こっちに来れたらね。
さんまぐ
こっちに来れたらね。
暑い夏の日。
セミも鳴かない真夏日の正午、世間がエコや節電をうたってしまった為に、折角の室内なのに申し訳程度のエアコンのせいでなかなか汗はひかない。
「昴ちゃん。ちょっと行ってくるね」
横にいるショートカットの女子はそう言って離れて行く。
俺は「行ってらっしゃい」とショートカットの女子を見送ると、手持ち無沙汰にペットショップのショーウィンドウにいるとてもお高いお犬様を見て時間を潰す。
お犬様は可愛らしく尻尾を振って愛想を振りまいてくれる。
だがすまん。君は高すぎて我が家にはお迎えできないし、そもそも我が家は賃貸アパートだ。
俺の名前は鶴田 昴。
さっきのショートカット女子は亀川 貴子。
夏場だから致し方ないがノースリーブシャツで上をはおわないのに腕を組んでくるので腕が汗ばんで仕方ない。
誤解のないように先に書くと決して付き合っている仲ではない。
年は一つ差で、俺は今年21で亀川 貴子は20歳。
俺がフリーターで亀川 貴子は専門学生。
確か美容の道に進んでいると言っていた。
俺達の接点はバイト先。
俺はようやく入った大学を2年通って3年目にして「コレジャナイ」と思って辞めてしまった。
無断だったために両親からは電話でコテンパンに怒られて地元に帰って来いと言われたが、それもまた「コレジャナイ」という事で、頼みに頼み込んで自分探しではないが、金銭的には無理でも精神的に自立したいからと言って知り合いのいないこの街に身を寄せる事にした。
そうしてフリーターになるべく、生活の為に見つけたチェーン店のアルバイト先で亀川 貴子に出会った。
勤め先はコンプライアンスとかそういう面がおかしい所で、事前に履歴書は全員に回し読みされていて、俺の履歴書に書かれた情報を基にしてバイト初日には亀川 貴子から揶揄われた。
おかげですぐに亀川 貴子の名前と顔を記憶した。
揶揄いというのも馬鹿にしてくるようなものではなく、単純に「前に大学で会いましたよね?」的な嘘をつかれて真剣に悩んでみても答えは出ないし何処で会ったかを聞いてみてもかわされる。
最終的にはバイト上がりの時に店長が「亀ー、就活と試験日は外すから今年の予定表出たら言ってくれ」と言っていた所から専門学生と知って騙された事に気づいた。
そして店長からは名前イジりが始まる。
同じ上り時間だった亀川 貴子と休憩室にいた時、店長は俺と亀川 貴子を見て「縁起がいいな、鶴と亀だな」と言う。
亀川 貴子は「いえいえ、亀は万年、鶴は千年です。亀の勝ちです」と言って勝ち誇りながら帰って行った。
残された俺に店長は「面白い子だろ?付き合っちゃえば?」と言ったが「いえいえ、鶴は亀には勝てません」と言ってかわしておいた。
店長も本気じゃないのがわかっていたのでここはテキトーに返しておく。
そして次に会った時には「学校の居残りか風邪ひいた時にシフト変わってもらいたいから電話番号教えてよ」と言われて電話番号を教えると「何となくかけてみたよ」と言ってその夜には電話がかかってきた。
そして次に会った時には「鶴田さん」から「昴ちゃん」に呼び方が変わっていた。
「うちは男が強いから女に理解なくてさー」
これは何回目かの電話の時に亀川 貴子が言った言葉。
「へえ、きょうだい居るんだ」
「居るよー。お兄ちゃんと妹」
父母がいて兄と妹なら多数決で女が強そうに感じるのだが亀川 貴子は亀川家は男が強いと言う。
「男の数が少ないのに男が強いの?」
「うちはお父さんが強いからね、お母さんは部屋とワイシャツとなんだったかを歌いながらお嫁に来たんだと思うよ」
結婚観が凄い歌を口ずさみながら亀川 貴子は喋りたいように喋りたいことを喋る。
俺はそれを聞きながら、会ったこともない亀川一家をイメージした。
亀川 貴子は自己紹介とばかりに色々な話をしてくれる。
学校の話はそんなに聞かないが前に聞いたのは、「美容だから女だらけで楽しい時もあるけど喧嘩が始まるとずーっと長引くし、仲間増やそうとして巻き込まれると最悪なんだよ」と何回か話していた。
