第2話

 建物に入ると、真っ先に目に入ったのは老人ホームとは思えない高級感のある照明や装飾だった。照明は真ん中に大きなシャンデリア、廊下を照らす照明も海外の高級ホテルにあるようなこった装飾が施された照明だ。来客等を迎えるエントランスも広々としており、テーブルも大きなものが数個置いてあり寛げる環境だった。建物自体の形は凹の形をしており、左右に廊下が伸びている。そして目を引いたのは建物に囲まれるように植えられた庭園だ。日本庭園と言うべきしっかりと整えられた松の木、盆栽、池、そして鹿威しまでありかなり本格的な日本庭園が建物のどの角度からも見られるようになっていた。実は一階の庭園に面する壁は全てガラスなので陽の光もしっかり入ってくる。

 浅見はしばらく庭園に見蕩れていたが、送ってくれた女性に入って左側に事務所があるので受付するようにと言われたのを思い出して、ピンクの半袖のシャツを着た職員がいるカウンターを見つけて話しかける。二十代くらいの女性がにこやかな笑みを浅見に向ける。


「すみません、本日からこちらに介護職員として勤務する浅見唯奈です」


「浅見さんですね、お話は聞いています。今施設長を呼んできますので、事務所奥の席でお待ちください」


 カウンター奥の扉に通される。事務所は外の豪華な装飾とは裏腹に、白を基調とした質素な作りだった。もちろん、こちらは職員しか入らないので特別豪華にする必要は無いが外と内のギャップでモチベーションが下がったりはしないか、と心配する。事務所もそれなりに広く、いくつかのデスクには職員が座っており浅見が通ると職員は皆笑顔で会釈をしてくる。浅見は少し照れながらも挨拶を返す。壁にはホワイトボードが掛けられており、居室の番号と入居状況が記されていた。入居状況についてはネームプレートで入居者の名前が該当する居室の欄に貼られていた。今は二階から三階まで全て満室のようだった。三一五号室は何もプレートは貼られていなかった。モデルルームか何かなのかと思うが特には気にしなかった。

 案内された席は事務所の一番奥、移動式の壁で仕切られている席だった。暑かったでしょう、とお茶を出され飲んでいると後ろから声を掛けられる。


「浅見唯奈さんですね」


「あ、初めまして。この間面接させていただいた浅見唯奈です。この度は採用していただきありがとうございます」


 声を掛けたのは五十代くらいの男性だった。見た目は年相応といった感じだが、肌の綺麗さや体型の細さ等五十代にはあまり見えなかった。柔らかな笑みを浮かべる男性はピンクのシャツの左胸に貼ってあるテープを指さす。


「初めまして。私はここ、介護付き有料老人ホームのぞみの施設長をしております染谷そめや賢一といいます。よろしくお願いします。一応、介護福祉士の資格持ってます」


「染谷…施設長、よろしくお願いします」


「あぁ、そんなに固くならないでください。ここは皆さんいい人ばかりですし、私の事も施設長だなんて言わなくていいですよ」


 呼びなれない施設長という肩書きに戸惑う浅見を見て染谷は目元にシワを作りながら笑う。やはり年相応だな、と思う。ふと染谷の後ろにもう一人の人物がいることに気が付く。浅見の目線で染谷も察しがついたようで、少し後ろに下がってその人物が前に出るようにする。


「紹介が遅れました。彼女はうちの施設の介護リーダーをしている石井さんです」


 施設長に紹介されると、石井という女性はにこやかな笑みで挨拶をしてくる。


「石井早紀子です。介護リーダーとして職員の勤怠管理やシフト作成等をしています」


「浅見唯奈です。お若いように見えますけど…」


「やめてくださいよ!これでも中学生の息子がいるんですよ?」


 えっ、と声を挙げる。やはり石井という女性もそうは見えないほど肌の艶やスタイルの良さがあり、どう見ても二十代後半にしか見えない。中学生というと一年生で十二歳くらいなので、二十歳で産んだとしても三十歳という事になる。三十歳が若くないとは言わないが、それでも平均的な三十代よりは若々しいだろう。ここの施設の人はこんな若々しいのか、と思い受付の女性も実はそれなりに年齢はいっているのかもしれない、と失礼なことを考えていると施設長が浅見に椅子に座るように声を掛ける。


