三日目とその後
翌日は友達とお昼を食べた。絵は、と聞かれるとまあなんとかなりそう、とだけ答え、そのたびに細川くんが気になった。
細川くんはいつも通り、そつなく授業をこなし、そつなく友達と喋り、今はその友達とそつなくお弁当を食べている。私が割りこむ隙はなかった。避けられているような気さえする。でも、私が彼を傷つけたんだから仕方がない。
仕方がない――と考えつつ、それでもあの場所には来てほしいと思っていたのだから私はわがままだ。そして細川くんは来ない。
いくら考えまいとしても無駄だということはわかっていた。集中できなくてもいいから、とにかく手を動かそう。昨日手をつけた前景に色を重ねていく。それは作業で、気にいるとかいらないとかの問題ではなくなっていた。同じ、絵を描くということをしているのに、一昨日と、昨日と、それから今日でどうして私の心はこんなに変わっているんだろう。不思議に思って、私は、そう思う、そう感じることが成長するということなんだと、でもそんな成長ならしたくないとも考えた。
時間はくるくると回って前景を描き終えるころには授業時間が終わってしまった。私はため息をついて、残されたぽっかりと真っ白い空を眺める。水彩の手順としてはおかしなことになっているが、この抜けるような空を今の気持ちで描きたくはなかったのだ。
私は一人で頭を振って、念のため背後の茂みを振り返り、誰もいないのを確かめてから、諦めて絵筆を取った。作業できるのは日暮れまで、二時間に足りない。やらなければ間に合わない。
まずは、地平線の端の色に合わせたごく薄い水色で全体を塗ればいい。それができたら、天頂に向かってグラデーションをつけて、少しずつ濃い青を上塗りしていくだけだ。そう難しくはないはず。
……はず、なのだが、やってみると基調の水色を塗るのに予想外に苦戦した。なんとなく思ったのと違う、ぼやっとした色づかいになるのだ。水彩は色を重ねすぎると濁ってしまう。なるべく直しを入れずに、かつぼやけないよう、慎重にやっていたら、それだけでかなり時間を食ってしまった。
下塗りが終わって顔を上げると、もう空の色が変わり始めていた。しまったと思いながら、まだ青が濃い場所をしっかり目に焼きつけて、上塗りの絵の具を出す。焦ってはいけない、絵が乱れる。私は絵の左の端から右に向かって筆を流す。
ところが、左側を塗り重ねたくらいのところで手元がちらちらし始めた。陽が傾いて、頭上のケヤキの茂みの切れるあたりまで降りてきたのだ。
私は奥歯を噛んだ。もうすぐ夕焼けの光が入ってきて、色の見え方が変わってしまう。ここではもう続けられない。残念だけどここでおしまいだ。残りは家に帰って、記憶で仕上げよう。
私は筆を洗って、手水場の水道に水を捨てに行った。拝殿を描いていた他の生徒たちはもういない。それも当たり前で、授業の終わりから一時間以上経っている。
手水場に行ってから戻るまで、長くても十分経っていなかったはずだ。だから余計に、茂みを分けて空き地に入った私は驚いた。
空き地は夕焼けで茜色に染まっていた。
私は半分無意識に空き地の端まで歩いて、その光をいっぱいに受けた。そうしないと、もったいなくて仕方がなかったのだ。
輝く空は、比喩ではなく一秒ごとにどんどんその色合いを変えていく。私はできるならその全部を絵筆で写し取りたかったが、そんなことができるわけがないのはもちろんわかっていた。
そこには私しかいなかった。だからこの光景は私だけに与えられたもので、ちっぽけな私がそれを吸収しきる前におそろしい勢いで変化を繰り返し、そしてその全てが美しく、美しいままに失われていったから、私は感動するのを通り越してだんだん腹が立ってきた。自分が怒っていると気がついたらますますそれが止められなくななり、最後にはどうしようもなくなって私は叫んでいた。
「バカヤロー神様! どうして私だけに見せるのよ」