またある日は名前の話になった。
「それでさー、ウチはきょうだいの名前が無茶苦茶なんだよ」
「無茶苦茶?」
「お兄ちゃんは鷲雄。鳥の鷲に英雄の雄でワシオ。妹はひらがなでひばり」
それを聞いた時、貴子のタカをどうしてもそっちに考えてしまい黙っていると「多分昴ちゃんの思ってる通りだよ。聞いてないけどお父さんは鷲と鷹の猛禽コンビにしたかったのに私が女だったから文字って貴子にしたんだよきっと」と呆れ混じりに言う。
そのまま「昴ちゃんのスバルは?」と聞かれたので「親が不精して男女どっちでもいい名前しか考えなかったって聞いている。第二候補は薫」と説明すると「どこの親もまったくもうだね」と亀川 貴子は笑って言った。
週に4回くらい電話をする仲になり、初めに俺が「今日は電話大丈夫なのか?」と聞くと「んー…エントリーシート書かないとダメだから1時間」と言われて目の前の時計を手に取りながら「OK。タイマーやる?」と返すと「それはなんかやだ」と言われて話すとなんだかんだ1時間はあっという間だったりするし、30分オーバーはザラだった。
そして飽きずにバイト先でも話したりしてしまう仲になる。
別の日の亀川 貴子は「昴ちゃんこそ嫌にならないの?」と言い出して、毎日でも無いが週の大半を電話して残りをバイト先で話す。そんな日々が嫌にならないのかと聞いてきた。
「話し相手とか居ないし、ゲームやるくらいしかないし」
そう、地元の友達とはメールのやり取り程度になっていた。
そんなに離れている訳ではないが片道2時間半もかけて通学する気は無かったし、そんな地元の友達から来る「佐藤と高橋が別れたって」や「鈴木がながら運転して事故ったぞ」なんて情報に興味は無かったし、電話をしてもいいことはないと思って勝手に距離を取っていた。
地元の話をしないでいると亀川 貴子は「地元の友達は?」と聞いてくる。
「話すことないし、帰って来いとか言われても困るから電話しないよ」
それには「そっか、そうだよね。物理的な距離って難しいよね」と納得をしていた。
そんなずっと話をする仲になり、バイト先でも飽きずに話していれば店長から「あれ?付き合ったの?」と聞かれる。だが俺は「いえ、付き合いません。話す友達ですよ」と返すだけだった。
「おーい、昴ちゃん。お待たせ」
ボーッとしていたからだろう、横には亀川 貴子が居て声をかけてくる。
亀川 貴子はショーウインドウを覗き込んで「犬好きなの?」と聞いてくる。
俺は頷いて「可愛いよな」と答えた。犬は可愛い。
「まだ見たい?」
「いや、平気。俺は付き添いだから亀川の好きな所について行くよ」
ショーウィンドウのお犬様に手を振ってバイバイをしながら進むと、また亀川 貴子は腕を組んでくるが俺は「ごめん、まだ無理」とすぐにそれを拒否する。
驚いた顔の亀川 貴子は「えぇ?まだ?おかしいなぁ、時間稼ぎでトイレにも行ってきたのに」とブツブツと言う。
俺は申し訳なさと同時に仕方ない気持ちになって亀川 貴子の横顔を見た。
そう、これだけの仲になっても付き合いませんには理由がある。
健康体の人からすると喘息に間違われて、喘息患者の方達からはそれは喘息ではないと言われてしまうがタバコの煙やその臭いで一度咳が出ると止まらなくなる。
そして喉や胸を痛めて熱が出るまでがワンセットになっていて、身体に気遣うとこうして発生した折角の女子とのスキンシップにしてもお断りする事になる。
亀川 貴子が愛煙家だとすぐに気づいた俺はキチンとタバコが苦手で体調を崩すと説明をした。亀川 貴子は「仕方ない」と言って、出かける時は極力タバコを我慢するし「昴ちゃん、咳出そうだったら我慢しないで言ってね」と言い、適度な形を用意してくれていた。
「んー…、手だけは繋ごう」
「まあそのくらいなら」
俺は手を繋いで臭いを気にすると少しだけタバコの臭いがしたが耐えられない程ではないのでそのまま買い物に付き合った。
