第3話

「大丈夫か?」

 身支度をととのえながらロバートが聞いた。この場合、ホールでの任務に戻らなくてもいいのかということを意味する。それを知ってか知らずか、ヴィクトールはあいかわらず闇の中で、チェシャ猫のようなにやにや笑いを口もとに浮かべていた。

 海岸であがった花火につられて出てきたらしい、人々のさざめきが聞こえる。

 すばやく腕時計に目をやると、二十分しかたっていなかった。もう一時間近く抱き合っていたような気がするが……。

「迷ったと言えばいい」

 答えに、ロバートはちいさく笑った。たしかに、渡り廊下は客室棟から客室棟へ蜘蛛の巣のように張りめぐらされており、松明の灯かりでは目的の棟にたどりつくのはむずかしかった。

「つぎはいつ会える?」

 ヴィクトールが訊いた。決まっている予定をたずねるのでも、場所の約束をするのでもなく。

 ――この男は、おれが確実に来ると思っているのか?

 それが当然だと言わんばかりの口調に、ロバートは眉をひそめた。

 いちど主導権イニシアチブを握ったら、何があろうと離すな――士官学校の教えが頭をかすめる。この男に関してはどうしてかこれまで、自分の行動を抑制できないでいる。流れをこちらに引き戻さなくては……。

「わからない。半年後か、一年後か……。演習があるかもしれないしね」

 他人が聞いたらそっけないと思われるくらいの事務的な口調で、ロバートは答えた。

「おれがこんな、クソみたいなパーティーに出るのは、」一言ひとこと、砂を噛みしめるようにヴィクトールが言う。

「もしかしてあんたがいやしないかと思うからだ。社交界ここはおれのいる場所じゃない。おれはパーティーに出るたびに、あんたを探す。金モールの林のなかから、おれは必ずあんたを見つけ出す……」

 どうして自分がだとわかったのかと尋ねたロバートに、「ウミツバメは嵐を嗅ぎわける」。はじめて会ったとき、ヴィクトールはにやりと笑ってそう言った。

 その言葉どおり、いまやお互いがお互いにとって嵐の目になりつつあった。ロバートにはとくに、望んでもいなかった嵐に。

 会えば、顔を見るだけですむはずがない。他国の将校とことさらに親しく、しかも秘密裏につきあうのは、推奨される行為ではない。おおやけにできない関係ではなおさらだ。経歴上の汚点となりかねない。

 しかし、その危険をあえて冒すほどヴィクトールを愛している――のかどうか、彼には確信がもてない。ふたりとも、一緒に映画を観たり、手を握ったりするだけで満足できるような時代はとうに過ぎ去ってしまっていた。

 それに、ロバートにとって恋愛の相手というのは、突然あらわれては通りすぎてゆく驟雨しゅううのような存在でしかなかったからだ。だれかをとらえるのも、だれかにとらわれるのも、彼にとっては無縁のことだった。これまでも、そしてこれからも……?


 ふたりはここにやってきたとき同様に、そ知らぬ顔をして別れた。

 レセプション・ホールへ戻る前に、ロバートは洗面所へ立ち寄った。クリーム色の大理石でつくられた洗面台には、塵ひとつ落ちていない。

 曇りのない鏡に、かすかに耳朶を紅く染めた自分の姿が映っている。

 彼は手を洗い、ついでに、顔にも水をかけた。いくぶん乱れてしまった髪を撫でつける。

 ――これで、情欲の痕跡をごまかせるだろうか……。

 ホールでは花火を観にテラスへ出ているものも何人かおり、海軍将校がひとり抜けたからといって、気に留めているものはいないようだった。

 彼は給仕から、よく冷えたシャンパン・グラスを受けとると、窓のそばに集まっている一団の会話にさりげなく加わった。

 ヴィクトールが、親子といっても通るような婦人をエスコートしているのを、ロバートは視界のすみにとらえた。今夜のパーティーの主催者、大使夫人だ。

 夫人はヨーロッパの乾いた空の色をした、淡いブルーのイブニング・ドレスを身につけている。細身の婦人に寄り添うヴィクトールは、その体躯と肌の色もあいまって、森の中心にそびえ立つマホガニーの大木のように見えた。

 ヴィクトールをともなって、大使夫人は外交官や高級将校に挨拶をはじめた。どうやら出席者全員にひとことずつかけて回るつもりのようだ。

 ふたりがすぐそばにくると、ようやく気づいたとでもいうように、ロバートは夫人に微笑んだ。

「たのしんでいただけたかしら?」

 花火のことを言っているのだ。ロバートは窓の方へ首をめぐらせた。

 今しも、大輪の赤い花が咲いたところだ。近いところで上げているらしい。花火が上がるたびに、太鼓のように空気を震わせる爆発の音がする。

「ええ、すてきな趣向ですね、マダム――あなたのご発案ですか?」

「夫が好きなのよ」

 みごとな白髪の大使夫人は、少女のようにころころと笑った。

「にぎやかでしょう? それに、とってもきれい。夫もね、急に出席できなくなったのをとても残念がっていたわ。――ご紹介するわ、こちら、フレーザー海軍大尉よ」

「はじめまして」ロバートは右手をさしだした。

「ロバート・アトウッド――イギリス海軍大尉です」

 眉ひとつ動かさず、ヴィクトールが握りかえす。

「こちらこそ。たのしんでいただけたならさいわいだ。ヴィクトール・フレーザー大尉です」

「またどこかでお会いするかもしれませんね」

 社交辞令のようにロバートは言った。その場に居合わせただれの耳にもそう聞こえただろう。しかし一瞬、ヴィクトールは満足げに目を細めた。

 承諾の印のように。

 夫人とヴィクトールは会釈してその場をはなれた。

 ――おれもおまえを見つけだすだろう……。

 ロバートは心のなかでひとりごちた。

 ――おまえがおれを見つける前に。

 そのときに、嵐を避けて身をひそめるか、ただなかに船を進めていき嵐と対峙するかを決めねばならない。彼とて海軍軍人の、船乗りのはしくれなのだから、巻き込まれた嵐を避けては通れない……。

 ふたたびスコールが近づいている。テラスにむかって開け放たれたフランス窓から、雨の匂いを含んだ空気が流れこんできた。


 End.

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Squall 吉村杏 @a-yoshimura

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