二日目

 昨日自主延長したにもかかわらず、私のデッサンはまだ終わっていなかった。いまいち気分が乗らず、ものの形が嘘くさく感じて仕方なかった。描いては消し、消しては描きを繰り返しているうちに時間が過ぎてしまったのだ。


 だから次の日、周囲に呆れられながら早弁して、昼休みが始まった瞬間に私はスケッチブックと画材を抱えて猛然と走った。ほとんど息もつかずに神社の石段を駆け上がり、拝殿の前で急停止して「ちゃんと絵が完成しますように」と心で願いつつぱんと手を拍つ。正しいやり方ではないような気がするが、こういうのは気持ちだ。

 ツツジのやぶを漕いで空き地に出る。そういえば教室を出る時に細川くんがどうしているか確かめてなかった。もしかして先に来ているんじゃないかと少しどきどきしたが、幸いにも彼は私ほど酔狂ではなかったようだ。

 昨日と同じ石に腰を下ろす。陽が当たらないから五月だというのに空気はひやりとしている。

 スケッチブックを開くと、当たり前だが昨日のデッサンは一日経っても微妙なできのままで気持ちが萎えた。けれど今さらやり直している暇もない。気に入らないところはとりあえず目をつぶって、空いている部分を描きこんでいくことにした。


 三十分ほど必死に鉛筆を動かした結果、なんとか空白部分を埋めはできた。昼休みはまだ終わってない。後はちょっと手直ししながら待てばいいか、と思って背後を振り向いたのと同時に、ツツジががさがさ動いた。

「うわ⁉︎」

 茂みから細川くんが出てきた。

「三好さんって個性的なリアクションするよね」

 昨日のも聞かれていたらしい。顔が熱くなった。

「ど、どうして来たの? まだ授業始まってないのに」

「そりゃ、同じクラスなんだから三好さんが先に行ってがんばってるのはわかったさ。でも最初から横にいて急かしたら悪いから、お昼食べてからゆっくり来たんだよ。はい」

 と言って細川くんはペットボトルのお茶を差し出した。買ってきてくれたらしい。

「のど渇いたでしょ。早弁して水も飲んでないし」

「……うう」

 私なんかをそんなに細かく観察して何が面白いのか。でものどが渇いていたのは確かなので、私は素直にお茶を受け取ってごくごくと一気に半分くらい飲んだ。飲んでしまってからこれも女子らしくなかったかと反省する。

「それで、デッサンは仕上がった?」

「まあ八割くらいは――」

 私は自分のデッサンに目を走らせる。到底満足のいくものではないが、多分どうやっても満足はできないとわかっていたから、諦めてスケッチブックを細川くんに差し出した。

 細川くんは私の隣に腰かけると、スケッチブックを目の高さに持ち上げ、何も言わずに眺めている。

 一分、二分と待っても細川くんは黙っている。最初は誉め言葉が見つからずに困っているのかと思ったのだが、絵を見るその目つきは真剣で、私も声をかけあぐねた。

 五分ほどして、さすがに何か言わなくてはと思った。

「あの……どうかな、それ」

「えっ――」

 細川くんは、そこで初めて気づいたように私へ視線を移した。こっちも細川くんを見ていたからとっさに目をそらせず、ばっちり見つめ合ってしまった。

 細川くんの瞳の色は薄かった。茶色というより琥珀色に近い。私はそこに何かの感情があるのではないかと探ったが、細川くんの瞳は外からの働きかけを柔らかく跳ね返すようで、はっきりしたものを読み取ることはできなかった。

「三好さん、うまいね」

 しばらくして、ぽつりと細川くんが言った。

「描かれてるのは風景だけなのに、風景を見ている人がいるってわかる」

「そう……かな? ありがとう」

 なにか難しい言い方だが、誉められてはいるみたいだ。

「この、上の方から木の枝が入ってくるところがあるよね」

「うん。ほら、あれ」

 私は頭上を指差した。

「ケヤキの枝が伸びてきてるでしょ。それで縁取るように描いたら、額に入ってるみたいで面白いかなって」

「そうか――」

 細川くんはうんうんとうなずき、自分のスケッチブックを広げた。

「僕は見たままを描いてるつもりだったのに、ケヤキは描かなかった。無意識に消してたんだ」

「細川くんのも見せて」

 開いたスケッチブックを指差すと、細川くんは珍しく迷うような素振りを見せた。

「う、うん……。だけどつまらない絵だよ」

「いいから。面白いかつまんないかは見た人が決めることでしょ」

 どうも絵を誉められて舞い上がっていたらしい。私はわりと強引に細川くんのデッサンをのぞきこんだ。

 なんだ、普通にうまい――というのが最初の感想だった。

 整っている、という形容が一番合うだろう。手前に高校の校舎、そこから広がる街並みがバランスよく配され、向こうの駅と線路の高架がそれらを受け止めている。その上は白い。白い、つまり何も描いてないのは雲のない青空だからだろう。