まあ買い物というほどでもなく、雑貨屋を巡り、昼になったら併設されているレストラン街にある野菜料理の食べ放題の店に行く。
臭いが消えてきて腕を組めるようになっても亀川 貴子は我慢の限界を迎えてタバコを吸ってしまい、また手を繋ぐ事になる。
それでも2人でいるとあっという間に時間は過ぎ去っていく。
夕暮れ時になってきたので駅まで送るとお互いに家路につく。
そしてまた夜には電話をした。
バイト先で店長や他のバイト達も俺達2人の仲を気にするように探ってくるようになる中、亀川 貴子はシレッと「タバコNGの男はないですねー」と返し、つられるように俺も「タバコ辞められるなら考えますけどね」と言う。
俺と亀川 貴子の間に不思議な空気感は漂うものの、お互い何もない。
独り暮らしだから家に呼ぶ事も出来るが万一タバコを吸いたいと言われたら死活問題だし。我慢させるのも、女子にベランダでホタル族をさせるのも嫌だった。
入ったばかりの新人からは「え?付き合ってないんですか!?」なんて驚かれるようにもなっていた。
俺自身、なんで付き合ってないのかわからない。
わかるのは俺がタバコを受け入れられず、亀川 貴子がタバコを止められないからだろう。
それでも電話はするし亀川 貴子はアレコレなんでも話してくる。
「ムカつく!肌着でうろついたらお兄ちゃんから「お前には色気がないから恋愛は無理だ」って言われた。自分だってパンイチでうろつくのに!」
今日の話題はそれになった。
俺が「まあ身内にはそう見えても少し離れれば魅力に気付く人はいるから大丈夫だよ」と言うと嬉しそうな息遣いが受話器越しに聞こえてくる。
もう息遣いで気持ちがわかるようになっていた。
「そうかな?」
「そうだよ」
これだけで亀川 貴子は嬉しそうに笑うと「そんな人に会えたら幸せだね」と言う。
俺も「確かに幸せだね」と言って話は続く。
納得をしても兄から言われた言葉や今までの生きてきた日々で恋愛なんかが長続きしなかった理由を聞かされる。
まあ独特の空気と距離感。後は勝気な性格が災いしてるのだろう。
聞く全てに説明をしていくとドンドンと「あ、なんか変な事まで話してた」「ムカつく…なんでわかるかなぁ」と言い始める。
その時の息遣いは少しだけ不服そうだった。
「まあこれだけ話していれば人となりはわかるからね」
「昴ちゃんが聞き上手なんじゃないの?」
「そうかな?」
「そうだよ」
ふむ。聞き上手と来たか。
だが恋愛経験はそんなにない。否、ほぼない。
「お前は高嶺の花を狙いすぎで周りを見ればチャンスはゴロゴロしている」なんて地元の友人は言っていたがそんな事もないだろう。
だからこそ高嶺の花を目指す。
それくらいの方がいい。
俺が「そんな事言われたの初めてだ」と言うと亀川 貴子は驚いていた。
そして今日も1時間過ぎたからと言って電話は終わった。
この1時間は段々と亀川 貴子の生活リズムで自室で好き勝手使える趣味なんかの時間に該当している事を知った。
その後も何だかんだと電話してバイトしての日々は続く。
とても充実していて、次第に試験や就活で休まれる時は面白くなくなってきた。
そして電話をもらうだけではなくこちらから電話をする日も増えてきた頃、開口一番に「ムカつく。ナンパされた」と言われる。
「ナンパ?何処で?」
「学校の帰り。友達と買い物してたら急に話しかけてきて、無視してもしつこいから睨んだら「気が強い、お前なんか誰にも相手にされないからな」って捨て台詞吐かれた」
何となく目に物浮かぶ。
亀川貴子の見た目はごく普通でズバ抜けて可愛いわけでも綺麗なわけでもないが人目は引く。
そして何となくだが人懐っこさが出ていて話しかけやすい。
だが亀川 貴子は男世帯にいる為に言い方は悪いが男慣れし過ぎていて平気で言い返す。
ナンパ男は面喰らった事だろう。
普段の亀川貴子ならば「あり得ない」「折角の気分が台無しだ」と言うだろう。
だがこの日は違っていた。
受話器越しに聞こえる声は涙声で「私…、一生1人かな?」と言った。
その事に驚いた俺は慌てて「大丈夫だって、良さに気付ける人はいるよ」と声をかけると「いい所って?」と聞き返される。
「んー…話しかけ上手だし、なんか変な裏表もない。話し上手でずっと話を聞いていられる」
この返しに「初めて言われた」と言うのでバイト初日にあった話をして納得をさせる。
そして話題は変わって行き恋愛の話になる。
恋愛があるからナンパが起きるのかもと亀川 貴子が言い始めたからだ。
「恋愛って面倒だね」
「そうだね。言った言われた、何したどこ行ったって騒ぎすぎだね」
「ねえ、ずっと1人だったらどうする?」
「俺はずっと1人かも。だからずっと1人ならではの楽しみ方を見つけないと」
「そっち?後ろ向きじゃない?」
「そうかな?亀川は?」
「よくわかんない。でも今日のことがあるから誰にも相手にされないのは怖くて恋愛とか出来ないかも」
「そっか、まあ困ったら俺が理解者風に話聞くから安心しなよ」
この返しに受話器越しの息遣いが変わる。
喜ぶでも怒るでもない息遣い。
待っていると「ムカつく」と言われた。
「ムカつくの?」
「理解者って所、本当だなって思えたし、理解してくれる人ってこの先何人居てくれるだろう?」
簡単に理解者と言ったが俺の理解者は居ただろうか?
その気持ちを隠すように「平気だよ。1人でも居れば心強いもんだよ」と諭すように言う。
「ムカつく」
「何に?」
「嬉しいって思った事に」
「素直に喜びなよ」
少し唸った亀川 貴子は嬉しそうな息遣いで「そうする」と言った。
夏が終わる。
秋になり亀川は就活でバイトに来ない日は増える。
だが電話は変わらずにする。
1時間が難しくても少しの時間でもしていた。
そんなある日「飲み会誘われたから行ってくるね」と言われた。
まあ、20歳も過ぎているし、何か言える訳でもないので「適量にしなね」と言うと「うん。大丈夫だよ。学校の友達に誘われただけだから安心してね」と言われた。
「わかった。でも女の子なんだからハメ外し過ぎないでね」
「わかってる」
心配を鬱陶しいと思いそうな亀川 貴子の嬉しそうな息遣い。
確実にこの数か月で俺達の関係は変わってきたと思っていた。
まあきっとこの話の分水嶺はここにあったと思う。
だがここをいい方に選べたからどうなったかはわからない。
亀川の飲み会はバイト後に行われた。
普段より1時間早く上がって友達と合流するらしい。
その段階でオールナイトが決定していて、適量も何もあったものではない。
初めて話を聞いたのは当日のバイト先で、実際本人も数日前に時間を聞いたら21時集合だったからバイトをギリギリまで入ったと言う。
「友達と居るから平気だよ」
「夜遅いとは思わなかったよ。女の子なんだから気をつけなね」
「うん。電話は無理でもメールは入れるよ」
「わかった。何か困ったら言うといいよ」
こうして見送り、バイトの上がり時間に普段なら2人1組が当たり前なのに珍しいと周りから言われたので事情を説明した。
「なんか飲み会らしいですよ。ほら、合流したって」
俺がメールを見せると[目的地到着!]と入る。
周りは勝手に…口々に心配をしてくる。
あの店長まで「亀に気がないならいいけど、取り逃がすと取り戻せない事ってあるからね?」と心配そうに言ってくる。
なんとなくモヤモヤしながら「こっちは終わり」とメールをするとすぐに「お疲れ様、早く帰ってゆっくり休みたまえ」と返事がくる。
それは普段と変わらないやり取りで「今晩は話し相手が居ないから時間が中々過ぎないかもね」と返すと「え?寂しかったらメールしてきなよ」と言われたが「飲み会中にメールばかりしていたら友達達に悪いよ。だから程々にするよ。普段なら音消すけど今晩は音を出しておくから困ったら言うといいよ」と送る。
その後は「ありがとう」で終わって何回か「何してるの?」ときたから返事をしてから最後に「おやすみ」と打った。
翌朝、メールが入っていなかったので気になってメールをすると「頭痛い。ここはどこだ?」と返ってきて唖然とした。
「とりあえず住所が分かれば近くのコンビニまで迎えにいくけど?」と送ると「友達の家だった。平気。ありがとう。また今晩バイトで」と言われて終わった。
この後は酷いもんだった。
バイト先で会った亀川 貴子はあっけらかんと「やらかしちゃったよ」と笑い、俺は普通に相手をする。
学生最後としてハメを外して大失敗をした。
それで良かったし、それ以外何もなかった。
だが本人から飲み会を聞いていたり、昨日のやり取りから飲み会を知った連中は世間話のフリをしてアレコレと聞いていくと、実は飲み会は合コンで、俺に男が同席していた事を言わずに居た事や女友達の家で朝を迎えたと言っていた事が怪しいもんだという話になった。
だがそれは悪魔の証明で、この場合ただの友達でしかない俺は亀川 貴子を信じるのが正解でそれ以外は無い。だからこそ外野の心配?や助言?には辟易とした。
飲み会から10日くらい過ぎた頃、変わらずに電話をするが亀川 貴子の声はどことなくぎこちない。
「あの…さ…、変な噂聞いた?」
「聞いてる。でも女友達の家で朝を迎えて慌てただけなんだよね?」
「うん」
「じゃあそれでいいじゃない。それよりも次のシフト見たけどバイトの日数減ったよね?今回の事?」
「いや、就活がさ…」
それは嘘だろう。
居心地が悪い。
それしかない。
だからこそ亀川 貴子は困った時の息遣いだった。
何時間話だと思っているのだろう?
「無理しちゃダメだよ。周りが勘繰っても信じてるよ」
この言葉で亀川 貴子は泣いて「ごめんね。今日は切るね」と言われた。
エアコン要らずでありがたいと開けていた窓からは冷たい風が吹いてきていた。
肌寒さに季節の移り変わりを感じていた。
季節が冬になる直前、とても悪いニュースが飛び込んできた。
ひとつは亀川 貴子が春まで働かないでバイトを辞めると言い出し、もうひとつは実家の父が救急搬送された。
亀川貴子に事情を話してバイトを代わってもらい、実家に顔を出すと父母は豹変していた。
父は病で余命宣告をされていて、最長で余命5年になっていた。
そもそもは去年に早期発見出来ていたが俺の学費のために安い治療で済ませていて高度先進医療を受けなかったらしい。
そうしている間に悪化していき余命宣告の運びとなった。
それでも父は俺に青春をと言ってくれて居たらしい。
そして今年の春、大学を辞めてきた時も父はまだ何とかなると言う気持ちで「自分探しは大事だ。昴には好きな事をしてもらおう」と言っていたが、余命宣告をされると豹変していた。
「お前の為に治療を断念してこのザマだ」
「あなたのせいで我が家は台無しよ」
まさか父母からそんな言葉を浴びせられる日がくるとは思わなかった。
その日はとにかくこっちにも生活があるから一度帰ると言って帰ると駅から家に向けて歩く中、亀川 貴子に事情を説明したら「昴ちゃんは優しいから気にするんだよ」と言われた。
俺は「亀川こそ優しいから傷つくんだよ。優しいから今一緒に辛そうな息遣いをしてくれている。ありがとう」と言う。
「もう…、辛くて落ち込んでるのは昴ちゃんなのに私が優しくされてどうするの?」
亀川はそう言って泣いてくれた。
冬がきた。
街は色とりどりのイルミネーションと装飾。
ケーキやご馳走の予約を促すPOPや気の早い年始のおせちや恵方巻のPOPなんかも出てくるようになっていた。
俺は何回かの実家とのやり取りで年越しには地元に帰らされる話になった。
俺の為に辞めずにバイト先に残っていた亀川 貴子は俺が辞めた後で店長からは惜しまれながら辞める話になっていた。
天気予報に雪マークが出るようになってニュースでは今年も残すところ後何日と言い始めた頃、亀川 貴子は「ナンパされた」と再び言った。
俺は前回の事があったので余裕ぶりながら「へえ、今回はどうしたの?」と聞く。
「無視して「どっか行って」って言ったらその気の強さが良いって言われて、電話番号聞かれて今度出かける事になった」
この瞬間、胸が痛かった。
出かけると言う事は俺としたように腕を組むのだろうか?
その男はタバコを吸うのだろうか?
そんな事を考えてしまった。
俺が何も言えない中、亀川 貴子は「本当だね。昴ちゃんが言ってくれたみたいに私の良さに気づいてくれる人って居るんだね」と言う。
確かに居た。
だが誰よりも俺の方が気付けていたと思う。
現に今の息遣いは嬉しさと困惑が入り乱れていた。
その男はきっと息遣いを察せずに上辺の言葉を信じるだろう。
だが俺はもうこの地を離れて電車を乗り継いで2時間半の道のりを経て地元に帰る。
何が言えるんだろう。
言えるなら「行くなって」と言いたかった。せめて「行くなって言えない立場が面白くない」くらい言いたかった。
そんな俺がようやく絞り出せた言葉は「安心しなよ。行き詰まったら電話しておいで」だった。
亀川 貴子は「うん。ありがとう。昴ちゃんは実家のお父さんお母さんの事を頑張ってね」と言ってくれた。
年末、アパートを引き払って実家に帰った時、さらに愕然とした。
壊れた両親は見合いと勤め先を用意していた。
勤め先は半肉体労働だったが地元では昔からあるお堅い職場で、会社に言わせれば「鶴田さんの紹介だから引き受けたけど、こっちは本来大卒しか取らないんだわ」と嫌味の一つも言われながら務める事になる。
仕事はこれから何十年も働く事を思うと陰鬱な気にはなったが同級生達の就職事情からしたら好条件でかなり羨ましがられた。
そして働くと案外性に合っていて大変だったが苦ではなかった。
お見合いの方はかなり問題だった。
父からは「死ぬまでに孫に会いたい」と言われて1人の女性を紹介された。
本人不在の間にもう話はまとまっていて、互いの親は厄介払いに近い形で俺たちを結婚させる筋書きを用意していた。
断らせない為の仕事だったのだろう。
妻になる女性は両親となんらかのトラブルを起こしていたようで終始捨て鉢で「なんでもいい」という態度で、コチラに何も言わないが自分の事も言わない女性だった。
新年の正月に顔合わせをさせられて遅くても夏には結婚と言われた時には気が遠くなった。
そうして、メールだけになっていた亀川 貴子に電話をかけた。
昔のように3コールで電話を取ってくれた亀川 貴子に「電話が来ない事から彼氏とうまく行っている?」と聞くと曖昧な返事でありながら「まあね」と言った亀川 貴子だったが、俺はあの息遣いを知っている。
辛い事を隠す息遣い。
我慢している息遣いだった。
今ここで「息遣いでわかるよ。辛いんだね?大丈夫?」と聞いたら事態が好転するかも知れないと思ったが聞くに聞けず、「そう」とだけ返事をした。
近況を聞かれたので全てを話した。
勝手に勤め先が決まっていた事、そしてよくわからない相手と結婚をさせられる事になった事。
それを聞いた亀川 貴子は驚き混じりに「うわぁ、前時代的だね」と言う。
「本当、困ってる」
「でも仕事は就活生からすると羨ましいよ。結婚はさ……鶴田くんはずっと1人って言ってたから………良かったじゃん。少し話したら良いところも見えると思うしさ、恋愛結婚よりお見合い結婚の方がいいって聞くよ」
この瞬間、足元がグラついた。
俺は確かめるように「鶴田くん?」と聞くと亀川 貴子は「ほら、もう昴ちゃんはダメかなって思ってさ」と少し寂し気に言う。
愕然としながら「そんな事ない!」と言ったが「あるよ」と言われてしまう。
妻になる女性と亀川 貴子を気に入った彼氏。2人に気を使えばあるのだろう。
「お互い電話は難しくなるんだろうね。結婚式はするの?」
「そんな金ないよ」
「そっか、ご馳走と奥さん楽しみだったのにな」
そんな話で、いつもみたいな長電話にならずに電話を切った。
これから先はそれなりにあっという間だった。
亀川 貴子はようやく決まった勤め先を一年で辞めた。
辞めた時には「理想と現実は違うね」とメールが来る。
何回かのやり取りで彼氏とは働いてすぐに別れた事が書かれていた。
「愚痴メールすれば良かったのに」
「ダメだよ。鶴田くんは奥さんを大事にしなきゃ」
亀川 貴子の言っている事は間違っていない。
だが妻になる女性は干渉をして来ないし干渉を拒む女性だった。
大事にしたくても「結構です。気になさらずに」と言って見えない壁がそびえ立っていた。
俺はその事を言えず「平気だよ」としか送れずにいた。
だからか亀川 貴子はそれ以上踏み込んで来なかった。
結婚式はしなかった。
出来なかった。
参列者を呼べない理由があったのだろう。
だから、痩せてしまった父と献身的に父に尽くす母。自分と妻。そして妻の両親の6人で食事会だけをした。
結婚翌年には息子を授かった。
孫を見た父は息子が地元に根付いて結婚をして子を授かってくれたと泣いて喜んで命の限り、時間の許す限り孫を可愛がっていた。
5年だった余命宣告は7年になって息子が小学生になる少し前に亡くなった。
献身的に尽くしていた母は同居を拒んで、今までと変わらず徒歩30分の距離で気楽な一人暮らしをしている。
その頃、久しぶりに亀川 貴子からメールが入った。
「この度、亀川 貴子は結婚をしました。今日からは田中 貴子になります」とだけ書かれていた。
メールが入った喜びと、結婚の事実の寂しさで胸が変になりながら「連絡ありがとう。結婚おめでとう。幸せになってください」と返す。俺は本心で幸せを願った。
春から年末にかけて何かの時に思い出す亀川 貴子との約9ヶ月の日々。
今も耳に残る亀川 貴子の「昴ちゃん!」と名前を呼ぶ声、店長に冷やかされるたびに「タバコNGの男はないですねー」「まあタバコOKなら付き合ってもいいんですけどね」「タバコはやめられませんよ」とタバコを理由に明るく話す声。
昴…、俺の名前は父が死に、母と旧友くらいしか呼ばない。
妻は結婚から息子が話せるようになるまでは何故か俺を「鶴田さん」と呼んでいた。
今度は息子が話せるようになると「お父さん」と呼ぶので名前で呼ぶ事はない。
そうなればなるだけ亀川 貴子の「昴ちゃん!」と呼ぶ声が耳に残っていつもリフレインしている。
妻には何かあったのだろう。
もしかすると叶わぬ恋の結果で俺と結婚をしたのかも知れない。
何も知らないし、彼女は何年暮らしても自らを話さないし、彼女の両親も腫物に触れるように接するだけで何もわからない。
わかるのは名前と生年月日。後は妻の実家で見かけるアルバムの中の幼い姿くらいだった。
だが妻としては最低限、息子の母としては及第点の行動をしている。
学校行事には真面目に参加しているし、息子の為に夜なべもすれば、早起きをして弁当を作ったりしている。
だが、鋼の掟のように頑として何も聞かず、何も言わず、決して俺の名を呼ばない。全て受身がちで致し方ない、長い人生の罰のように生きている。
ある日、旧友に勧められて開店休業状態にしてあった実名SNSに「お友達かも」の通知が来ていて見てみると「田中 貴子」の名前があった。
その字面だけで痺れた感覚になる。
アイコンの写真は小さくて本人かわからないが雰囲気は彼女だった。
フォローして初めて投稿が見られるので大して見られなかったが、どうやら子供が居るようだった。
幸せならそれでいいと思ったが、「お友達かも」に通知が出るのは検索をした場合だと聞いたことを思い出した。
彼女は俺を検索していた。
もしかして今も辛いのではないか?