その怒りは神様に向けられるものではなくて、こんなにきれいな光景を見せられながら何もできない私自身に対するものだと、心のどこかでは理解していたが、その時は叫び続けずにはいられなかった。
「どうして私一人に。もっと見せたい人がいるのに!」
「それって誰のこと?」
「うわ⁉︎」
突然隣から誰かに話しかけられて心臓が止まりそうになった。
誰か――ではない。わかってた。細川くんだ。
私は顔を背け、かすれた声で聞いた。
「何で今ごろ来るの」
「――ごめん」
細川くんは頭を下げたようだった。私は制服のポケットからハンカチを取り出して目の周りをぬぐい、細川くんを振り向いた。
「別のところで描いてたの?」
「ううん」
細川くんは首を振る。
「そうしようと思ったんだけど、どこに行ってもうまくいかなかったんだ。だから結局ここに戻ってきちゃった。……三好さんがまだいるとは思わなかったよ」
「いて悪かったわね」
どうしても口調が険しくなった。
「私、待ってたんだよ。メッセージも返信くれないし」
「本当に、それは謝るしかないよ。ごめん」
「――もう私と話したくなかったの?」
私は思い切って言った。答えがイエスならさっぱり諦めよう。
「それは……。難しいな」
細川くんは腕を組んで考えこむ。その顔に夕陽が当たって様々に移ろった。
「いや、難しくないのかもしれない。僕は怖かったんだ」
「怖かった?」
「そう」
細川くんはゆっくりうなずいた。
「これまで僕は、自分が寂しいなんて考えたことがなかった。でも本当は寂しかったんじゃないかって、昨日気づいた。気づかされたんだ、三好さんに」
胸に軽い痛みが走る。
「そのことは、私が悪かったと思う。ごめんなさい」
「謝ることないよ。むしろ言ってもらって良かったよ。……けれど、それでも僕は怖かった。僕について僕自身知らないことを、三好さんに言い当てられてしまうのが」
「もうしないよ。昨日みたいに軽はずみなこと」
「いいんだよ」
細川くんは笑った。それがこれまで見たことのない感情の豊かな笑い方だったので、私もどこか安心して笑みを返した。
「さて、絵はどうしようかな」
細川くんに言われて、私は夕焼けの光が弱くなっていることに気がついた。もうじき暗くなる。
「細川くん、昨日のところから進んでないの?」
そう聞くと、細川くんはうん、と答えてスケッチブックを開いてみせた。色のついてないデッサン。
「三好さんは?」
「私も終わってない」
私は描きかけの、半分だけの青空を見せる。
「残りは家でやるつもりだったけど……」
そこで、どちらからともなく視線が合った。
「――一緒にやろうか」
「うん」
そういうわけで、翌朝二人で美術の先生に謝って、一日だけ提出を延ばしてもらった。
その日の放課後に神社で続きを描き、幸いよく晴れて前の日と同じく夕陽はきれいだった。細川くんの絵の空はもちろん夕焼けになり、その輝きは前景の寂しさを完全に覆い隠してさらにびかびか光るから、水彩なのにゴッホあたりを思い起こさせる強烈さだった。私は私で、どうしても夕焼けを入れたくなって半分青空を描いた残りを無理やり茜色にした結果、絵の左右で空の色が全然違うマグリット風の前衛絵画になってしまった。
他の生徒が描いたものからは完全に浮いている二つの絵だが、何故か美術の先生は気に入ったらしく、夏休みまでの間、二つ並べて美術室の奥の壁に張り出されていた。それぞれを一つずつ見ると珍妙な絵なのだが、並べると二つの空間が繋がっているみたいに見え、細川くんの絵から差しこむ夕陽が私の方に届いて、そこで中和されるようだった。
私はそれが好きだったし、細川くんもそうだった。だから私の絵は細川くんにあげた。
細川くんはもっといいものをくれた。
二枚で一つの空 小此木センウ @KP20k
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