第3話
二日目
「おはようございます」
そう言って事務所を訪れたのは正午のことだった。今日は遅番の勤務なので正午から午後九時までの勤務だ。おはようございます、というには少し遅すぎる気もするが時間帯関係なく職場に来たらおはようございますと挨拶をして欲しい、という施設長からの指示だったので浅見は心の中でちょっと遅くないか、と思いながら挨拶をする。浅見の挨拶に返事をしたのは昨日もいた介護リーダーの石井と数人の職員だった。一番奥の事務所を見渡せる位置にある机に座っている施設長の姿は無かった。
「染谷施設長は今日はお休みなんですね」
「えぇ、明日は来る予定ですよ。何か施設長に用事でもありましたか?」
はい、と言おうとしたところで口を塞ぐ。つい昨日ロッカーで見つけたメモの事を聞いてしまいそうだったからだ。普通なら話しても良いかもしれないが、手紙の内容や呪いの部屋といい施設長には何か秘密がある。そしてそれを守る為には手段を選ばない、かどうかは分からないがとにかく今話すのは得策ではないと思った。
「いや…前に私のロッカーを使ってた人ってどんな人なんだろうってふと思っただけで…」
その言葉を聞いて数人の職員が驚いたような顔をして浅見を見た。その中でただ一人、石井だけが柔らかな表情から一瞬凍りつくような冷たい目をしたのを感じたが、すぐにいつもの石井に戻っていた。浅見は背中に悪寒を感じたが身震いを抑え込む。
「事情があって辞めちゃったんですよ。別に深い理由なんてないですよ?其れがどうかしました?」
「いや…気になっただけなので…」
「そうですか。私はこれから面会の対応があるので、浅見さんは昨日と同じく塚越と一緒にフロアに入ってくださいね」
そう言うと石井は必要書類を持って事務所から出ていく。扉が閉まるのと同時に二人の職員が足早に近づいてきた。
「浅見さん、大丈夫?」
「あの話はやばいって聞いてなかったんだ…」
「あの、あの話って?それにさっきの石井さん…どう考えても普通じゃなかったですよね?」
浅見の問いかけに職員は顔を見合わせて話すべきかどうかを迷っているようだったが、聞こえないように耳打ちしてくる。
「浅見さんのロッカーを使っていた前の人、失踪したのよ。あの『三一五号室』に入ってね」
「呪いの部屋…ですか?」
「そう。
そうなんですね、と返事をしてメモを思い出す。その話を聞くとあのメモの内容的にこの施設の何かを知った光嶋尚美は、三一五号室に入ってメモを残し、消えてしまった。そして石井の反応を見る限り光嶋尚美の失踪、もしかしたら三一五号室の秘密にも何か関係があるのかもしれない。
考えているうちに二人の職員は時間だからとフロアに上がっていく。事務所に一人になった浅見は居室の入居状態が書かれたホワイトボードを見る。三一五号室の欄は空白、入居待ち状態である空室とも書かれていなかった。ふと二階の居室の状態も見てみる。
「あれ?一部屋だけ空室?」
二階の居室にも三一五号室と同じように空室とも書かれていない部屋があった。それは二一五号室、建物の構造から見ると三一五号室の丁度真下に位置する部屋だ。特に何か繋がっている訳でもないと思うが、それでも気になってしまった。まさか、と思いながら一階フロアの居室の欄を見る。一階はレクリエーションルームであったり食堂であったりと基本的に居室は存在しない。建物の構造を知りたいので何か地図は無いか、若しくは見取り図の様なものは無いかと探していると、後ろから肩に手を置かれる。
「わっ?!」
「あっ、ごめんなさい?いや、何か探し物かなって…」
大きな声で叫んだ浅見の声に驚くように後ずさりするのは教育係の塚越だった。浅見はすみません、と謝ると開けていた引き出しを閉める。
「いえ、もう見つかったので大丈夫です…大きな声を出してすみません」
「こちらこそ、声を掛けずにいきなり肩を叩いてごめんなさいね。今日は遅番だから、夜九時までよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
浅見は塚越が奥の更衣室に入るのを確認すると、静かに息を吐いて心を落ち着かせる。正直、こんな物色している所を石井に見られていたら、と思う。先程の冷たい表情を見て、明らかにこの施設の秘密に関わっている。その秘密に少しでも触れようとする行動を見られればどうなるか分からない。人柄からもそんな事をする様な人には思えないが、人間何がきっかけで豹変するか分からない。施設の秘密を探る、と決めた訳では無いが、もしそうするなら慎重に行動しなければと思う。タイムカードを押して、浅見は塚越と共に三階のフロアに上がっていく。