「いやー、浅見さんのような方が来てくれて助かりました。うちは個人で法人を設立してやっている施設ですので、企業が運営する営利法人の施設よりも中々人が集まりにくくて」


「そうなんですね。でも満室みたいですし、こう言ったらいやらしいですけど繁盛してますよね」


「はは、まぁ何とかやってます。ここで働いている職員は皆いい人ばかりですから、助かってますよ」


 話を聞いて浅見は凄い行動力のある人だな、と思う。法人を立ち上げ、施設のコンセプトを決めて、どこに建てるのか、もしくは建物を買うのか等も全て一人でやったのか。確かケアマネージャーとしての独立ではなく、デイサービスやグループホームでの開業なら少なくとも一千五百万くらいの費用は最低かかると聞いた。それに加え、装飾や人件費なども考えると平気で億はいくだろう。そんな資金を借り入れしたのかは分からないが用意して設立したのだ。相当な覚悟と行動力が無ければできない。

 心の中で感心していると、染谷は面接の際に送っていた履歴書を見ていた。履歴書を見て、少し顔が強ばるのを見逃さなかったがすぐにいつもの笑みに戻った。


「それにしても、浅見さんは前職は…警察の方だったんですね」


「あー、その事なんですけど前にも話した通り前職の事は内密にしてくれると…」


「分かりました…この事は私と石井さんだけの話にしておきましょう」


 最初から声を潜めていた辺り、そこら辺は考えてくれていたのだろう。役所の職員とか教員とかならまだ良いのかもしれないが、警察となると少し都合が悪くなるのは何故だろうか。本当は楽しかった事など話したいが、どうしても事件の事などを聞かれがちだ。それは少し気まずくなるので、採用通知の面談の際に前職が警察官であることは内密にして欲しいと頼んでいた。

 染谷は履歴書をしまうと、雇用契約書等の雇用に必要な契約書類を取り出す。浅見も印鑑を取り出して給与、雇用形態、就業規則、勤務時間の説明を受け、それに承諾するとして書類に印鑑を押す。全ての書類と浅見自身の意志を確認し終えたところで染谷は満面の笑みで話す。


「以上で雇用関係の契約は以上になります。それでは改めまして、本日からよろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 お互い挨拶を済ませると、石井がシフト表を持ってくる。


「それじゃ、早速なんですけど今月のシフトを組んでいきたいと思います。浅見さんは正規雇用、所謂正社員での採用になるので基本的に早番、日勤、遅番、夜勤の全てに入っていただきたいと思いますけど、大丈夫そうですか?特に夜勤なんかは慣れない方は大変だと思いますけど…」


「そこは大丈夫です。前職では事によっては泊まり込みとかありましたから…」


 浅見は連続強盗事件を捜査していた時の一週間泊まり込みで張り込みなどをしていたのを思い出して、心の中で辛かったなと振り返る。石井は前職の事を聞いていたので、なるほどという顔をしてシフト表に向き直る。


「でも最初は夜勤は少なめでいきましょうか。最初の三ヶ月は基本的に先輩と動いてもらうので、いきなり一人でやらせる事はないので安心してくださいね」


 浅見はシフト表にある自分の名前を見つける。その上にある先輩社員の名前を「塚越」と確認する。女性職員らしいのでやりやすいのかもしれないと思う。

 早番は午前七時から午後四時、日勤は午前九時から午後六時、遅番は午前十二時から午後九時、そして夜勤は午後四時から翌日の午前九時までだ。早番、日勤、遅番は休憩一時間の実働八時間、夜勤は休憩二時間の実働十三時間だ。やはり夜勤は拘束時間が長く、これまで夜に働くことをしてこなかった人からしたら慣れるまでは辛いだろう。刑事やってて良かった、と思いながら自分のシフトを確認する。今日は日勤、明日からは遅番や早番の組み合わせになる。夜勤も今週の金曜日から既に入ることになっていた。


