる。

 髪の毛、逆立ったままだ。

 髪の毛、左に渦巻いたままだ。

 おさまらねえ!

 ほんと、ヤバい状態だ。

 こんなの、小六のとき本家に出向かされたとき、新千歳からの帰りに痴漢にあって、快速電車から叩き落として以来だ。

 走ってる電車の窓から蹴落として? やったから、髪は逆立ったままだけど、暴力を振るうべき相手は消えていた。

 ところが──。

 やんなるな。善枝の奴、体育館のモルタルの壁に貼りついて、ぼんやり私を見てる。

「見てんじゃねえよ」

「──誰に口きいてんだよ」

「善枝様だよ。私に視線を絡ますな」

「けっ」

「視線を絡ますな」

「うっせーよ」

「視線を絡ますな」

「はっ、偉そうに。ヒダリ・マキ」

「目を合わすなって三回、注意した」

「!」

 やっとわかったみたい。でも、遅い。

 静かに近づいて、そっと撫でた。

 顎。

 角張った顎──。


. 01


 まいったな。退学処分のお触れ? 華々しく掲示板のど真ん中に張り出されてしまいました。

 暴力行為──。

 まあ、そうですけど。

 でも、しつこく絡まれて、旋毛までいじくられたのは私ですから。

 ったく、ふざけんじゃねえよ。

 夏休みが明けたら狙い澄ましたように体育館の裏に呼びだして取りかこむなんていう古典的なことしやがって、さんざん(でもないか)私の旋毛をいじくりまわしたんだから、骨折を含む大怪我という結果は、いかんともしがたいってやつでしょう。

 皆様方は当然、まったく御存じないでしょうが、誰も私の旋毛に触っちゃいけないことになってるんです。タブー。私の旋毛に触れるのは、私だけ。

 もちろん私が怒りにまかせて力を発散してしまわないように、常に旋毛を意識するように幼いころから言い聞かされてきたデタラメですけど。

 まったく反省していない私は、職員室に出向いて先生を心の中で睨みつけて修学旅行積立金を返してもらい、なんだよ、これっぽっちかと心の中で吐き棄て、私自身は叩き込んだつもりだけれど、現実は教科書その他クラリーノの学生カバンごとゴミ箱に引力にまかせてそっと落とし、首をすくめて見守ってる奴らに心の中で『なに見てんだよ』と凄む。現実に口からでた言葉はというと──。

「さようなら。なんか夏休みが明けたと思ったら、これから先、ぜんぜん通学しなくていいようになっちゃった。清々した気分だけれど、ちょい寂しいな」

「あのね」

「うん」

「こんなことになってマキはきついだろうけど、私たちは内心大喝采だよ」

「そうだよ。よくやってくれたよ!」

 あんたらさ、私が入学当初からイジメの対象だったのにシカトしやがって。あんときだって言いたい放題罵倒されて背中押されて、小突かれて無理やり体育館裏に連れてかれるのを、薄ぼんやり見てただけじゃないか。

「全治四ヶ月。すっげーよ!」

「先生たちもさ、マキ、やむにやまれずやったってわかってるからさ、警察にも連絡しなかったもんね」

 それを事なかれ主義という。やられた側も不良の矜恃? あるいは私に対する怯えで、騒がなかったし。結果、私は高校をクビになっただけですみました。

 って、なんか合点がいかねえぞ。

 ま、いいや。

「善枝さ、もどってきても、もう威張れないよね。指図できないよね。子分たちだってすっかりしぼんじゃってるし」

 アホか。私がいなくなったら、以前と同じだよ。やりたい放題! 善枝はしぼんじゃうというか、当分学校にこられないけど、後を継ぐ者なんていくらでもいるだろ。

 もちろん知ったことじゃないけど。

 寂しいなんて、嘘。せいせいしたよ。

 問題は家だよ。御両親様になーんて申し開きすればいいんだよ。

 マキ、耐えろ。耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ──あんたらの言ったとおり入学してから今日まで、耐え続けたよ。耐えに耐えたよ。我慢に我慢を重ねたよ。

 その結果がこれじゃん。

 私だって感情ってもんがあるんだよ。怒りがあるんだよ。痛みも悲しみも、ね。

 どれだけ苦しかったか。それでも旋毛が左巻きにならないように自分を必死で抑えてきたんだよ。我慢我慢我慢我慢。

 耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ我慢我慢我慢我慢──読点くらい入れやがれ。

 退学を告げられたときは、あ、そうですかって感じだったけど、いまになったら腹がおさまりません。善枝を見舞っちゃおうかな。善は急げ。違うか。

 スマホで検索、かけた。藻岩山の東側にある医療法人・清涼会札幌中央藻岩山総合病院(名前長すぎ)に行くには、バスや市電を乗り継がなければならず意外に面倒だ。

 修学旅行積立金がもどってきたことで気が大きくなっている私は校門を出て、タクシーを停めた。

「お姉さん、女子高生?」

 制服見りゃわかるだろ。バカでも入れる高校の美術工芸科だよ。

「豪勢だね、タクシー」

 金取る運転手が言うな。

「暴力行為で退学になって、いままで積み立ててたお金が返ってきたんですよ」

「暴力行為」

「ちょいと撫でたら、相手の顎、複雑骨折」

「──お姉さん、武道、やってんの?」

「ふふふ」

「怖いなあ」

 タクシーは私の家=マンションがある旭ヶ丘を抜けていく。私んちは病気や怪我といえば慈恵会の病院だったので、札幌中央藻岩山総合病院には行ったことがなかった。

 タクシーから降りて、苦笑いだ。というのも、よくぞ札幌中央藻岩山総合病院という仰々しい名前を付けたなあ──というくらいこぢんまりした古ぼけた病院で、建物の半分は藻岩山にめり込んで見えた。