フロアに上がり、連絡事項を確認してから遅番の仕事に取り掛かる。すると、フロアに白衣を着た男性と看護師らしき女性がいるのが見えた。
「あれは?」
「あれは往診の先生です。身体が不自由な方が多いですから、提携している病院の先生が定期的に施設に来てくれるんです。他にも義歯の調節をする歯科の方やマッサージの方なども来ます」
「そうなんですね。医者の方から来てくれるなんてありがたいですね」
「往診の先生は毎週木曜日に来ることになってます。往診の日は入居者様全員のバイタルを計らないといけないのでちょっと大変ですよ」
塚越は苦笑いして、遅番の仕事に浅見と取り掛かる。遅番の仕事は洗濯物を返したり、翌日の記録物の準備などをする。もちろんその間のコール対応も同時にやっていく。
午後二時になるとお茶とおやつの時間になるので、浅見は塚越の指示の元、お菓子を食堂に取りに行く。食堂も相変わらず豪華で大きな作りだった。介護施設という事を知らなければ、ホテルの大ホールの食堂にしか見えない。作りに感心しながら厨房の前に用意されていたお菓子を持って三階に戻る。
「それじゃ、お菓子の時間は食事介助と水分介助をしながら介護記録を書いてください」
「分かりました」
介助が必要な入居者の横に座り、食事介助や水分介助をしていく。時折、美味しいですか等と話しながら進めていく。ただ口に物を入れればいい訳では無い。食事とは本来、誰かと話しながら楽しく美味しいものを食べる楽しい時間だ。それを無表情で何も話さずにただ淡々と食事を口に運ばれても何も楽しくなく、美味しくもならない。認知が低くなり反応が薄い人でも話しかければちゃんと返事してくれるのでこういったコミュニケーションはとても大切なのだ。介助が終わるだろうか、というところまで来たところで横から肩を叩かれる。少し驚いて振り向くと、そこに居たのは昨日介助に入った野原という男性だった。
「どうだい、もう慣れたかい?」
「いやー、まだ二日目ですしまだまだ緊張してますよ」
「まぁそんなに気張るこたぁないよ。ここに居るのは老い先短い老人だけなんだから。こっちも気軽に接してくれた方が嬉しいしね」
冗談を混じえながら朗らかに話す野原を見て、施設に入ってもこんな笑顔ができるのはここでの生活に満足しているからなのかもしれない。施設に入れられて見ず知らずの人にいきなり自分の生活に踏み込まれるのは気持ちのいいものでは無い。もちろん家族は長生きして欲しいという思いから施設に入れると思うが、本人はきっと家族と暮らしたいのだろう。忙しくて介護ができない、介護をやるのが嫌で施設に入れる人もいるだろう。それを感じ取る入居者もいるだろうし、だからこそ施設に対して不信感や不満を抱く人は多い。野原を見てこんな笑顔を引き出せるこの施設はとてもいい施設なのかもしれないと思った。
「そういやよ、俺の隣の部屋、誰か入っているのかい?」
「隣の部屋ですか?えっと…」
野原の居室は三一四号室、その隣は三一五号室、職員の間では「呪いの部屋」と言われている部屋だ。施設長も誰も入居させない、職員すら部屋に入れないという徹底ぶりから誰かが入居している可能性は限りなく低いだろう。
「誰もいないと思いますけど、どうかしたんですか?」
「ずっと気になってたんだけど、夜中にたまに物音がするんだよ。何か動かす音とか、人が歩くような足音とか…それがうるさくてよ」
「え…?本当に三一五号室なんですか?」
「間違いないよ。部屋のベットは三一五号室の壁の方に付いてて、そっちから聞こえるから」
それ聞いてまさか、と思う。先程も言ったが三一五号室は色々な曰くがあり、それが元で開かずの間となっているはずだ。なのに物音が聞こえる、足音がすると訴えがあった。もちろん、ここにいる人には認知症やせん妄等の障害を持つ人が多くいるので野原もそのせいではないか、と思うが野原は事故による片麻痺のみで認知はしっかりしており、せん妄や幻聴等の障害はない。しかも今でも数独等を簡単に解いている事、元弁護士という点からも適当な事を言うようには思えない。しかし、問題はもし野原の話が本当ならば三一五号室には何者かが出入りして、何かをしている事になる。それは果たしてあのメモに関係あるのだろうか。
「分かりました。私も先輩に相談してみますね」
「あぁ…もしかして塚越さんかい?」
「そうですけど…」