「それじゃ、改めてよろしくお願いしますね。皆さん歓迎してますよ」


 染谷の言葉に少し照れながらも、浅見もよろしくお願いしますと返事をする。

 その後、施設の更衣室でユニフォームに着替えて事務所に戻ると先程見た塚越という人らしき先輩社員が待っていた。この人も気さくな人で明るい人だった。


「浅見さんですよね。これから一緒に指導として入る塚越です。自分のペースで仕事は覚えてくれればいいですから、楽しくやりましょう」


「そう言ってくださるとありがたいです。よろしくお願いします」


 お互い挨拶を済ませると、染谷がそれを微笑ましそうに見ていた。


「馴染めそうで良かったです。基本的には塚越さんについて行く形になりますが、何か悩みとかあったらいつでも言ってくださいね」


「施設長、です」


「今行きます…それじゃ、頑張って」


 介護リーダーの石井に面会の事を聞くと足早に去っていく。面会は家族だろうか。その日の業務や連絡事項が書かれたホワイトボードには複数人の入居者の面会予定は書かれていたが、二一五号室の面会の予定は書かれていなかった。急な面会だったのだろうか分からないが、ふと他の入居者は該当する居室の欄に名前が書かれているが二一五号室には書かれていない。元刑事として何かが引っかかるがその思考を遮るように塚越の声が耳に届く。


「早速フロアに行きましょうか。浅見さんに入っていただくフロアは三階です。比較的介護度は低い方が多いので落ち着いてると思いますよ」


「そうなんですね。ということは二階は?」


「そうですね、あまり変わりはないと思いますが二階の方が片麻痺や認知症の症状が重い方が多いと思います。寝たきりの方も二階の方が多いです」


 言われて入居者のボードを見る。居室の欄の下には要支援1や要介護2など書かれている。介護度とは要介護認定、要支援認定で判断される介護の必要性の程度等を示すもので、要支援は基本的な日常動作は一人で出来るがその中の動作の一つでも介助が必要な人、若しくは今後介助が必要になる可能性がある人を指す。要介護は五段階に分かれており、身体・精神障害により六ヶ月にわたり、日常生活の一部動作、若しくは全動作において介助が必要な人を指す。簡単に言えば要支援者は介助に関わる程度が低く、要介護者は要介護度が高い程介助に関わる程度が高くなる。また、要支援か要介護で予防給付か介護給付か等給付金にも違いが出るが、浅見は正直よく覚えていなかった。

 改めてボードを見ると、二階は要介護度が3や5の人が多く、要支援の人は少ない。対して三階は要支援の人が多く、要介護の人もいるものの1や2など低度の人が多かった。恐らく二階と三階で症状が重い軽い、全介助か一部介助かで分けているのだろう。

 事務所を出ると豪華なエントランスに出る。やはりいつ見てもエントランスとガラス張りから見える日本庭園に圧倒される。事務所は入口から入ってみぎだったが、フロアに繋がるエレベーターは入って左側にあった。エレベーターは二つあり、一つは人が普通に入れる通常の大きさのエレベーターだったが、もう一つのエレベーターは少し扉や中が広く設計されているエレベーターだった。


「こっちのエレベーターは車椅子移動しても余裕をもって入れたり、一階の食堂から食事を運ぶカートも一緒に入れるようにしてあります。まぁどちらに乗ってもいいですけど、車椅子介助の方が乗ってたりしていたら、その方を優先してくださいね」


「わかりました。にしても凄い豪華な施設ですよね…個人で建てたとは思えないです」


 エレベーターに乗り込むと、塚越は三階のボタンを押す。


「ですよね。噂ですけど、この施設を建てるのに億はかかったって話ですよ…」


「へぇ…」


 二人以外誰もいないエレベーター内で誰にも聞かれる可能性はないのに顔を近づけてヒソヒソ話す。こういう話は何故か後ろめたい気持ちになってしまうが、よく考えたら噂なので別にこんなヒソヒソ話す必要は無いな、と思いながらもそう話してしまった。

 三階のボタンが光り、扉が開きますと女性の音声と共に扉が開く。三階の光景を見て一番に思ったのは豪華だ、という事だった。やはりこの施設にいる以上この豪華な装飾や内装に圧倒される他ないのかもしれない。基本的な建物の構造は凹の字そのままだった。一階の正面玄関入口に当たる部分にはカウンターがあった。上に吊るされた看板を見ると『スタッフステーション』と書かれていた。病院でいうナースステーションの様な場所だろう。


「ここは各階にあるんですか?」


「ありますよ。施設長等がいる一階の事務所は所謂本部、二階三階のスタッフステーションは支部みたいなもんです。ここでその階に該当するフロアスタッツが介護記録等の事務作業を行ったりしています。夜勤の時も基本的にはスタッフステーションに常駐する形になります」


 なるほど、と思いながらステーション内を見る。入居者の情報が纏めてあるファイルや小さな携帯のような機械がある。不思議そうに見ていると高い音を立てて機械が鳴る。一人のスタッフがその機械に向かってお待ちください、と話しかけて部屋に向かっていくのが見えた。

 入居者がいる部屋の扉の上の壁にある赤いランプが光っていた。そのランプは全居室の扉の上の壁にあった。


「それはピッチです。入居者様が職員を呼ぶ時に部屋の中にあるコールボタンを押すと反応します。ほとんどの部屋にあるので皆さんと協力して対応していきます。ちなみにピッチの画面には居室番号が表示されます」


 塚越はピッチの履歴を見せる。先程は三一一号室のコールが鳴った事が示されていた。塚越はステーションのカウンターにある書類を一通り確認すると、浅見に向き直る。


「まぁ矢継ぎ早で話してきましたけど、この仕事は聞くより動いて行く方が早いので、とりあえず今日は私に付いてきてもらう形でフロアに入っていきましょうか」


「分かりました。よろしくお願いします」



 フロアに入ったのは午前十時。日勤は午前九時からなので一時間ほど施設について説明を受けていたことになる。三階フロアの入居者の身体状態や認知状態などが記された書類に目を通していた時、持っていたピッチが甲高く鳴った。画面を見ると「キンキュウ 三一四」と書かれていた。


「浅見さん、行きましょうか」


 塚越について行くと三一四号室の赤いランプが点滅しており扉横のボタンを押して点滅を消すと塚越と浅見は部屋に入る。部屋横のプレートには「野原武雄」と書かれていた。


「失礼します、武雄さん、どうかされましたか?」


「あぁ、塚越さん。すまないけどトイレに行きたいんだ」


「トイレですね。今回はちゃんと知らせてくれてありがとうございます」


 野原はベットに端座位たんざいの状態で座っていた。端座位とはベットから足を降ろして浅く座っている状態のことだ。普通の人なら何の危険もない行動だが、足腰が弱くなってきている高齢者だと身体を支えきれずにベットから落ちてしまう等といった転倒のリスクがある。なのでこういった小さな事でも気を配らないといけないのだ。

 塚越は野原を車椅子に乗せ、トイレまで誘導し座らせてからトイレのカーテンを締める。塚越は浅見に静かに耳打ちをした。


「野原さんは入居前に事故で下半身がかなり不自由な状態なの。入居者後も一人でトイレに行こうとして転倒してるから特に気を付けないといけないの。高齢者は少しの転倒でもすぐに骨折するから浅見さんも気を付けてね」


「そうなんですね…一人で行けるって思っちゃうんですかね」


「他人に迷惑を掛けたくないっていう思いが強いみたい。こちらとしては頼ってもらった方が良いんだけどね」


 話していると「終わったよー」とトイレの中から声がして塚越が介助に入る。車椅子からベットに移ると野原は浅見を見て塚越に問いかける。


「おや、新人さんかい?」


「そうですよー、浅見唯奈さんです。今指導中なんですよ」


 浅見は塚越に紹介されると、座っている野原に目線を合わせるように浅見もしゃがんで自己紹介をする。


「浅見唯奈です。未熟者ですがよろしくお願いします」


 自己紹介を受けて野原は優しい笑みを浮かべて浅見を見る。


「そんなに緊張しなくていいよ。こちらは本当にありがたい気持ちでいっぱいなんだから。頑張りすぎないように頑張って。塚越さんもみんな優しいから安心しな」


 少しの談笑をした後、浅見と塚越は部屋を後にする。


「野原さんは認知はしっかりしてるんですね」


「元々弁護士の仕事してて、今も数独とかやってるから本当にボケてるとかはないのよ。凄いよねぇ」


 へぇ、と思いながら入居者の書類を見ていると、野原武雄という名前の横に年齢九十歳と書かれており、思わず声を挙げそうになってしまった。いくつになっても元気な人は元気なんだなと思う。ふと、隣の三一五号室を見ると少し違和感を感じた。扉の取っ手には何かを封じるように鎖と南京錠がかけられていた。そして扉の上を見ると、他の部屋にはあるナースコールの点滅灯がない。不自然な三一五号室を見ていると横から塚越があそこね、と言いながら話す。


「あの部屋、三一五号室はね『』って言われているの」


「の、呪いの部屋?なんかあったんですか?」


 塚越は辺りを見渡して誰もいないことを確認してから、静かな声で話す。


「私も詳しい話は知らないんだけど、何でも数年前にあの部屋で一人の入居者様が亡くなってから、三一五号室に入る入居者様が次々と急死したって話よ。それからあの部屋は誰も入居させないって事で施設長が鍵を閉めたらしい。でも職員まで入れないようにするのはちょっとねぇ…」


 ま、噂だけどね、と言ってフロアに戻る塚越を尻目に三一五号室を見る。居室の場所は施設を凹の字で見立てると、丁度左側の出っ張っている一番奥に位置していた。そんなに禍々しい感じはしないが、こういう施設だからこそ少しは心霊等の噂があってもおかしくはない。この施設は看取りまでやっているので病院で最期を迎えたくない人は施設で最期を迎えるのだろう。他よりも人の死と直面する機会が多い施設なので念のようなものがあるのかもしれない。こんな事を考え出したらキリがないが、それだけ責任の重い仕事をしていくことになる、と改めて痛感した。それにしても、と思う。備え付けの鍵を閉めるだけではなく、鎖と南京錠を使ってまでこの部屋を封印する理由が分からなかったが、今の自分が考えるべきことでは無いと思いフロアに戻る。



「お疲れ様でしたー」


 労いの言葉と共に早番の人が帰っていく。時刻は午後四時。午前七時から勤務していた早番の終業時間だ。日勤がその日の早番、日勤帯に起きた特記事項を報告する申し送りをするので、浅見は塚越の申し送りを聞いていた。特に何も無い時は何も無かったと報告すれば良いらしいので何も無ければいいなと毎日これから願うことになるのかもしれない。そんな今日も特に変わった様子はなかったので特記事項なし、と報告し申し送りが終わった。


「あと二時間ですね、このフロアの食介は今のところ二人だけなので私が隣で見ながらやってみますか」


「緊張しますね…」


 そう言って利用者の隣に座る。食介とは食事介助のことで誤嚥をしないように気をつけなければならない。ゆっくりと食事を口の中に運んでいく。何とか入ったようで咀嚼を始めた。


「そういえば、あの呪いの部屋っていつ頃からなんですか?」


 聞かれた塚越は目線は利用者に向きながら質問にだけ答える。


「んー、私がここに来たのはちょうど一年前だけど、その頃にはもう呪いの部屋の噂は広がってたし、三一五号室は封印されてたよ」


「なるほど…」


 つまりあの部屋は少なくとも一年は使われていない事になる。しかしその言葉に対して浅見は違和感を抱いた。刑事の時の細かいことに目がいく習性がまだ治ってないのか、異常だと感じる事には敏感に考えてしまう。

 そうしている内にトレーの上にあった食事は全て無くなり食事介助が終わる。数人のトイレ介助が終わった後、時計を見ると既に午後六時になっていた。塚越は腰を伸ばして深く息を吐く。


「よし!今日の勤務は終わりですね!後は遅番と夜勤の人に任せて帰りましょうか」


「お疲れ様です…すみません、最後に一度フロアを見てきても良いですか?」


 浅見の唐突の提案に少し戸惑っていたが、すぐに了承してくれた。


「それじゃ事務所で待ってるね。タイムカードも忘れずにね」


「分かりました…お疲れ様です」


 浅見は塚越に挨拶をして、塚越がエレベーターに乗り込むのを見る。そして扉が閉まる間際に軽く会釈をして、エレベーターの階数を示すモニターが一階に着いたことを示すのを確認すると、浅見は小走りで呪いの部屋、三一五号室に向かう。元刑事としての性分が残っていたのか、気になることや不自然な事があるとどうしても気になってしまう。確認しなければ気が済まない。そんな良くも悪くもない癖が出てしまった。