 私、札幌生まれなのに藻岩山、登ったことがありません。ロープウェイに乗ればいいだけのことなのにね。標高五〇〇メートルくらいだっけ。

 ま、自宅ベランダから山容だけでなくのろのろ上っていくロープウェイも見えるので、本音でどーでもいいっす。

 で、今年は暑かったからお山の緑もくすんでいます。

 病室のドアをノックして、お見舞い、なにも用意していないことに気付いた。

 まあ、いいか。どうせ、なにも食べられないんだし。花を喜ぶようなタイプでもないしな。

 満面の笑みで病室に入る。外観と違って清潔な個室だった。

 後ろ手でドアを閉めると、電動ベッドで上体を中途半端に起こした善枝が、目を大きく見ひらいた。

 頭から頭巾をかぶるように顎にまわされた骨折部分を固定する薄緑色の補助具? や黄色い栄養剤と思われる点滴の管が不規則に揺れはじめた。

 震えているのだ。性格の悪い私は、覆いかぶさるようにして言う。

「善枝の家族とかいなくてよかったよ」

「まだ、やりたりないですか?」

「ふふふ」

「ごめんなさい。許してください。あたしは告げ口してないんだけど──」

 冷や汗? 脂汗? 苦痛に顔を歪めながらも、くぐもって震えた聞き取りにくい小声で必死にしゃべっている。

「ま、露顕ていうのかな、ここまでしちゃったらバレないはずがないよね」

「はい」

「あんたとつるんでた子たち、すっげー口、軽いし」

「はい」

「しゃべるたびに、痛そうだ」

「はい」

「なんで相手を間違ったかなあ」

「はい」

「イジメるんだったら、私じゃない子にすればよかったのに」

「はい」

「不良やるならさ、こいつはいかんとか、こいつはヤバいっていう直感力。必要だよ」

「はい」

「どーでもいいんだけどさ、退院して復学したら、もうやめたほうがいいよ、不良」

「はい」

「向いてないじゃん」

「はい」

「ケンカ、弱いじゃん」

「はい」

「なんでも、はい、かよ」

「はい」

 どっかで聞いたやりとりだな。善枝は慌てて口を押さえた。正確には痛いせいで触れることができないらしく、口を押さえる仕種をした。

「今日、退学になった」

「ごめんなさい。許してください」

「許すもなにも」

「──復讐ですか」

「笑わせるな。これ以上、骨折りする気はないから。これ以上骨折させる気はないっていうのと復讐みたいなことを頑張る気はないっていうことをかけてんだけど」

「はい」

「なんかさ」

「はい」

「性悪な私は、これでちょっとだけ自由な翼を得たような気分。善枝にお礼を言う気もないけどね」

「はい。あの」

「なに」

「ひとつだけ訊いていいですか」

「いいよ」

「あの、あれはいったい」

「なんの話」

「旋毛。左京マキに引っかけて左巻きって冷やかしたじゃないですか」

「うん」

「──怒ってないですか」

「うん」

「失礼があったら謝りますから、続けていいですか」

「うん」

「マキさんは右巻きですよね」

「うん」

「でも、ヒダリ・マキ、ヒダリ・マキっておちょくってるうちに──」

「ふふふ」

「旋毛が台風みたいに逆転しました」

「左巻きになった」

「はい」

「そうなったらね、私は手がつけられないんだな。手遅れ」

「手遅れ──」

「なんか別人だったみたいでしょ」

「そうなんです!」

「私、旋毛が左巻きになると、ほんと、別人になっちゃうんだ」

「──怖かったです。マキさんの目が、怖かった」

「顔つきはそう変わらないでしょ」

「目が真っ赤になって」

「口が裂けてた?」

「いえ。口は」

「ははは。でも、あれは充血じゃないから」

「別人格?」

「そういうのとも違うけど」

「──わからない」

「私にもよくわからないの。遺伝」

「遺伝」

「そう。左京家代々、なぜか次女に遺伝するんだって」

「ちょっとますますわかんないんですけど」

「だから、私にもわかんないんだ」

「そうですか」

「親から、いつも右巻きのまま過ごせって命じられてたの。私、学校ではひたすらおとなしく、目立たないようにしてたでしょ」

「はい」

「だから逆に目に付いちゃったんだね。目を付けられちゃったんだね」

「すみません」

「耐えろ、耐えろ。我慢。我慢。自分に言い聞かせてたんだけどね」

「気付かないあたしがバカでした」

「気付かないって。誰も」

「そうですよね」

「だよね。怒らして左巻きになっちゃうと、アレしちゃうなんてね」

「はい」

「私も必死で抑えてきたわけ。感情を押し隠してきたわけ。でも吹っきれた。出来の悪い表情のない人形みたいの、やめにした。理由はね」

「はい」

「右巻きも左巻きも私だから」

「暴れますか」

「まさか。でも右巻きのままでは生きていかない」

「怖いものなしだ」

「なんで、わかるの?」

「え──」

「アザが消えてくの見た子もいるけど、左巻きのときにした怪我は、すぐに治るんだよ。なんか有り得ない力をあれこれ発揮しちゃうし」

「超能力」

「だと、いいねえ」

「不思議なんです」

「なにが」

「あたし、痛みでまったくしゃべれなかったんですよ」

「うん」

「ところが最初は怖くて無理して必死でしゃべってたんですよ。だけど、だんだん痛くなくなって」

「明日あたり、治ってるんじゃないの」

 善枝は両手で顎に触り、私を凝視した。にこり、頬笑みかけて病室をあとにした。


. 02


 高校くらい出ておかないと──と母は泣き崩れた。フローリング、掻きむしってます。いやあ芝居じみた派手さです。

 おっと、なんなんだよ、高校くらいって。サキちゃんなんか大学出たって少ない給料でこきつかわれるってんで、自分でお店をはじめたじゃないか。(注)お金は他人持ちですけれど。

 遊び暮らせるという意味においては高校生活、まあ悪くなかったけど。濃い青の囚人服みたいな作業服を着て、塑像室で顔の高さに据えた塑像台の上で粘土を捏ねまわすのは愉しかったな。

「よりによって暴力行為──」

 しつこいなと思いつつ、私は精一杯神妙な顔をつくる。

 これが、なかなかに難しい。母の大根役者ぶりがすばらしすぎて、気を許すと吹きだしちゃいそうで。けっこうしんどいっす。

 母はくどくどくどくどあれこれ並べあげ、これ見よがしに涙を流す。だんだんイラついてきたぞ。

「旋毛変異に生んだんだから、しかたないじゃない」

「あ、マキ、開き直った!」

 あれ? いままでの涙はなんだったの? あの修羅場のお姿は、どこへ? 怒りは涙を凌駕する? 涙のあとはそのままに、なんかけろりとした顔してるぞ。

「──で、これからどうするつもり?」

 どうもこうも、なにも考えてませんけど。寝っ転がって和綴じの古書を読んでいる父を目で示す。

「ま、あの方みたいに過ごせればと」

 母は尖った声で受ける。

「つまり遊び暮らすってこと?」

「然様でござる」

「──うちの収入、けっこうカツカツなんだよ」

「でもさ、学費いらなくなるんだから」

「あ、そうか」

 お母さん、あっさり頷き、あっさり納得しました。肩透かしだけど、深追いはしてこない。修学旅行のお金を着服したのは黙っておくことにします。

「じゃ、そういうことでお許しください」

「終わったことだもんね」

「お母さん、ごめんなさい」

「くどくど言ってもしかたないもんね」

「はい。じつは自分のおろかさ、身に沁みております」

「自覚があるなら、いいよ」

 いやあ、危惧していたよりもあっさり終わってしまった。

 家に帰るまではどうなることかとビクビクしていたくせに、もともと私の両親は浮世離れしてるから、こうなるのも必然であると、私は偉そうに頷く。

 母は父を睨むように見る。

 よくいえば学究の人。

 平たくいえば暇人。

 正確にいえば遊び人。

 なにしろお公家さんだから、生まれてこのかた働いたことがないのだ。

 父は私の退学騒ぎに参戦しなかった。私と母のやりとりが聞こえないふりをして読書三昧だ。これも私に味方した。

 なにを読んでいるのかと姿勢を低くして薄茶色に変色した表紙に目を凝らすと、宮本二天玄信とか書いてある。

 膝で近寄り、そっと古本を奪う。

 なんじゃ、こりゃ。絵物語?

「江戸時代の講談。ほら、佐々木小次郎」

「佐々木小次郎? こんなシワシワのジイサンだったっけ」

 父はいかにもカビ臭そうな和綴じを置き、ごろりと仰向けになった。どこまで横着なのか。私にあれこれ言うのに、起きあがる気さえないのだ。もうひとつ付け加えれば、こんな時期に床暖房入れてるんじゃねえ!

「我慢できなかったか」

「できなかった」

「イジメに遭ってたのか」

「遭ってた」

「我慢できなかったか」

「同じこと、訊かないで。入学以来、ひたすら耐えてきたんだよ」

「で、二学期に入ったら?」

「よりによって、あいつら、私の旋毛を」

「そうか。なんともかんとも」

 なんともかんとも? なんじゃ、そりゃ。

「ねえ、なんでマキなんて名前付けたの」

「いい名前だろ。カルメン・マキ」

 はあ? 誰じゃ、それ。

「美人だぞ。すばらしいボーカリストだ」

「そのカルメンさんから名前をもらった?」「イエス、イット、イ~ズ」

「お父さん、アホ?」

「まあな」

「あのね。左京にマキだよ。誰だって左巻きを連想しちゃうよ」

「あ」

「あ、じゃねえだろ」

「それで旋毛をアレされたってわけか?」

「YES IT IS」

「あれ? マキ、エーゴで言った?」

「──ねえ、なんでこんな名前にした? 私がハジケちゃうため?」

「うーん。深層意識には、そーいうのがあったかもしれんな」

「じゃ、お父さんのせいだね」

「それはきつい指摘じゃないかい?」

 無視して母に向きなおる。

「お母さん。私はお父さんと違うから、多少はバイトもするから」

「どうせ、あんたの小遣いでしょ」

「やだなあ、わかってんなら指摘しないで」

「半額、入れなさい」

「そりゃ、アコギだ!」

「いまだから明かすけど、本家からの仕送りが途絶えてるの。もう諦め気味だけど」

「なにやってんだよ、本家」

 本家の手抜き? 財政破綻? それは心配ですね。

 さらに、だな。事の本質ってやつですが、お金の問題じゃなくて、私の退学で深刻になってたんじゃなかったっけ? 私の学びが閉ざされたことに対して深刻になってたんじゃねーの?

 もうお忘れになった? よくいえば後を引かない性格ですこと。このスイッチが切り替わるような性格、私に遺伝してます。

 父は若いころ日本中を放浪してホームレスを極め、幕末の蝦夷地研究をライフワークにすると啖呵を切って、京都は東山、大文字山の麓、銀閣寺と法然院のあいだにある左京本家を飛びだして、北海道に引っ越してしまったのだ。

 気取られないように父と母の様子を見る。本家からの仕送りに二人の気持ちは移っている。私の退学なんて、銀河の彼方だ。

 父が、先立つものがないといかんともしがたいなあ──などとぼやく。

 私に言わせれば、四十年配の夫婦どちらも働くという発想がないところがすごい。

「マキちゃん、どこいくの」

 目敏いなあ。

「トイレ」

 自分の部屋でジーパンに着替える。ジーパンには凝ってます。デニムじゃないのね。ジーパン。LEEの男用ローライズが好みで、自衛隊の十年補償ベルトでおなかをキリリと締めあげる。私の唯一の道楽だな。二千円が上限、埃臭い古着屋に入り浸ってます。

 玄関ドアの音を立てぬよう忍び足、エレベーターフロアに立つ。なんでこんなマンションにしたんだろ。最上階なので地面に降り立つまでに時間がかかりすぎる。

 絶対にお父さんお母さんのお金で買ったんじゃないな。本家から買ってもらったんだ。でも、いまや管理費修繕費等々、払えるんだろーか──と娘が心配しております。


. 03


 ススキノまで四キロくらいか。自転車、漕ぎます。夕陽が私の背を押す。

 東京や京都は残暑が厳しいらしいけど、北海道は見事に澄みわたって涼しい。そのかわり、自転車やバイクは雪のない季節だけだけれど。

 姉は美大を出てデザインスタジオに入社したけれど、一年もたなかった。

 デザインスタジオって気取ってるけど、給料安いんだね~。しかも変に芸術家ぶってるから創作? にかこつけて無給の残業、毎晩だって。

 薄給過ぎるブラック──と毒づいて、あっさりやめて、いまはススキノで水商売してます。

 お父さんお母さんと同様に、本家におねだりして店の敷金とか、出してもらったと私は推理してんだけど、追及すると言葉を濁します。それとも、お金持ちの男の人でもつかまえたのかな。

 はっきり言いましょう。最近の左京家の経済的な支えはサキちゃんの肩に重くのしかかっています。

 はい。いま、その事実を知りました。本家から入金がないなら、サキちゃんにたかる、じゃねえ、頼るしかねーよな。

 いくら売り上げたってぜんぶ吸いあげられちゃう──ってぼやいてたの、嘘じゃなかったのね。だからサキちゃん、おおむね憂鬱な顔してるわけだ。

 サキちゃん自身はおおむねではなく、小胸です。私も、お母さんも小胸です。ほっといてください。

 樫の木かな。重々しいドアを開くと、カウンターが彼方まで続いている。

 長え! 幾人座れるんだよ?