野原は塚越の名を呟くと、少し困ったような表情を浮かべる。そして浅見の耳元で小さく呟く。
「塚越さんには言わないでくれ。出来れば他の職員、それもここ一年でこの施設に来た人に……」
「それってどういう…!」
言っている意味を探ろうとしたところでピッチのコールが鳴った。周りを見ると塚越が書類整理をしており、ジェスチャーで「行ってくれ」と合図をしていた。浅見は野原の真意を聞きたいという思いと、緊急のコールに対応しなければならないという葛藤をしていた。しかし野原に「仕事中にすまんな」と言って自室に戻っていった。今ではなくても後で聞けるかも、と思いコール対応をしていく。
「お疲れ様でした」
「今日は遅番お疲れ様です。明日は日勤なのでよろしくお願いしますね」
一階エントランスで談笑しながら歩く。時刻は午後九時、消灯時間が過ぎほぼ全ての入居者の就寝介助が終わる。昼間よりも施設内は薄暗くなっており、どのフロアも静寂に包まれていた。豪華なシャンデリアが煌々と輝いていたエントランスも、今はいくつかの小さなブランケット照明を残して消えていた。今、二階と三階には夜勤の職員が一人ずつ勤務している。
「そういえば、おやつの時間の時野原さんと何か話し込んでいたみたいだけど、何話してたの?」
「えっと……」
野原の言葉を思い出す。三一五号室の事は出来れば塚越には話さないで欲しいと。その言葉が意味するのは三一五号室の秘密に塚越も関わっていること。そしてそれをわざわざ話さないで欲しいという事は聞かれれば大変な事になるというのか。言葉に詰まっていると塚越は静かに笑いながら言う。
「あー、もしかして野原さんにモテる秘訣でも教えて貰ってたんでしょ?あの人、昔は相当なプレイボーイだったみたいだからそういうのは詳しいの」
「そうなんです。すごく的確な事を言っててすごく参考になりました…」
「浅見さんなら大丈夫よ。綺麗だし、優しいから良い人なんてすぐ見つかるわよ」
明るく話す塚越はそれだけ言うとまた明日、と言い残して更衣室に向かっていく。浅見は塚越を見送ると、事務所に戻りタイムカード機下にある引き出しから自分のロッカーの鍵を取り出す。事務所は誰もおらず、奥のロッカーのところだけ電気がついていた。今は誰もいない、その事が浅見に刑事の時の探る癖を呼び起こさせた。刑事の時は何か怪しいと思っても、確たる証拠を提示してからではないと捜査も出来なかったが、今は違う。刑事ではないがこの施設の介護職員だ。不法侵入にはならないし、気をつけてさえいれば怪しまれる事も多分ない。
浅見は誰もいない事を確認すると施設長のデスクの横にある棚の扉を開ける。いくつかのファイルが並んでおり、「介護記録」「ひやりはっと」「事故報告書」等のラベルが貼られており、重要書類がまとめられていた。浅見の目的のファイルは一番右端のファイルだった。そのファイルには「入居契約書・入居者情報」と書かれており、入居者に関する情報が記された綴じられている。浅見はファイルを取り出すと、他の入居者の情報を見ないようにページを捲っていく。
「あった…三一五号室の入居情報…あれ、おかしいな」
「何がおかしいんですか?」
三一五号室のページを見て呟くと、後ろから声をかけられ思わず高い声を挙げてしまう。後ろにいたのは角刈りの体育会系の男性だった。その男性はおっと、と両手を上げると苦笑いする。
「いきなり声をかけてすみません。何やら怪しい行動をしていたものですから」
「いや、その…」
この人もグルなのか、と警戒していると男性は少し険しい顔をして浅見を見る。
「何をしていたんですか?見たところ、入居者に関する情報の書類を見ていたようですが…もしかしてあなた、この施設について何か知っているんですか?」
「…そんな訳ないですよ。だって私がここに来たのは数日前ですよ。それ以前にこの施設に関係なんてありません。それよりもあなたこそなんでこの時間まで残って私に施設の事を聞いてくるんですか?」
浅見に返された男性は、浅見の言葉に返すことなく奥のロッカーに向かい、何かを取り出して渡してくる。名刺のようだった。
「栃木県警生活安全課の金沢平司です。これで私が怪しい人物では無い事は証明できました」
「刑事…?どうしてそんな人がここに…」
「それよりも、今度はあなたですよ。あなたこそ何者ですか?ただの新人の介護職員にしては要らない行動が目立ちますね」