「細川くん、やっぱりすごいよ。私の三分の一くらいな時間でこんなにしっかり描けてるんだから」

 私の誉め言葉に、けれど細川くんは首を横に振った。

「早くできても自慢にはならない。誰にでも描けるよ、こんなの。無個性で」

「そんなことないと思うけど?」

 写実的に描いてるからといって個性がないというわけではない。私は細川くんの絵から細川くん特有のものをすくい取ろうと目をこらした。そうすると、急に一つわかった。

「ちょっと誉めてるのかわかんないけど、やっぱり出てると思うよ、個性」

「え?」

 細川くんは不思議そうな顔をする。

「寂しい、と思う。画面全部が寂しい感じがする」

 私は絵を見ながら言った。手前に広く取られた人のいない屋上だとか、整然としているけれど無機質な市街、それに画面の中心を占める何もない空がそんな印象を与えるのだろう。

「どうかな?」

 答えがない。あれ、と思って振り返り、私はぎょっとした。細川くんは無表情になっていた。

 何かの気持ちを押し殺しているのはすぐにわかった。それは私の不用意な言葉のせいに違いなかった。

「ごっ、ごめん!」

「謝る必要はないよ。的確な感想だと思う」

 細川くんは口の端を吊り上げて笑う。まったく感情のこもらない笑い方だった。

「三好さん、描くだけじゃなくて鑑賞の方も才能あるよ」

 誉められても今度は嬉しくない。

 私は黙ってしまった。次にかける言葉が見つからない。

 細川くんもしばらく何も言わずにいたが、やがて立ち上がった。

「描き直した方がいいな」

 小さな声で言って、絵の端に手をかける。

 破ろうとしている、と思った瞬間に体が動いた。

「やめて!」

 私の手は細川くんの手首をつかんでいる。細川くんは硬直したように動かない。

 私はしばらく手を離さなかった。細川くんの方も無理に振り払いはしなかったから、二人は同じ恰好で時間が止まったようにたたずんでいる。

「いい絵だよ」

 私は声をしぼり出した。怖くて細川くんの顔を見ることはできなかった。

「――手を離してもらえる?」

 細川くんは柔らかい声で答えた。

「破らないって約束するなら」

 少し沈黙があって、その後で返事があった。

「わかったよ。約束する」

 私はうなずいて手を開いた。力いっぱい握っていたから、手のひらがこわばっている。細川くんもつかまれた手首をさすっていた。

「ごめんね。力、強すぎた」

「三好さんは何でも全力勝負だね。ちょっとうらやましいな」

「えっ?」

 何が一体うらやましいというのか。私は細川くんの顔を見上げた。その表情は寂しそうで、彼の描いた絵の世界から抜け出したようだった。

「悪いけど今日は帰るね」

 細川くんはスケッチブックを閉じようとして、その手が不意に止まった。じっと、彼は自分の絵を見ている。

「いい絵だよ」

 もう一度、私は言った。細川くんは目だけで私を見て、その表情が歪んだような気がした。

「ありがとう。でも僕はやっぱり気に入らない」

 そう答えてから、細川くんは自分の口に手を当てた。

「――そうか。僕は気に入らなくなったんだ、この絵が」

 私は思わず立ち上がった。

「破っちゃダメだよ」

「うん」

 細川くんはぱたんと音を立ててスケッチブックを閉じ、画材をわきに抱えた。

「じゃあね」

 そのまま早足で歩き出す。その背中に、私は声をかけた。

「明日も来るよね」

「わからない」

 細川くんは立ち止まりも振り返りもせず言って、ツツジの茂みへ消えていく。私は残された。


 わからない、ってどういうこと?


 頭の中をその疑問がぐるぐる回る。絵の提出期限は明後日の朝。明日いっぱいで描き上げなければならないのに。

 そうだ、明日いっぱい。私も自分のを仕上げないと。私はのろのろと水彩を用意する。ツツジをくぐり、水は拝殿の横にあった手水場の水道を借りる。拝殿を描いている生徒が二、三人いたが、当然ながら細川くんの姿は見当たらない。

 元の場所に戻って絵に色をつけ始める。この絵の見どころは空にしたかった。そこは後に残して、先に前景に色を乗せよう。

 無理に気持ちを引き立たせようとしても無駄だった。どうしてか心には細川くんの背中ばかりが浮かび、つい後ろを振り返ってしまう。そんなのをだらだらと続けて、前景に淡い下塗りができたくらいで授業時間が終わり、前日のように居残る気分にもならないで早々に引き上げた。


 家に帰ってからも自分のスマートフォンが気になった。細川くんからのメッセージはない。こっちから送ろうか、ずっと悩んで、送った方がいいに決まってる、でも送ってはっきり拒絶されるのが怖かった。

 だからお風呂に入る前に、「明日待ってる」とだけ書いて送って、それでスマートフォンを投げ捨てるようにして部屋を出た。お風呂の後で見たら既読にはなっていたけど返信はなかった。

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