そんな事を考えてしまうのは妻に割くべきリソースの全てが余っていて悶々としているからだろう。
そして妻も仮に俺が浮気をしたら意気揚々と離婚を口にするのかも知れない。
悪い考えがよぎりながらもそれで済ます事にした。
それから干支が一周した。
息子は成人し、大学に通う為に家を出る事になった。
息子が家を出ると妻と2人暮らしになる。
どんな日々なのか皆目見当もつかない。
俺は息子に「私は大学に向かずに辞めてしまったが、君は自分の道を見つけなさい」と声をかけて亡き父がこんな気持ちだったのかと思った時、会社の健康診断で肺に異常が見つかった。
それは早期発見だったので外科的治療ですぐに治った。
だが、問題はその前だった。
報告を聞いた妻は「わかりました。お金はありますので気にせず治してきてください」と言うだけ、息子は終わったら事後報告しようと言う話にし、母には1人で報告に言った。
父が死んだ後、母は昔の母に戻っていて悠々自適に暮らしている。そんな母に早期発見を告げると「まだ若いのに…」と暗い顔をした後で「お父さんの為とは言え嫌だったわよね?望まぬ仕事と結婚、もう自由になっていいのよ?」と言われた。
一瞬何のことかわからなかったが「あのお嫁さん、何を考えてるかわからないし心を開かないから苦手なのよね」と言われた。
今更言われても取り返しがつかない場所まで来ている。
そんな気持ちを抑えながら「今更何かしようという気はないよ」と言って帰り、手術を意識し始めると夢を見るようになった。
夢は色んなシチュエーションで、亀川 貴子が現れる。
彼女は不機嫌そうにコチラをジッと睨んでくる日もあれば暴れる日もある。
共通していたのは再会直後は嬉しそうにニコニコとしている事だった。
「うなされていましたね」と珍しく休日の朝食時に妻から言われて「手術を考えたら良くない夢を見るようになったのかもね」と返す。
「そうですか」と言ってそれ以上は踏み込んでこない妻。
もう21年程人生を共にした。
息子を授かって何もかもなくなったわけではなく求めれば応える。それは夫婦生活の面でも旅行でもなんでも。
ただ妻の表情と息遣いを目の当たりにすると、罰を受ける罪人に見えてしまう時があった。
それでもこれで良かったのかと思うようになったある晩。
夢にはまた亀川 貴子が現れた。
暑い暑いセミも鳴かない夏の日、初めて2人で出かけた商業施設。
追憶だからか暑さも涼しさもわからない。
だが暑い気がする中、亀川 貴子は「昴ちゃん。ちょっと行ってくるね」と言って喫煙所に向かっていく。
この夢が夢だが動けるし話せる事に気づいた時、俺は必死になって手を伸ばし亀川 貴子…貴子に向かって「待って!」と言う。
驚いた顔の貴子は俺を見て嬉しそうにニヤニヤとする。ニコニコではなくニヤニヤが貴子らしいし、息遣いは嬉しい時のものだ。
それを自覚した時「なあ!俺たち付き合わないか?」と声にした。
貴子は嬉しそうに「ふふふ」と言うと走って喫煙所に向かう。そうして喫煙所の扉をくぐって閉まりかけの扉から顔を出して「こっちに来れたらね」と言った。
あっちに行けばもっと早く病気になったかも知れない。身体を悪くするだけで早晩うまく行かずに別れたかも知れない。
だが関係なかった。
すぐに踏み出した俺を見て貴子は本当に嬉しそうに「ふふふ」と笑って「こっちに来れたらね」ともう一度言って喫煙所の扉を閉めた。
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