 カウンターバーって聞いてはいたけど、サキちゃん一人でこんな細長い店、切り盛りしてたのかよ。端から端まで行ったり来たりしてたら一日でマラソンの距離超えるね。

「仕込み、ご苦労様です」

 愛想で言うと、姉は顔もあげずに呟いた。

「なんか、やな感じ」

「そーいう言い方するなよぉ」

「うざい」

「そーいう言い方も、するなよぉ」

「さらに、うざい。ま、よろしい」

「へへへ。もーかりまっか?」

「このご時世に景気のいい水商売なんか、あるか!」

「そっか。しかし大きな店だね。正しくはやたら細長い店。一番奥が台所?」

「厨房だ、アホ」

「入り口近くのお客さんの相手して、チューボーに行くの、大変でしょ」

「──ダイエットのために選んだんだよ」

「なるほど。曰く付きか」

「勝手に決めつけんな」

「だって、本来ならサキちゃんのお金で借りられるような店ですか」

「人生、コネ」

「なるほど。あのね」

「なんだよ」

「高校クビになった」

「あ、おめでとう」

 ようやく妥当な言葉が聞けて、私は肩から完全に力を抜いた。

「こんなんだったら、あれこれ我慢しないで進学しなければよかったよ」

「世間をナメとるねえ」

「ナメきってます」

「ま、ナメる世間に鬼はなし」

「まぢっすか?」

「マキみたいに世間ナメきってる小娘はさ、様子のいい奴にだまされたってなにされたって気付かねーじゃろ」

「気づかねーじゃろじゃねえじゃろ」

「気付かなければ、この世は天国」

「御大層な格言、身に沁みいります」

「飲むか?」

「いいの?」

「薄めだよ」

「へい」

 サキちゃんがウイスキーのソーダ割り? をつくってくれた。なんか久々の飲酒だな。元日以来か。すっげー薄い。ソーダも気が抜けてて、なに飲んでんだかわかんねーよ。

 一方で姉ですが、グラスに直接ドボドボ注いでますね。琥珀色~。

 え──。

 一気飲みかよ。

「躯、だいじょうぶ?」

「私ってば、酔わねーんだよな」

「みたいだね」

「それにくらべてマキは仄かに桜色。そんな水飲んで赤くなるなんて、じつに経済的でございますな」

「エコ・マキと呼びなさい」

「エロ・マキ」

「おい」

「ははは」

「はははじゃねえよ。私って、そっち方面と縁がないんだよねー」

「語尾のばして、気持ち悪いよ」

「事実ですから」

「ふーん。私なんか、あんたの年頃はくわえ放題だったけどな」

「くわえ放題」

「なに、息呑んでんだよ」

「処女には刺激強すぎます」

「大切にしな」

「処女?」

「うん。興味本位でクサレとやっちゃうと、ちょい後悔するよ」

 ふーん。サキちゃん、後悔してんのかな。

「男は難しいね。優しい奴って、クズでゴミで猿」

「猿?」

「やりたいだけ。やりたがるだけ」

「じゃ、優しくない奴は?」

「やっぱクズでゴミで、豚」

「どっちもどっちじゃなあ」

「まったくだ。ただし」

「なんじゃろ」

「これは、女にも言えることだな」

「つまり男女同権」

「そ」

「男も女も変わらない?」

「そ」

「どっちもクズでゴミで豚で猿」

「そ」

「痛てーなあ。それが真実?」

「そ」

「サキちゃんもクズでゴミで豚で猿?」

「そ」

「私もクズでゴミで豚で猿?」

「そ」

「──人生じゃねえ、人間の深淵を教わりましたな。フォッホッホッホッホッホ」

「あ~あ。マキは気楽でいいよ」

「気楽なりに、いろいろ苦労してんだって。学校もクビになっちゃったしね」

「あんた、履歴書書くとき、中卒って書くんだよ」

「なんで中卒?」

「当たり前じゃん。高卒か?」

「いえ。退学です」

「マキはさ、絵が上手だろ。私なんかよりよっぽど才能あるよ。マンガ家になれよ」

「軽く言うなあ~」

「マキは読書家だし、いいんじゃないの」

 読書家? 友だちとつるめば我慢や忍耐の限界を超えちゃうときがくるかもしれないでしょ。それが怖くて引きこもって本ばかり読んでたんだよ。

 お姉様。妹は対人恐怖でございます。ただし対人はそつなくこなします。どこか逃げ腰だけど。

 サキちゃんはマンガ家マンガ家と連呼している。

「読書家だとマンガ家?」

「絵だけ描ける物真似類人猿ばかりだから。ちゃんと筋書き、こさえられる奴だけが生き残るんじゃねえかな」

 なんかその気にさせられそう。なるほど。確かに高橋留美子先生なんか絵も筋書きも素晴らしいもんな。

「マンガ家、以前ほどじゃないにせよ、儲かるだろ」

「まあ、売れれば、そうでしょうね」

「マキ。我が家の国難、助けろよ」

──我が家の国難?

「経済的なこと?」

「イエス、イット、イ~ズ」

 おまえは、お父さんか。

「今日聞いたんだけど、本家から金が届かない?」

「うん。今年の四月以降、入金なし」

「で、サキちゃんが」

「そーだよ。必死だよ。今年の四月以降。すなわちマキの学費もだぜ」

「ごめん。そうとも知らず。いや、今日知ったんだけどね」

「マキ、せっかく退学になったんだから、今日からここで働け」

「え──」

「なに絶句してんだよ。カウンター内の長距離競歩を折半しよう。分かちあおう」

「だってまだ年齢が」

「なーにが年齢だよ。へーきで酒飲んでるくせに」

「これって水でしょ。ソーダ水」

「ほっぺ赤くしてなに言ってんだよ。だいじょうぶ。マキには飲ませないようにするからさ。しつこい客はちゃんとアレするから」

「あのね」

「なんだよ、深刻なツラして」

「あのね、退学になった原因はね、旋毛が左巻きになっちゃって、暴力行為」

 姉はしばらく私の顔を、いや頭部を凝視して、いきなり瞳を中空に向けた。

「ヤな客が絡んだりして左巻きになっちゃったら、ヤバいなあ。接客業に向かんなあ」

「──サキちゃんがきっちり間に入ってくれれば、耐えられるかもしれないけど」

「マキさ、ガキのころ痴漢にあって、電車の窓から痴漢、抛りだしちゃっただろ」

「走ってる快速ね」

 抛りだしたってのは微妙だけどね。

「痴漢、死にかけたね」

「そうらしいね。車内の私にはわかんないことでございます」

「手足もげちゃって、ダルマだってさ」

「まぢかよ!」

「二度あることは幾度もある」

「やめてよ」

「とりあえず旅費、稼げ」

「なんのこと」

「京都にいく金」

「なぜ」

「お祖父さんに挨拶してこい」

「えー、やだよ。口臭いし」

「マキには、役目があるんだよ」

「役目。なんじゃ、そりゃ」

「お祖父さんに聞きな。あと、ちゃんと金振り込めって。私が推察するにだな」

「うん。推察するにだな」

「お祖父さん、流行りにのってネットバンキングに変えたらしいんだよ。銀行屋の差し金かもしれんけどな」

「あ、ネットバンキング以降、お金が届かなくなった?」

「たぶん。振り込みに変えるって連絡があったらしいんだけど、お祖父ちゃん、振り込み方わかんねーんじゃねえかな。なにせ百七歳ですからね。ワンタイムパスワードなんて、お祖父ちゃんの超老眼じゃムリだよ」

「誰かにまかせりゃいいじゃない」

「いやあ、ケチだから。金の管理だけは誰にもやらせん!」

「やらせんか」

「やらせん。で、うちの親って生活能力ないくせにさ、見栄張りじゃないか。お祖父さんにまったく連絡とってない気がする」

「で、私が行くの?」

「私には店があるでしょ。いま離れられないよ。この問題がクリアになるまで、誰が左京家の経済を支えるの?」

「わーったよ」

「フテてんじゃねえよ。初秋の京都、私が遊びに行きたいくらいだ」

「遊びじゃねーし」

「ケチなんてバリゾーゴン吐きましたけど、よくわかんないんだよね。気前いいのか悪いのか。お祖父ちゃん誑かして、小遣いもらえよ。私の分も」

「あのねえ」

「少しは還元しろってんだ。あ、いらっしゃい。今日はまた早いね」

「うん。まだ、準備中?」

「いいのいいの。なーんにもできないけど、座ることはできる」

「ははは。サキちゃんには敵わん」

「マキ。マンジョーメさんて書いてあるボトル」

「あ、はい」

「誰、可愛いねえ。美人だねえ」

「万城目さんにとって、女はすべて可愛くて美人だもんね」

「いやあ、まあ、そうだけどね」

「マキ、氷割って」

「これ──ですか」

「それ」

「どーやって?」

「砕けばいいんだよ。アイスピック!」

「はい」

「新人?」

「妹のマキです。今日から接客専門です。よろしく」

 え──私が接客!?

「なんか驚いてるみたいだよ」

「万城目さんが男前なんで、緊張してるの」

「ああ、そういうことか」

 え──男前?

「いやあ、なんか華やぐね」

「年増で悪うござんした」

「いやあ、俺はサキちゃんに首ったけだからね。よそ見はしない」

「だから、真っ直ぐマキを見てるってか」

「はははは。だって、なんか、お姫様」

「は?」

 大げさに腕を拡げて肩をすくめたサキちゃんを睨みつけて、割り込む。

「は、じゃねえだろ」

「ガラ悪いなあ。これでもお客さんだよ。お客さんの前だよ」

「これでも?」

 私と万城目さんの厳しい視線を浴びて、サキちゃんは口を尖らせて開き直る。

「こんな、お客さんに支えられて〈すずめばち〉は一周年を迎えることができました。ご恩顧、感謝致します。記念の品は時節柄ございませんが、一周年記念の引き出物として出来の悪い妹がテキトーにお相手致します」

 サキちゃんが焼きうどんをつくるために厨房に引っ込んだとき、そっと訊いた。

「なんで、あんな居丈高というか、配慮に欠ける姉の店にくるんですか」

「サキちゃんはね、絶対に俺みたいな抜け作を見放さないから」

 すごい思い込みだな。あんな薄情な奴はいねえぞ。

「抜け作なんですか?」

「うん。かなり抜け作」

「会社とかでも、抜け作?」

「うん。会社勤めはしてないけどね、仕事はしてるよ、トーゼンです。で、よく雇ってくれたな、よく働かしてくれるなって」

「ふーん。よくわかんないけど、よい雇い主でございますね」

「って、抜け作を肯定するなよぉ」

「ふふふ。万城目さんは可愛い」

 とたんにドギマギする万城目さん、もう、面白いったらありゃしない。いやいや、それではいけません。

「飲み物の作り方とか、教えてくださいね」

「いいよぉ。ワンフィンガーってのはね、ボトル一本のこと。だからワンフィンガーでねって注文されたら、黙ってボトルを出す。値段はそこ、それに書いてあるでしょ」

「なるほど。ツーフィンガーだったら、ボトル二本。スリーフィンガーは」

「さすがに飲めねえだろ」

「なるほど。けどウイスキーって、ずいぶん安いんですね」

 にっこり笑ってサキちゃんが目玉焼きの載った焼きうどんをテーブルに置いた。

 こりゃ美味そうだ。万城目さんは黄身をくずしてうどんに絡めてフーフーしながら頬張る。私のところにまで焦げた醤油とカツオ節の匂いが漂って、たまりません。

「さて、ワンフィンガーがボトル一本ですって?」

「あ、聞いてたの?」

「聞こえるでしょう。でかい声で」

「そりゃ、そうだ。しかしサキちゃんはワンフィンガーがボトル一本を示すってこと、知らんかったまま水商売はじめた?」

「ええ。知りませんでした」

「じゃ、今後ちゃんとするように」

「はい。いまをもちましてワンフィンガー、十万円に値上げさせていただきます」

 なんだ、このやりとりは。冗談まじりに交わされる言葉を聞いていると、どうやらワンフィンガーとはウイスキーをロックグラスに注いだとき、グラスの底から指一本分くらいの高さ──であるらしい。

 サキちゃんと万城目さんは、じつに愉しそうにやりとりしている。けれど、そこにどんどんお客さんがやってくる。開店時間には、満席になってしまった。

 こうなると私にできることなんて氷を割って洗い物をするくらいしかない。サキちゃんは料理自慢だから食べ物のメニューも多い。それが災いして、てんてこ舞いだ。

 万城目さんのようなお金のない人が頼む焼きうどんならすぐできるけど、なーんで飲み屋で定食みたいの、それもやたらと凝ったのを出すかなあ。

 自家製デミグラスソース山形牛厚切りソテーセットとか、本栖天然ブラウントラウト昆布だしバタームニエルセットとか、なに考えてるんだ、私の姉は。

 セットでしょ。だから添え物がたくさん付いてるわけ。これじゃ、洋食屋じゃないか。いや和洋中取り揃えております。

 腹を空かせてカウンターにずらり並んで夕食を食べにきた? お客さんのお腹が一杯になって一段落した時点で、訊いた。

「なんで、こんなメニュー?」

「はい。今日という今日は、打ちひしがれております」

「いつもこれを一人で、こなしてたわけ?」

「あのね」

「うん」

「いつもはね、まったく客、入らねえんだなー。〈すずめばち〉ってば閑古鳥の巣。どしちゃったんだろ、一見さん、大襲来。わけわかんねー」

 ずっと大人しくしていた万城目さんが、大きく頷く。

「ね。いつもだったら俺くらいなんだよ。俺だって、常連になってたいしてたってないしね。あとは数人」

「うだうだ長居するだけの常連頼りの悲しき商売でございます。ほんと、どーしちゃったんだろ。マキ、なんかやらかした?」

「はい?」

「マキが来たからだよ。マキが惹きよせたんだ」

 万城目さんが、またもや頷く。

「そう。そのとおり」

「マキのおかげで千客万来。ありがたいような、迷惑なような」

「なんなん? 私のせいか?」

「それ以外、考えられへんわ」

「京都弁で逃げるな」

 お客さんが一巡して、出てった空白に、こんな具合にやりあってたんだけど、すぐに新しいお客さんが手加減せずにやってきて、またもや忙しくなったので会話は立ち消えとなったのであった。

 客はいいよな。注文して飲み食いするだけだから。もう必死です。私のできることは精一杯やらしていただきました。

 翌午前二時、ようやく閉店です。食べ物を供しているから遅くまで営業していても怒られないらしいが、サキちゃん、仕込みの時間もいれて、いったい何時間働いてるんだ! 呆れました。

 まあ、お客さんが閉店を告げたとたんにすっと席を立ってくれたことが救いでしたが。

 でも──。

 まだ万城目さんはカウンターで氷の溶けたウイスキーをちびちび舐めている。ワンフィンガーのウイスキーを。それも国産の一番安い、サキちゃんに言わせると麦焼酎にカラメルで色付けたやつを、味わっている。

 まさか万城目さんが彼じゃないだろね。サキちゃんをチラ見すると、じつに冷たい眼差しで言った。

「そろそろお引き取り願えませんかね」

 私も乗っかる。

「不肖妹も疲れ切っております。閉店時間を過ぎました。他のお客様は快くお帰りになってくださいました。どーか、お引き取りしてもらえませんかねってんだ・敬具」

「柄の悪いお姫様だなあ」

「はいはい。猫かぶりの達人ですから」

「あのね」

「なんでしょうか」

 冷たく突き放したつもりなのに、万城目さんは満面の笑みだ。さらに口許の笑みを消さぬまま、鋭い目つきで私を見あげた。

 射貫く眼差しだ。なぜか怯んでしまった。

「これだけは伝えておかなくてはならんと、眦決してこうして粘ってるわけです」

 姉が割り込んで茶化す。

「私に対する恋心? 万城目さんは御立派すぎて私と釣り合いませんのことよ。ご辞退申しあげますわ」

 万城目さんは無視して、いきなり私を指差した。

「マキちゃん。今日のお客、ほとんど妖魔」

「よーま? なんですか、それ」

「妖しい魔。妖魔」

 アタマ、だいじょうぶか?