疑われている、と思った。刑事がこの施設に潜入している。という事は警察が介入する何かがこの施設にはあり、そしてその何かを警察はある程度掴んでいる。確たる証拠を掴むために潜入させているのか。
「きっと金沢さんが想像する人ではないですよ。私もあなたと同じ、この施設について調べている者です…つい数日前からですけどね」
「…この施設について何も知らないと?」
「はい、その代わりこれを見つけました」
そう言って浅見は金沢にロッカーに入っていたメモを渡す。金沢はメモを受け取ると表情は変えなかったが、先程の疑惑の目は無くなっていた。
「なるほど…このメモを見てあなたはこの施設に何か隠されていると思った訳ですか。にしても警察でもない一般人がする行動にしてはリスクが高いですよ」
「私は……いや、すみません。確かに軽率でした」
元刑事、と言おうとして何かややこしいことになりそうだったのでやめる。
「でも私はこのメモを見て見過ごす訳にはいかないと思ってます。だからこうして一人でも調べようと…」
「分かりました。あなたの行動力には少し驚きましたが、嘘を言っているわけではなさそうだ。ただし、もし今後も調べるなら二人で調べましょう。一般人だけでは危険です」
「それはそうですよね…分かりました。お願いします」
金沢は納得した様子で頷くと再び浅見が見ていたファイルに目を向ける。
「さっきのおかしいとは?」
「この三一五号室、この施設にでは『呪いの部屋』と呼ばれている居室には誰もいないはずですよね」
「えぇ、そう言われていますね」
「でもほら、見てください」
浅見は三一五号室の入居情報の書類を指さす。そこにはしっかりと入居者の名前が記載されていた。名前は小山内久。そして身元引受人は田中智となっている。
「三一五号室には誰もいない。だからこのファイルに契約書や入居者情報がある時点でおかしいんです」
「誰もいないなら入居者情報はもちろん、契約書すら存在しないはず…なのに現に書類は揃っていますね」
染谷と石井は確実に入居情報を職員に対して偽っている。それも南京錠までかけて。野原が聞いた物音は幽霊でもなく、紛れもない人間のもの。
「でも何故呪いの部屋として封鎖する必要が?何もなければ普通に入居させていると言えば…」
「見られてはいけない秘密があるとしか…」
この「小山内久」が何者なのか、何が呪いの部屋とさせているのかは分からない。ファイルを閉じると元あった場所にしまう。
「私からもいいですか?」
「何か?」
「警察は何を掴んでこの施設に金沢さんを潜入させているんですか?それなりの確証がなければ潜入なんてさせないと思いますけど」
浅見に痛いところを突かれた様な顔をすると、軽く咳払いをしてから話す。
「一般人には言えません。ただ、あなたの想像通りこの施設について不審な点が見られた為潜入になりました…これ以上は勘弁です」
金沢から聞けることは今はこれだけだろう、と思い深く追求するのはやめた。元警察関係者として警察に深く追求してくる人は、それだけ警察が何を掴んでいるのかを知りたい、もしくは知らなければならない状況に置かれていると見なされやすいという事を知っていた。あまり怪しまれても困るので話を戻す。
「染谷施設長って独自でNPO法人を立ち上げて施設を建てたんですよね。それに身元引受人が本人の家族じゃないのは引っかかりますね」
「まぁ、自分の家族を他人に任せるなんてあまり考えられませんが…」
娘や息子がいるなら、身元引受人は身内になるのが普通だが小山内は違った。続柄も全く関係ない人物であり、例えば引受人となる家族がいなかったりすると法人側が代理の身元引受人を立てることはできるが、それもあまりない事だ。
「とにかく今は目立たず情報を集めましょう。あまり勝手な動きはしないように」
金沢に念を押される。とりあえずの連絡先を交換して別れる。まさか刑事が潜入しているとは思わなかったが、それだけこの施設の闇は深いという事なのか。浅見は刑事では無い以上深く突っ込むべき問題では無いのだろうが、あのメモを見つけた当事者として他人事には出来なかった。ホワイトボードに貼ってあるシフト表を見る。明日は十六時からの夜勤だ。特殊な勤務体系なので何が起こるかは分からないが、何も起きないことを願う。
斃死施設 熊谷聖 @seiya4120
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。斃死施設の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます