Circle Limit

惣山沙樹

Circle Limit

 ケイはまた遅刻した。

 三十分以上待つ羽目になりそうだったので、あたしは先に一人で一杯やることにした。

 セルフサービス式の店はこういうとき便利だ。あたしはカウンターでプラスチック容器に入ったビールを受け取り、一人用の席についた。

 その日は大型連休の真っ只中であり、街は騒がしかった。女の子たちの服装は統制がとれていなかった。ムートンブーツの隣を、厚底サンダルが駆けていった。あたしは五センチ程度のシンプルなヒールを履いていて、安っぽいストーンがつま先にきらめいていた。お気に入りだ。

 他の男と二人で飲みに行くことを、サクは認めてくれていた。ケイを待つ間、サクに「遅刻連絡がきて待ちぼうけ」と現在の状況を報告した。「俺も遅刻癖があるから大きい口叩けないけど、しょうがない人だ」と返信がきた。

 恋人の友人付き合いに口を挟まない、というのがサクの方針だ。それはとても有り難いけれど、身を固めたら止めようと思う。彼がどう思おうと、それは自分なりのけじめだ。あたしは一般世間に生きる、つまらない人になりたいのだから。

 結局、四十分が過ぎてから、待ち合わせ場所の駅前広場に着いたとケイから連絡があった。

 あたしがそこに着いた時、ケイはタバコに火をつけたところだった。ここじゃ路上喫煙は過料を取られるよ、とあたしは言った。

 マリはタバコやめたの、と聞かれたので、今日だけ解禁すると答えた。あたしは現在、常習的には吸っていない。こうして喫煙者と飲みに行く時だけ、セブンスターを買い、その日に吸いきるようにしている。

 この辺りの地理はよくわからなかったので、道案内はケイに一任していた。休日の午後八時。彼はあたしに気を遣わず、速足で歩いた。

 居酒屋で腹ごしらえをして、チャージ料金無しの良心的なバーに行った。そこでスプモーニを二杯注文した。女の子ってカンパリベースが好きだよね、とケイは言った。確かに、男性でこれを頼む人を知らない。こういう薬っぽい味が好きなんだよ、とあたしは笑った。

 それから、クミコの話になった。彼女はあたしとケイの共通の友人で、サークルの同級生だった。彼女は、そこそこ目に付く程度の美人で、歌が上手く、生活態度はだらしなかった。四年では単位をこなせず、一時休学したらしいが、風の噂で無事卒業したと聞いた。その後のことは何も知らない。ケイによると、音楽はまだ続いているらしかった。彼女には他に寄る辺がないから、それには別に驚かなかった。

 クミコは一時期、マイケルというあだ名の男と同棲していた。言っちゃ悪いけれど、美人なクミコには不釣り合いの、深海魚みたいな顔をした男だった。なぜあんなのと付き合いだしたのかよくわからなかったが、別れた理由は傍で見ていて察しがついた。二人は同棲を始めてから、堕落の一途を辿っていた。授業に出てこなくなり、サークルの連絡も無視するようになった。大学生にはよくある話だ。

 あたしとケイは、一度そのカップルの部屋に邪魔をしたことがあったが、ひどい日常生活がそこにこびりついていた。クミコは恐らく今でも情緒不安定な子だし、マイケルが共依存していることはすぐにわかった。夜が更け、切れた酒と菓子の補給を名目に、あたしとケイは彼らの部屋を出た。なんとなく、いたたまれなくなったのだ。二人で長い買い物をした。あいつら、もうそんなに持たないねと話した。

 共依存がどういうことか、あたしたちはよく把握していた。

 終電の時間はちゃんと覚えていた。わざと見逃したのは、あたし。

 二人ともタバコが切れたので、バーを出てコンビニへ行った。ケイは何故か、ラッキーストライクを買った。マイケルはかつて、クミコのことを「俺のラッキーストライク」と言っていて、それを面白がったからだった。

 コンビニの外で一服しながら、日付が変わったばかりの街を二人で眺めた。酔っ払いが這いつくばっていたり、やたらスカートの短い女の子が道路を縦断していたりしていた。あたしはこの時間の人間を見るのは面白いと言った。

 すると彼は、俺は人より建物を見るんだと言った。人通りが少なくなった分、ここは本来どういう風景なのか、それが分かりやすくなると。あたしは上を向いた。重苦しいビル群が、ドロドロとした夜空に突き刺さっていた。山がないのは落ち着かないと思った。あたしはとてもじゃないけど、都会では暮らせないだろう。

 この後どうするか聞くと、彼は当然のようにホテルに行くと言った。了解、と答え彼について行った。どうせこうなるだろうと思っていた。

 ケイがシャワーを浴びている間、あたしはサクに白々しいラインを送った。こういう嘘をつくのは何回目だろうか。交代でバスルームに入り、身体を洗いながら、彼に触れずに眠ってしまえば別にいいんじゃないだろうかと思った。あたしはサクで満たされているし、わざわざ他の男とする必要はなかった。自分から終電を見逃しておいて、そう考えていることが少し可笑しかった。

 ベッドに行くと、彼は甘えるように頭を肩にこすりつけてきた。可愛らしかった。指を滑らせてきたので、やっぱりするんだ、と思った。がっかりしたわけでも、嬉しかったわけでもなかった。君とこういうことをするのは二回目だね、とあたしは言った。三年前の夏だった。こういうことって何、と彼はふざけた。一回目の時よりも、愛撫が巧くなっていると感じた。それでもサクには適わないが。

 セックスをするとき、あたしは相手の顔を見たくなるのだけれど、彼は必死にそうさせまいとしてきた。彼は自分の顔が大嫌いだ。頭を抑えられたが、そうされると余計に見たくなる。体勢ではこちらが有利だから、はねのけてやると、今度は口を塞がれた。舌を絡めながら腰を振るのは、多少しんどいが気持ちいい。なのであたしは、股関節に痛みが走るまでそれを続けた。

 彼は射精することができなかった。手と口で頑張ってはみたが、どうにもダメだった。そして、彼は疲弊したあたしを強く抱き締めてきた。あまりの力に身体が砕けるかと思った。それを我慢して、あたしも腕に力を入れた。性欲を満たすことはできなかったが、彼が本当に望んでいたのはこれだけだったのではないかと感じた。単純に、彼は一人でいるのが嫌だったのだろう。その相手はあたしでなくてもいい。

 ケイは先に眠ってしまい、あたしは一人でバスタブに湯を張った。彼の感触が残る下腹部に手を当て、そのまま手首を切りたいような気分になっていた。もちろんそうすることはなく、大人しくタオルで身体を拭いた。

 よく見ると、部屋にはエッシャーの絵がかかっていて、装飾と呼べるものはそれ以外に何一つなかった。脇で寝ている男は、エッシャーの名前すら知らないだろうし、あたしがこの画家を好きだなんてことはまるで興味がないだろうと思った。

 髪が濡れているから、今吸うと匂いがつくと思いながらも、タバコに火をつけた。眠れなかった。料金は前払いしているから、このまま先に出てしまおうかとも思った。始発が動き出す時間だった。けれど、そこまで薄情な真似はできなかった。ベッドにもぐりこみ、背中に顔を押し当てた。

 あたしはケイのことを、自分のものにしたくなっていた。それが本当に情けなくて、自分はなんて下らない女なんだろうと思った。

 それに、あたしは彼のものになんてなりたくなかった。これ以上、彼との距離を縮めるわけにはいかない。彼のことを愛してしまえば、自分は狂うだろうと思った。そして、彼を壊すだろうとも。

 彼と身体を合わせることに、そう大きな意味はなくて、愛するかどうかが問題だった。

 目覚めるとケイは、よく眠れたかと聞いてきた。そこそこ、とあたしは答えた。そして、やたら色んな夢を見た気がすると言った。彼はあたしのセブンスターを掴み、差し出した。寝起きの喫煙はひどく懐かしかった。

 二人でシャワーを浴び、服を着た後、チェックアウトの時間までテレビを見ていた。彼はヒゲが濃い方で、半日放っておくと服役囚のような風貌になる。あたしはそれが可笑しくて、伸びたヒゲを手のひらにこすりつけた。新しい歯ブラシみたいだと思った。

 舌の感触が恋しくなったので、あたしはそれを無言で訴えた。応えてくれたけれど、あまりにも短いので、もう一回とせがんだ。

 あたしたちの間には、恋人の甘ったるさや、愛人の背徳感というものがなかった。温もりを持つ生き物同士としての安心、平穏があった。三年前もそうだった。あの時のあたしは、君は友人なのだと言葉で確認を取った。今回はそんな野暮なことをしなかった。

 改札を通り、あたしとケイはそれぞれのホームへと別れた。朝の十時だった。あたしは車内で、サクへの言い訳を考えることにした。

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