 ところがサキちゃん、じっくり万城目さんの顔を眺めまわし、納得したぞ──といった顔つきで言った。

「そっかぁ。そういうことか。そういうことだったのか」

「サキちゃん、なんなん?」

「なんなんでしょね」

「万城目さんも、だいじょうぶ?」

「アタマ?」

「そ」

「でも事実だからね」

「そう。事実なのよ」

「万城目さんとサキちゃん、グルでおちょくってる?」

「おちょくるなら、妖魔なんて言わんよ」

 万城目さんもサキちゃんも、考え深げに黙りこんでしまった。半分明かりを落とした店内は、すっかり影に支配されている。

「マキさ、退学になった暴力行為って、なにやらかしたの?」

「軽くね、顎なでたの」

「まさに文字通りなでた?」

「そう。触っただけ」

「そしたら暴力行為」

「うん。三カ所折れて、さらにあちこちにヒビが入っちゃったんだって。御飯食えねーじゃん。栄養の点滴してたよ」

「おっかねえ奴だな、我が妹」

 サキちゃんを受けて、万城目さんが呟くように尋ねてきた。

「マキちゃん、抑えたんだよね、それでも」

「うん。抑えた」

 大きく頷き、一呼吸おいて続ける。

「私、お父さんお母さんに、いつだって我慢我慢我慢我慢耐えろ耐えろ耐えろって言い続けられてきたんですよ。それがちゃんと残ってたから。叩いちゃいけないって。殴っちゃいけないって」

 サキちゃんが指先をひらひらさせて問いかけてくる。

「で、触った」

「そ。触った。ふわって」

「──殺しちゃわなくてよかったね」

「うん」

「一般人だからね」

「うん。妖魔なら、かまわない?」

 悪ふざけでおどけたら、万城目さんが静かに割り込んだ。

「妖魔を弑するために、その力があるんだから」

「しいする?」

「殺す」

 真顔かよ。真顔だ。万城目さんもサキちゃんも真顔だよ。おっかねえ~。

「旋風、その流れ右から左にうつろうとき、妖魔が凍える──ってね」

 万城目さん、真顔変わらず。茶化すしかないでしょう。

「どんな言い伝えなの? やってらんねー」

「私、ちゃんと読んでないけど、本家に旋風のことを記したものがあるはずだよ」

「はいはい。私の力はちょい変です。危ないとも思います。けど、ヨーマはねえよ」

「ずっと確かめてたんだ。お姫様の旋毛を」

 どーりで万城目さん、グラスを洗ってる私の頭ばかり見てたわけだ。

 洗い物するときって、ちょい頭が下に向くじゃん。その真ん前に座っててさ、ときどき旋毛に視線が刺さって、変態かよこのオッサンって思ってたんだ。

「頭頂部フェチかよって呆れてた」

「うん。お姫様に関しては頭頂部フェチ」

「私、お姫様?」

「力のこと、本家に報告していない?」

「するわけないじゃん。て、万城目さんっていったい何者?」

「そろそろ目覚めてもいいんじゃないかってことで、本家より派遣されたお目付役」

 サキちゃんが小莫迦にした調子で嗤う。

「お目付役ね。ぶっちゃけ下級職員じゃん」

 万城目さんは少し顔をしかめた。

「ほら、その力を際限なく発揮したら、とんでもないことになるでしょう。だから俺がちゃんとコントロールする」

「どう、コントロールするの?」

「それしちゃダメ、あれしちゃダメ。お控えください」

「──あ~あ。我慢と忍耐を強いられていたいままでと変わらねえじゃんか」

 私のぼやきに、サキちゃんが拳を噛むようにしてクツクツ笑う。

「万城目さん、私の妹ってば、はっきり言って頭悪いの。自分が悧巧だと思ってるから始末に負えないんだけどね。どうか原子炉制御棒役、よろしく」

 原子炉制御棒? なんなんだよー。仰るとおりバカだから、わかんねーよー。

 反撃に出ますね。だって妖魔だよ。この令和の世に妖魔。凄すぎます。

「今日いらしてたのは妖魔の方々?」

 皮肉っぽく迫ると、サキちゃんは頷き、万城目さんは真顔で断言した。

「そう。様子見だね」

「妖魔が西陣皿うどん、食うのか。西陣てなに? たかが五目堅焼きソバじゃん」

 サキちゃんがカカカと笑う。

「ねえ。妖魔が真っ先に皿うどんのヤングコーンだけつまんで食ってんの、笑えたね」

「じゃねえだろ! 妖魔にしたら、大人しすぎるだろ。みんな、ちゃんとお会計して、美味しかったですぅ──とか笑顔で言っちゃってさ。飲み屋で美味しかったですって、なんですか。うちは和洋中なんでもござれの食堂でございますか?」

「よくしゃべるねえ。美味しい物が食べられる店がやりたかったんだから、しかたねーじゃん」

 居直りの言葉を吐くと、私よりも勢いこんで長々と続けた。

「そんなことよりさ、万城目さんに妖魔って指摘されて合点がいったんだけどさ、あいつら変に下手にでて愛想がよくて、理想的なお客さんだった。けっこう飲みやがったけど酔いもしねえしね。なんか薄気味悪いなあって思ってたんだ。ありゃあ節度を保ってたってよりも、絶対にビビってたね」

「ビビってたねえ。マキちゃんのオーラに内心、俯き加減だった」

「オラオーラってか?」

「ははは。マキちゃんのジョーク、冴えないね」

「いちいちカチンとくるなあ、一度勝負しようか、お目付役」

「マキ。そういうこと、言うな。私にもよくわからんけど、基本、マキの役目はこの人を守ること」

「この人って、万城目さん?」

「イエス、イット、イ~ズ」

 万城目さんはうんうんと頷いている。

 なんかもう脱力です。気、抜けました。サキちゃんが昨日の残りの炭酸でつくってくれた超薄いウイスキーのソーダ割りみたいな私です。でも、あれで酔っちゃうんだからな、私。トホホ(死語)。

「マキ。小六ん時の痴漢の顛末、ちゃんと語りなさい。私も詳細、聞いてないんだ」

「聞いてないもなにも、誰にも詳細、話してないから」

 月経はまだか? などという含みもなにもない問いかけを京都のお祖父さんから受けた帰り、新千歳空港から札幌に帰るために乗ったエアポート──道民にはお馴染みの快速列車。

 乗り込んだら公園の長いベンチみたいなシートの車両だった。悪評高いやつだった。しかも大混雑、座れなかった。

 子供は立ってなさいってか? 否応なしに立ちましたとも。

「ロングシート。733系だね。通勤形車両 ってやつだ」

「万城目さんってば、テッちゃんか?」

「うふふふふ」

 なに嬉しそうに笑ってやがるんだよ。高校にもいたよ。鉄分たっぷりの小僧。ちょっとでも受け答えしちゃうと、勝手に興味があるって決めつけて、撮った写真とか無理やり見せて、訳のわからん型式名なんかを延々と捲したてる垢抜けない男子。

「チコーって呼ばれてたな。垢抜けないに引っかけてあるんだって」

「アホ」

「なんでサキちゃん、眉顰めてんの?」

「いいか、外で口にするんじゃねえぞ」

 なにを言ってるかわからん姉を無視して、万城目さんに視線を投げ、この人もチコーかよと思うと、なんか落ち込み気味です。


──お臀になんか警棒のようなものが押し当てられているのに気付いたのは、どのあたりだっただろう。

 私も狼狽していたから、よく覚えてないけど、そろそろ北広島ってあたりかな。後ろに立った中年のオジサンだった。

 いかにも痴漢てM字ハゲな世棄て人っぽい人じゃなくて、身だしなみバッチリで、整った顔して、なにも痴漢なんかしなくてもそれなりにモテるんじゃないかなって中年。

 髭の剃り跡が妙に青々しくつやつやしてたのが記憶に残ってるな。やめてくださいって声なき声をあげながらぎこちなく振り向いたら、驚いた!

 出してたんだよ!

 警棒、出してた!

 ガキだからってナメてるのか、頭変なのかわからんが、それを私のジーパンのお臀にあてがってくるわけだ。

 あ、そのころから私はジーパンが趣味で、背が伸びてきて大人の古着にも手を出せるのが嬉しかったなあ。って、それは本筋から外れますね。

 私、怖かった。気持ち悪かった。吐きそうだった。

 毛が逆立った。

 なんか旋毛がざわざわした。

 意を決して言った。

「やめてください」

 とたんに男は仕舞っていた。

 ちゃんとズボンの中にもどしていた。

 マジックか。

 あるいは小六の私には警棒のように見えたけれど、じつは即納できるほど小さかったのか。

 いまだに比較対象をもたぬ私にはよくわかりません。

 が、とにかく証拠隠滅してた。

 でも近くに座っていたお姉さんが、男のチャックが降りているのに気付いて、咎める眼差しで見あげた。

 それで男は狼狽えた。お姉さんと私を交互に見て、私に視線を据えた。

 男の唇が動いた。

 赤い──。

 いま思うと、目のことだな。あのときはなにが赤いか、わからなかったな。

 私がクールに見つめると、男の唇がわななくのがわかったよ。

 私は一歩踏み出しました。居丈高な小学六年生。

 とたんに男は逃げようとした。

 逃げる?

 走っている快速のなかで、どこに?

 私は履いていたコンバースの爪先で蹴ったんだ。男は背を向けて逃げていたのでピカピカに磨きあげられた革靴の踵に当たった。

 だって腹が立ってきたんだもん。

 逃げようとする男に、腹が立った。

 恐怖、消えてました。

 腹立ちが私を覆いつくしていました。しかも変に冷静だったな。

 蹴ったら──。

 男はポワンて宙に浮いていた。シルク? 高価そうな臙脂のネクタイをつかんで、大きく目を剥いた。

 自分で首絞めてるみたいだったけど、そうじゃなかった。

 自分で自分を引っ張って浮きあがっちゃったように見えたな。

 マジックの空中浮揚か──って感じ。

 開いてるチャックを咎める目で見たお姉さんの頭上に躯が至った。

 本当は私が蹴ったせいで躯が浮いたんだろうけれど、やっぱ、なんか、いっしょうけんめいにネクタイを引っ張って宙に浮こうとしているように見えた。

 男は宙に浮いたまま、全身をピシッと伸ばした。

 おいおいやっぱ大魔術か。

 窓、開かない列車です。

 いきなり──。

 窓一面に縮緬皺みたいなヒビが入った。綺麗だったな。微細な線で刻まれた白銀のエッチング。

 窓のガラス、粉になって消滅です。

 車内にキラキラした派手な虹の七色をまとった粒子が帯になって吹きこみました。とてもガラスとは思えなかったな。

 あ、ガラスでは誰も傷つけませんでした。じゃない、誰も傷つきませんでした。

 いや、話がずれた。

 男です。男はマジックの空中浮遊みたいに床と水平に浮かんでて、吹きこむ風を受けて電車内スーパーマンだったな。

 自分でぐいぐいネクタイ引っ張って、自分で車外に飛び出しかけてた。

 なんとか外に飛び出さないように、もう必死。堪忍、勘弁、許してください~とか、あがいてるんだ。

 うざい。すごく、うざい。

 もう行きなさい──って軽く顎をしゃくったの。

 男は、窓から吸い出されちゃいました。

 あっさりしたもんだったな~。

 空飛ぶ人間、はじめて見た。

 じゃねえ、快速だから、けっこう速度でてる。

 死んだら、ヤバい!

 って思ったな。

 エアポート、間抜けなことに一分くらいかな、突っ走って急停車しました。当列車から落下したお客様とかアナウンスしてたな。

 とうぜん到着は遅れます。

 札幌駅で待ってたお父さんお母さん、さんざん文句言ってた。遅れたのは私の、いや痴漢のオヤジのせいだから、どーしようもないのにね。

 あ、お姉さんが証言してくれた。この子に痴漢してて、見つかって、逃げようとして窓から外にダイブしたって。

 ありえねー。

 でも、まあ、窓ガラス霧散ていうの? 消えてたし、男は(実際は見てないけど)線路に転がってたしで、そういうことでってケリが付いちゃった。

 お姉さんは私の顔を覗きこみ、もう、充血消えた? 怖かったね──と優しい声をかけてくれた。

 充血? 私は奇妙な気分だった。

 あとでお母さんから、あんたは怒りを覚えたり感情が昂ぶったりすると、物の怪みたいな目になるの──と教えられた。旋毛もなんたらかんたらって呟いてた。ついにこの日が来てしまった──と嘆いてもいた。

 物の怪ってな、母が娘に贈る言葉か!

 あれからオジサンがどうなったかは、知らなかったな。重体って噂は聞いたけれど、まったく心は痛まなかった。

 私にとっては終わったこと。どーでもいいこと。ほんと、私ってあと引かねーんだ。

 って、これは加害者ならではの特徴かな。加害者って、痛くねーから忘れるよね、やったこと。イジメられ歴が長い私です。よーくわかります。

 いや、よく考えたらこの場合、私が被害者だったんだけどね。

 サキちゃんによると、外見は高給取りサラリーマンぽかったあの男、両手足が消滅しちゃったみたいだ。

 それでも首が取れずに生きてたのは、死んだら、ヤバいって一瞬私が思ったからだ。なぜかそんな確信がある。

 命を助けてやった──てなことは欠片も思いませんが。

 いい歳して小六の子供に、あんなことして愉しいのかな。私が弱っちく見えたんだろうね。固まっちゃって我慢すると踏んだんだ。

 弱い者なら、食っちゃってかまわないってか。いま思い返してもイヤな男だ。最低だ。

 はっきりさせておく。私がしたのは軽く蹴っただけ。靴の踵に触れただけ。

 なによりも、すべてに対してリアリティがない~。

 髭剃りあと青ツヤオジサンは、自分でネクタイをつかんで、自分で引っ張って宙に浮かんで、車外に飛び出したんから!

 しつこく言うけど、ネクタイ引っ張って大ジャンプ。器用なもんだ。

「だねー。物理法則、無視してるよ」

「でも、それが真実」

「うん。認定」

「なにを?」

「お姫様認定」

「はあ?」

「だから、姫に決まったということで」

「姫の頭にくっついていた『お』と、うしろの『様』はどこへいった?」

「意外に細かいですね。では以後、マキちゃんと呼びますね。外でお姫様とか姫って言ってたら、そのチヤホヤぶり? なんか怪しいから、関係、疑われちゃうでしょ」

「万城目さん、充分怪しいんだけど」

 サキちゃんが口も隠さずに大欠伸した。

「もー、帰ろうよ。ラーメンでも食って、帰ろうよ」

「姉上」

「なんじゃ」

「それはよろしいですな。じつによろしい」

「輝風にでも行くか。万城目さんのおごりでな~」

「まだあそこの醤油、食ったことないの」

「いかん。道民は、あくまでも味噌だぞ」

「そうか。味噌一筋か」

「そ。まして万城目さんのおごりだべ」

「えー、俺かよ」

「せこいなあ。本家に付けといて」

「あ、それならいくらでも御馳走します」

「いくらでもって、ラーメンだから」

「餃子つけてもよろしいです」

「それはよろしい。じつによろしいですな」

「マキは、それしか言えねーのか。だいたい輝風は餃子、ねーし」

 あれこれ言い交わしながら〈すずめばち〉をあとにした。


. 04


 サキちゃんは、お店のドアの鍵のキーリングを人差し指に差してチャラチャラまわしている。

 息が白くなるのはまだ先だけれど、私は肌寒さに両手をポッケに突っこむ。

 万城目さんは、なんかスキップしそうな足取りだ。美女二人にはさまれて、そりゃあ嬉しいでしょうとも。

〈すずめばち〉を出て、路地を抜けて数分でススキノ交差点だ。ラーメン屋は少し南に下がったところだ。市電の線路がゆるやかにカーブする交差点を渡る。

 左手に麦、右手にグラスを持った恰幅のいい王様みたいなイラストのニッカウイスキーの看板を見あげて、しみじみ思う。サキちゃん、案外いい場所に店を持っている。

 そろそろ午前三時だけど、まだまだフラついている人がけっこういます。ネクタイゆるめた赭ら顔のサラリーマンが左右に蛇行しながら近づいてきます。オジサンてば、いつ寝るの?

 こんな夜更けに、こんなたくさんの人出。サキちゃんの言うことを信じるなら、なぜ普段の〈すずめばち〉に客が入らない? 妖魔専用だから? 妖魔の方々、私が目当て? あわてて否定する。

「いや、いや、いや」

「どした?」

「なんでもねえっす」

 万城目さんも怪訝そうに言う。

「烈しく首振ってましたね」

 ちらっと万城目さんを見やって、だいぶ私は、このオッサンだかオニイサンだかよくわからん人に毒されてるぞと眉をひそめる。

 万城目さんは私の顔つきなど一切気にせずに、ニッカの王様の反対側のマクドナルドの前を示した。

 あれ、マック、あいてねーぞ。日曜日は二十四時間やってなかったんだっけ?。

 いや、そんなことじゃない。万城目さんは閉じているマックの前に立っている全身真っ黒けを指さして、遠慮のない声をあげた。

「マキちゃん、変な人」

 変な人はオメーだろ──と胸の裡で毒づきつつも、ついつい見てしまう。

 丑三つ時の修道女。

 コスプレかよ。

 でも、ずいぶん年寄りっぽいぞ。

 頭巾? かぶって躯は足許まで隠すゆるいスカート? とにかく黒いです。風にたなびいてます。出てるのは顔だけだけど、よー見えまへんな。黒衣が夜風にあおられる。なんか中身がないみたい。だぶついた黒豹か。闇が保護色だぜ。

「なにしてんだろ? お婆さん」

 万城目さんに訊くと、のんびり顔で言う。

「募金みたいだねえ。胸になんか下がってるみたいだよ」

「こんな時刻に?」

「陽射しが苦手なんじゃないかな」

 ふーん。なんだ、それ。

 それはともかく、みんな素っ気ないね。シスターがまったく見えてないみたいに前を抜けていく。

 全身黒ずくめ。じろじろ見るのも失礼だけど、夜に溶けこんでいるようでいて、やっぱ逆に目立つわぁ。

「よし。善行を施すぞ。募金する!」

 無謀にもサキちゃんは信号なんか見もせずに交差点を斜めに横断しちゃった。夜の札幌って、みんな、すっげー飛ばすからね。轢き殺されちゃうぞ。

 サキちゃんはシスターとなにやら親しげにおしゃべりしてる。私と万城目さんは、ちゃんと信号守ったから、でかい交差点だし、けっこう遅れて到着です。

 大入り満員の〈すずめばち〉で気を大きくしたサキちゃんが満面の笑みで、なんと一万円札をシスターが胸に下げた募金箱に投入したではないか。

「これほどたくさんのご寄付、感謝の言葉もございません。なにかあったとき、必ず神の御加護がございます。実利は不浄とは申しますが、きっとこのご寄付、幾倍にもなってあなたさまの元に返ってくることでしょう」

 幾倍にもなるってか。私も募金したほうがいいかな。いいよな。あせるぞ。

 まてよ──。ご寄付することに対して吝かでないのですが、あいにく小銭しかございません。しかも百円玉と十円玉というていたらく、せめて五百円玉を奮発したかったでございます。いや、気は心ですか。

 って、なんで私までババ臭い口調になってるんだろ。もちろん心の声で、ほんとにしゃべってるわけじゃないけどね。あ~あ、返ってきた積立金、サキちゃんを当てにして持ってきてなかったんだよね。

「シスター、小銭しかないけれど、いいですか?」

 皺だらけの顔でにっこり笑ってくれた。

「額の多寡など問題ではありません。あなたさまの心が全てです」

 私はジーパンのコインポケットからありったけ──百円玉二枚と十円玉五枚を引っ張りだして、募金箱に投入!

 いやあ、なんに使うのかしらんけど、善いことをするのは気持ちいいですなあ。額は少なくたって小さな積み重ねですよね。

 どうだ、と万城目さんを振り返ると、とても柔らかな笑顔が返ってきた。

 でも──。

 万城目さんの目、笑ってねーぞ。

 なんだよ、その陰険な目つき。こんな夜更けにお婆さんが頑張ってるんだぞ。万城目さんも寄附しろよ。

 私の咎める眼差しを無視して、万城目さんはシスターの正面に立った。

「お名前は」

「マザー・テレスと申します」

 なんじゃ、そりゃ。

 誰だっけ? 聞いたことがあるような、微妙に違うような。ちょい怪しくないですか。ま、いいか。

 だって、漆黒のフードをかぶったマザー・テレスの潤いあふれる黒々とした瞳を見つめていると、じわり癒やされて躯から力が抜けていく。吸いこまれそうだよ。

「フードではありません。コルネットと申します」

 私、しゃべってないのに、なぜわかる? 怪訝に思いつつも、高校のブラバンの金ぴかラッパが泛ぶ。

「コルネットってトランペットみたいなやつじゃなかったっけ?」

「英語ではございません。ラテン語でございます」

「あ、そうですか。いろいろ複雑ですね」

「そうですね。世界は複雑です」

 そういう意味で言ったんじゃないけどね。ま、いいや。お婆ちゃん相手に事を荒立てるのも大人げないってやつですよ。

 精一杯の作り笑い、愛想笑いを泛べていると、マザー・テレスの表情がすっと引き締まった。

 皺が消えちゃったよ。気合い入りすぎ?

 この人、なんなん? と見つめていると、いきなり怒鳴りつけられた。

「左京マキ!」

 え──。

 なんで知ってる?

「ヒダリ・マキ!」

 またもや、いきなり、ですね。ヒダリ・マキ。

 旋毛は、落ち着いてます。

 万城目さんは緊張しきった真顔で、ほっぺがカチコチだよ。

 サキちゃんは私とマザー・テレスを交互に見較べて、なにか言いたそうだ。サキちゃんを目で促すと、よりによって──。

「ねえ、マキ。とっととすませてね。輝風、四時までだから」

 はい? ラーメン屋の閉店時間、心配してんのかよ。ま、私も腹ぺこだからして、とっととすませたいっす。って、なにをすませるんですか?

「初めての敵にしては、難敵です。マキちゃん、心して」

「って、万城目さん、なにを心するの?」

「マザー・テレスは妖魔です」

「ははは」

 と空笑いした直後、頬がビシッと爆ぜた。

「あら、やだ、マキってば、ホッペ切れてるよ」

 サキちゃんの指摘に、そっと指先でさぐった。札幌、乾いているのかな。もう血が粘り気味。

 ヤバい。旋毛がざわついてるぞ。私、冷静にならないと。

 マザー・テレスは十字架のついたロザリオを振りまわす。

 なんか空気が刃になっている。

 景色が歪んで空気が波になっているのがわかる。CGかよ。すっげー! またホッペ切られちゃったらたまらんから、必死で逃げまわります。

 が、逃げられません。マザー・テレス、凄い運動能力。右に左に撥ねてるつもりだけどふにゃふにゃギクシャク揺れながらも、確実についてくる。

 すげえーな、お祈りのためのロザリオが武器。初対面の私に向かってやたらめったら切りかかる。神様、怒るよ。

「マザー・テレス」

「なんでしょう」

「それってロザリオでいいんですよね。ラテン語?」

「──はい。ラテン語です。日本で言う数珠ですね。大珠が六つ。小珠が五十三。そして逆十字。それらを鎖でつないだものです」

 説明してるよ。なんなんだ、このお婆さんは。暇?

 そのわりには切迫っていうの? すっげー追い詰められた顔してる。深い皺が折りたたまれたみたいになって、じつに奇妙な立体造形でございますな。

 いや、私も、ロザリオについて、なに質問してんだ? 

 って、これ、人じゃねえよ!

 見たことあるよ! ホラーで、ね。

 マザー・テレスの顔、悪魔系ですね。ホラー映画で一瞬だけ見えるやつだ。

 もうちょっと、よく見たい。だって、そうそう悪魔になんて逢えんでしょ~。

 私が一歩踏み込むと、マザー・テレスは大きく後退して──。

 飛んだ。

 まいったなあ、背中に黒くてでっかい翼が生えてるよ。巨大蝙蝠だな。

 ばっさ、ばっさ、ばっさ。

 ぽかんと見あげてると、万城目さんが私の臀を叩いた。このセクハラ野郎め! 万城目さんが大声をだす。

「とっとと飛ばないと!」

「はい?」

「だから、飛んで!」

 こう? と、ぴょんと跳んでみました。

 ったく、付き合ってられねーよ。ごく手抜きで跳ねてみました。

 あれ、あれ、あれれれ、足が地面につかないんですけど。

 どーしちゃったんだ、私。

 ありえへん~。

「マキちゃん、漕いでください!」

「漕ぐ?」

「少しでいいから手足を動かして! 立ち泳ぎみたいに!」

 なんのこっちゃ。

「早くしないと落下してくるから!」

 落下?

 万城目さんの視線を追って、ひょいと夜空を見あげると、すっげー勢いで巨大蝙蝠が私めがけて落ちてくるではないか。急降下ってやつですね。

 激突したらヤバいっす。交通事故なんてメじゃない感じ。

 あせって、漕ぎました。

 雑に手足バタバタ──。

 あれ、浮かんでいくぞ。

 じゃねえ、上昇してる。

 私、舞いあがってるぞ。

 この間、ほんの数秒といったところです。ごく間近をマザー・テレスが抜けてった。危機一髪ってか。空気を引き裂く甲高い音が、あとからついてきた。

 で──。

 ぐわっしゃ!

 マザー・テレス、歩道に激突。

 いやはや、頭、なくなっちゃった!

 すげえな! 特攻隊。

 歩道に大量の黒い液体──血液か。フニャッてるのは脳味噌かな。まるで抽象画。美術工芸科中退の私は、なんでも絵に見えてしまうんだよな。

 まいったな。

 まちがいない。

 首から上がなくなっちゃったよ。

 翼が痙攣気味に弱々しく動いてるし。

 でも、私、なーんにもしてないし。浮かんで、よけただけだから。で、勝手にマザー・テレスが墜落してきただけだから。

 あれ、降りれねーぞ。

 どーなってんだよ、浮かびあがってくばかりじゃん。やばいよ。浮かびすぎれば、マザー・テレスみたいに最後は地面に激突しちゃうぞ。

 だって、引力。

 だって、重力。

 サキちゃんに言わせると、頭悪いとのことですが、そんなアホな私にもわかるわい。落っこちたら死んじゃうよ! マザー・テレスの二の舞じゃんか!

 万城目さんとサキちゃんが、地面で頭がなくなっちゃったマザー・テレスと、宙に浮かんでどんどん上昇していく私を交互に見較べている。

 首なしマザー・テレスをはるか下界に見おろすくらいまで上昇してしまい、どうしたものかと悩み疲れて、ようやく立ち泳ぎしなければいいのか──と気づいた。

 で、こんな時刻なのに赤青白緑黄橙とネオンが明滅してるのを見おろして、なんか人間て際限ねーな、と一人前の感慨を抱く。

 奇麗だけどなんか不細工な、巨大な札幌の夜景。碁盤の目の通りを車のテールランプの赤が細長い帯になって流れていく。

 ラリったことはないけど、なんかいけないオクスリでも決めた気分です。

 ぼんやり中空に浮かんでいるうちに、地上よりも湿り気が強いことに気付く。

 雲に近いから?

 私って、すっげーな。

 試しに立ち泳ぎから平泳ぎに変えてみる。おっ、速いね。なかなかです。水のあの粘っこい抵抗がないから、夜空をすばらしい勢いで泳げます。時速二百キロ? まさかね。

 いやあ、ジーパンでよかったよ。スカートだったら下界からパンツ丸見えでしょ。これから先も飛ぶことがあるかもしれないし、ジーパンは必須ですな。

 って、私、なんか夢を見てるのかな。

 じつは、自分の部屋で枕に涎垂らしてニタニタしながら眠ってんのかな。

 そんな疑念が湧いたけれど、私に吹きつける夜風はあくまでも上空のもので、しっとり私の躯を濡らします。その風にあおられる髪の毛の一本一本まで、完璧に見えます。

 夢だとしたら、こんなに詳細な夢を見るのは初めてだ。

 だって夜の藍紫の香りがするんだぜ。しかもその清浄な香りに、地上の毒ガスのような排気ガスなんかが混じっていて、それはそれで私によく馴染む。

 肌は冷気にきゅっと引き締まっていて、いつもの日々のだらけた肌とは別物だ。これはこれで気持ちいい。

 うっとり、しっとり。

 最高の気分だ。

 えっ!

 いきなり眼前に首なしマザー・テレスがあらわれた。私とちがって、バッサバッサ羽ばたいてます。

「勘弁してくださいよ、いい気分にひたってたのに。結局、悪夢かよ~」

 愚痴ると、首なしシスターは、私に向けてロザリオを繰りだす。

 やだな、マザー・テレスの首。切断面に蛆虫が詰まってる! 厭らしいクリーム色が動きに合わせて宙に撒き散らされる。

 下界のサキちゃんに降りかかっちゃったらどーしよう。万城目さんはべつにいいや。

 いや、そんなことじゃない。

 信じられん! こいつ、屍体じゃん!

「ねえ、もう終わりにしませんか」

 ほんと、私、ほとんど哀願の口調です。

 しゅっ!

 ヤッベー。せっかく伸ばし始めたた髪が、はらはら散ったぞ。いきなり中途半端なショートカットになっちゃった。

 うわ、また顔、狙ってるよ。

 マザー・テレス、地面に落ちて頭部顔面その他首から上に付いていた物がなくなっちゃったことを逆恨みしてるみたい。

「なんか言ってください!」

 と叫んで、我に返る。

 顔ねーんだから、口もない。脳だってないよね。しゃべれるわけない。

 でも攻撃は的確だ。かろうじてよけてはいるけれど、私の頭を破壊したいらしく、次々にロザリオが迫りくる。

 あっ! そうか。私の旋毛を潰す気だ!

 もちろん危急のときですから私は見事な左巻きになって、髪逆立ててる。

 結果、ロザリオが頭の上をかすめるたびに髪が舞う。

 かんべんしてよ~。

 たぶん私の頭、てっぺんの髪がほとんどなくなっちゃってさ、カッパだぜ。

 こうなると旋毛なんかどうでもいい。私は私の髪の毛を守る。

「お婆ちゃん、いい加減にしろよな」

 抑えた声で付け加える。

「首もねーくせに」

 さらに小声で付け加える。

「バッサバッサ羽ばたかねーと、まともに飛べもしねえくせに」

 あ、私の言ってること、わかるらしい。たじろいだよ。

 マザー・テレスは無言で──あたりまえだね──反り返り、老体を鞭のようにしなわせて、私にむけてロザリオを繰りだした。

 もう、私は、よけない。

 しゅっと夜を切り裂いて近づいてくるロザリオの先を、中指の爪の先で軽く弾いた。

 バとパの中間の音たてて、ロザリオは分解した。大珠六つ。小珠五十三(教わったことは覚えてますよ)、一瞬宙に浮かんでいるように見えた。

 けれど、いっせいに地面に向かって落ちていき、すぐに視野から消えた。十字架だけがしばらく宙に浮いていた。

 十字架だけど、なんだこりゃ? キリストが逆さまに釘付けされてる。

 ま、いいや。世界はいろいろ複雑です。はい。マザー・テレスの教えです。

 武器をなくしたマザー・テレスはうろたえてます。私はスイッと空を泳いで、マザー・テレスの背後に行く。

 マザー・テレスだって素直に後につかせてなるものかってとこだけど、なにせ相手は翼で私はジェット戦闘機?

 いくらマザー・テレスが足掻いても、私は背後にぴったり密着だ。

 チョン、チョン、チョン。

 人差し指の先でマザー・テレスの蝙蝠の翼の黒い膜に穴を開ける。

 こりゃ、おもしろい。

 マザー・テレス、必死にバランスを取ろうと頑張ってるんだけど、穴が開いた翼のせいで、まともに飛べない。

 なら、もう一息──チョン、チョン、チョン。

 面倒臭いからゲンコツで、ボコッ!

 一瞬静止したように見えたんだけど。マザー・テレス、くるくる回って、錐揉み状態で落ちていきました。

 マザー・テレスとやり合っているうちに私はすっかり空を自在に飛べるようになっていて、すっかり短くなってしまった頭のてっぺんをさすりながら、まいったなあ──とぼやきながら地面に降りていく。

 なおホッペの傷は気にしません。経験上、治っちゃうことがわかってる。でも、髪はたぶん当分、生えねえよ。傷とちがうしね。

 ちょっと憂鬱な気分で、歩道に降り立ちました。

「マザー・テレス、落ちてきた?」

 サキちゃんが、交差点中央を示す。

「あれが?」

「そう。地面に激突したら、灰になっちゃった」

 万城目さんが、いきなり私の手を握ってきた。

「いやあ、お見事。さすが姫」

「マキちゃんて呼ぶんじゃなかったっけ」

 言いながら、万城目さんの手を雑に振りほどく。

 私の目は交差点のど真ん中で真っ黒な灰になってしまったマザー・テレスの姿に釘付けだ。もうじき朝じゃん。それなのにススキノ交差点、まだ人が歩いてる。

「こんな派手なことしたのに、誰も気付いていないみたいだね」

「うん。妖魔との戦いは、関係者にしか見えないものだからね」

 そうか。戦いなのか。でも、観客がいないと、やりがいねーよ。

 ていうか、なんなんだろ。私、マザー・テレスが嫌いじゃない。灰にしちゃって、なんだか申し訳ない気分だ。

 それに、なぜ、妖魔と戦わなければならないのか。その理由が皆目わからん。

「あーあ、もう輝風、閉まっちゃってるよ」

 私がアホなら、姉はアタマ変です。

 だって妹が空飛んじゃったのに、悪魔顔のマザー・テレスとススキノ上空で大空中戦をしたっていうのに、ラーメン屋が閉まっちゃったってぼやいてるんだから。

 ふう。溜息みたいな息が洩れたよ。

 と──。

 天から中途半端に光を放ちながらなにか降ってきた。

 歩道に小さな欠片みたいなものがぶち当たる。チャリチャリーン。

 小銭じゃん!

 あ、なにやら舞いおちてくる。

 万札じゃん!

 サキちゃん、満面の笑みってやつです。だって、ひらひら落ちてくるお札は三枚。ほんとに倍以上になって返ってきたぞ。

 でわでわ私も小銭をかき集めましょう。腰を屈めて投資回収──あれ?

 二百四十円しかねーぞ。

 十円、足りねーぞ。

 数倍どころか、減ってるぞ!

 どっかに飛んじゃったのかな。執念であちこちさがした。見つからない。

 結論。これは意図的なものです。

 掌の中の百円玉二枚。十円玉四枚。

 笑みがこぼれた。マザー・テレスの心尽くし、ちゃんと取っておこう。

 一段落だけど、もう朝だぜ~。

 まいったな。夜更かし女子高生。あ、元か。

「サキちゃん、空中戦のせいかな、さすがに腹減った」

「あんたがとっととケリつけないから、輝風閉まっちゃったじゃないか」

「え? 私が怒られるの?」

「そーだよ。反省しやがれ」

「なんて理不尽な姉」

「年長者なんて、そんなもんだよ。よく覚えとけ」

「永遠に忘れませんとも」

 憎たらしく返したが、空腹には勝てませんね。甘え声で迫る。

「サキちゃん、なんかやってる店は?」

「知らねーよ」

「万城目さんは?」

「知らんですなあ」

 スマホチラ見、午前四時四十九分。

 マクドナルドの朝マックは七時だっけ? なんだよ~、この中途半端な時間は。

「マキ。帰ろ」

「だね。家でサッポロ一番でも煮るか」

「それがいいね」

「あの、俺は?」

「くる?」

「はい!」

「ただし私はもー、料理すんのやだ。マキがおもてなししろよ」

「へいへい、姉上様」

 ウキウキ顔の万城目さんがタクシーを停めた。自転車は放置だ。車内に落ち着いて、そっと交差点に目をやる。

 抜けていく車にマザー・テレスの灰はあおられて、もうほとんど消え去ってしまっていた。私たちの乗ったタクシーが、マザー・テレスの灰を完全に消し去った。


続く

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〈ヒダリ・マキ戦記〉 朝倉桜 @BUBIWO

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