 三一五号室の前に来ると、やはり他の部屋とは違った異様な感じが漂う。綺麗な扉に無骨な鎖と南京錠、もちろんそれらを外すことは出来ないが、とりあえず取手に手を掛けてみる。


「…あれ?これって…」


 手に感じたのは。これは人の脂だろう。しばらく開けられていない三一五号室の扉の取手に付いているという事は何を意味するのかを心の中で静かに理解する。


「(?まぁ施設長が他の職員にも怪しまれるくらい頑丈に閉じてるんだから、この中に何か隠してるのは間違いないと思うけど…開けられるのは施設長か、若しくは介護リーダーの石井さんくらい…)」


 そこまで考えると、もう何か嫌な予感しかしない刑事の感が働いた。浅見はその考えを振り払うように頭を振る。今は刑事ではなく、利用者に人らしい生活をしてもらう為の手伝いをする介護職員なのだ。もう深く入り込むべき立場の人間ではない。三一五号室の前から立ち去ると、遅番と夜勤の職員に別れの挨拶をしてエレベーターに乗り込む。

 エレベーターが静かに揺れ、一階に着く。相変わらず豪華なエントランスを抜けると、利用者とすれ違う。利用者はシルバーカーを押しながら浅見ににこやかに挨拶をしてくる。浅見もぎこちない笑顔で挨拶をすると、不思議そうな顔をして去っていく。他人から見ても不自然だと感じ取られるくらい今の浅見は良い顔はしていないのだろう。呪いの部屋なんて言われたらそれが何なのか頭に引っかかる、それが良くない。気にしなければ良いのだ。介護職員として新しい一歩を踏み出して、何も気にせず、触れずにやっていけばいい。もう秘密を暴く刑事では無いのだから。受付カウンターの職員にお疲れ様です、と挨拶をして事務所に入ると、染谷と石井が帰宅の準備をしていた。


「浅見さん、お疲れ様です。今日はどうでしたか…なんて言われても何も分からないですよね。最初の内は仕事の雰囲気とか流れとか覚えるだけでいいですから。ゆっくりやりましょう」


「そう言ってもらえるとありがたいです。これからもよろしくお願いします…」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 にこやかな笑みを浮かべて歓迎する染谷と石井を見て思った。こんなに良い人がよからぬ事をしてるなんて有り得ない、ただの考えすぎだと。呪いの部屋なんていうのは単に怖いからだ。理由なんてない。

 事務所を出ていく染谷と石井を見送ると、浅見も私服に着替えるべく更衣室に向かう。ちょうど出払っているのか事務所にも更衣室にも誰も居なかった。浅見は自分のロッカーを見つけると、預かっていた鍵でロッカーを開ける。ハンガーに掛けていた服を取ろうと手を伸ばすと、服の襟が緩かったのかハンガーから滑り落ちてしまう。服を取ろうと手を伸ばすとロッカーの奥、狭い隙間に何か紙のようなものが挟まっているのが見えた。


「あれは…何かのメモ?」


 狭いロッカーに身体を押し込む形で手を伸ばす。中指と人差し指で挟むように紙を抜き取ると、何かのメモの様だった。二つ折りにされた小さな紙を開くと、数行の文字が記されていた。


『ここはおかしい。こんな事になるなんて。もし私に何かあった時のためにこのメモを残そうと思う。詳しくは言えないけど、もしこのメモが施設長に見つからずに次の人に見てもらえたら、この施設の事を外に知らせて』


 メモから漂う緊迫感、焦燥感、文字の震え。右上にあるシミは汗だろうか。それだけこのメモを残すときに何かに迫られていたという事なのか。だが、一つ確かなのは浅見の刑事の感が悪い方向に当たったということ。そしてこのメモを見た事で元刑事として見て見ぬふりをできなくなったということ。まだ三一五号室のことしか分からないが、この施設には何かがある。このメモの人物が知ってしまったように、触れてはいけない秘密がある。

 浅見はそのメモをポケットにしっかり仕舞うと、足早に施設の外に出た。夏前の嫌な暖かい風が浅見の頬を撫でる。暑くないのに嫌な汗が出る。暗闇の山の中に煌々と光る施設を見て、施設に背中を向ける。

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