二枚で一つの空
小此木センウ
一日目
美術の時間は新入生用の特別授業が毎年恒例らしく、三日続けて、午後をいっぱい使って校外に写生に出ることになった。
私の通う高校はわりとそういうところがおおらかというか、自己裁量に任せる授業が多く、一年の五月だというのに既に大っぴらにサボったり、とんでもない遠くまで行って音信不通になったりする人も出てくるが、とにかく今日を含めて三回の授業の後で完成品を提出しさえすればよい。その過程に教師が口出ししてくることはない。
教育論としてどうかは知らないが、生徒としては歓迎すべきだと思ってるし、意外とサボる人は少ない。みんな根は真面目なのだと思う。
私はといえば、美術は元から好きだったからサボる理由はないのと、他の人の気づかない特等席を実は知っていたから、先生から一通りの説明を受け散開になってすぐ、駐輪場に向かう人たちとは反対に、小走りで北東の裏門を抜けた。
裏門から少し登ったところに神社がある。それはみんな知っているから私以外にも何人かは来るだろうけれど、穴場はさらにその奥だ。
鳥居をくぐるとすぐ横に社務所、そこからけっこう長い階段が続く。階段を上りきった突き当たりが拝殿で、周りは化け物みたいに巨大なツツジの木々に囲まれている。
私は拝殿の向かって左側に目をこらした。よくよく見ると、ツツジの植わり方が疎になった箇所があり、うっすらと土が露出している。大雨で水が流れた後のようにも見えるが、実はこれは古い道跡なのだ。後ろから誰もついてきていないのを確かめて、私はツツジの茂みに分け入った。
道跡を辿ってツツジの枝を何本かかき分けたところで、いきなり視界が開けて空き地が出現した。眼下に高校の屋上があり、そこを起点に駅前まで、私の住む街が見通せる。
空き地は西向きに開けた斜面の途中に位置していて、上の方はケヤキの古木から伸びた枝で覆われているから日が入るのは夕方のわずかな時間だけだ。おかげで下生えも少なくて歩きやすい。
右手には、朽ちかけて斜めに傾いだ木造の社がある。昔はこっちが拝殿だったらしい。拝殿の場所を移した理由は知らないけれど、とにかくそのせいでこの場所を知っている人はほとんどなく、私の絶好の隠れ場所なのだ。
空き地の端に、細長い長方形の石が置いてある。のみを打った後が規則的に連なっているので加工したものとわかる。昔は展望席として使われていたのだろう。遠慮なく私も腰かけて、スケッチブックを広げた。
さて、何を描くか、だ。ここから見える街並みはきれいだけど、そのまま写し取っても、なんとなく焦点が合ってない気がする。中心になる何かはないかと視線をさまよわせていると、背後の茂みから突然がさっと音がした。
「うわ⁉︎」
思わず女子らしくない声が出て、慌てて口を押さえる。中腰で振り向いた私の目に、男子の制服が映った。
茂みから出てきた相手は一瞬驚いた表情になったが、すぐに笑顔を浮かべて口を開いた。
「ああ、誰かと思ったら三好さんか」
「細川くん……」
こちらはそんなに器用じゃないのでうまく表情の切替えができない。
「よくここがわかったね」
それはこっちの台詞だ。細川くんは、中学まで別の市にいて引っ越してきたと聞いた。どうしてこんな場所を知っているのだろうか。
「この神社ね、古道の中に建ってるんだ」
私の怪訝そうな顔つきに気づいて、細川くんは言った。
「今の家に引っ越しが決まった後、地図アプリで近くに面白そうなところがないか探してて、ここに気づいたんだよ」
「へえ、意外。そんな趣味あったんだ」
「まあね」
細川くんは曖昧に笑うと、
「そこ、座っていいかな」
私の隣を指差した。
「う、うんどうぞ」
自分が横長の石のど真ん中を占拠していたことに気づいて、私は急いで端の方によけた。
にっこり笑った細川くんは、するりと隣に来て石に座る。手を伸ばしても届かないが、他人というには近い。減点のしようがない位置取り。
「さて、この辺かな」
細川くんはスケッチブックを膝の上に立て、すっと横に線を一本入れると、早くも街並みのアウトラインを取り始めた。
「あ、早い」
「見たまんまを描いてるだけだよ」
風景とスケッチブックを交互に見ながら、細川くんはどんどん鉛筆を動かしていく。
「すごいね。私、まだどうやって描くか決まらないや」
まっさらな自分のスケッチブックを見て、私はため息をついた。
「そうなの?」
細川くんが不思議そうに私を見る。
「いい景色だと思うけど。三好さん、気に入らないの?」
「違うよ。きれいだとは思うんだけど、ピンぼけっていうのかな、このままだと何か足りないなって思って」
「ふうん」
よくわからないな、と返事が聞こえた。
私は言葉が継げなくなって押し黙り、細川くんも何も言わず鉛筆を動かしている。
時計を見ると授業が始まって三十分過ぎていた。まずい、このままだと今日中にデッサンも終わらない。あせった私はとりあえず大ざっぱに構図を決めて、目に入っているものをどんどん書き込むことにした。この方法だと後で全体がいびつになったりバランスが悪くなったりしてしまうが仕方ない。
ううう、と唸りながら建物、木々を模写していく。これはダメなパターンだ、納得いかないできになる。心の中の私の声がする。いいんです、授業でやってるだけなんだから、そこまでこだわらなくても。
「場所、替わろうか?」
気がつくと細川くんは手を止めて私を見ていた。
「汗かいてるよ」
「えっ」
額に手をやるとべたっとした感触が伝わった。悪戦苦闘のあまり私は大量に発汗していたのだ。細川くんはそれを、私の座っている場所に日差しが当たっているせいだと思ったらしい。
「ううん、大丈夫」
木漏れ日が当たらないわけではないが、ここは涼しいし、汗をかいた原因はまったくそれではない。私が慌てて首を振ると細川くんは首を傾げた。
「そう? でも暑かったら言ってね。いつでも替わるから」
「あ、ありがとう」
まったくよく気がつくな。
「でもこのままで構わないよ。動いたら構図が変わっちゃうし」
「三好さん、美術部だっけ? ずいぶんこだわるね」
細川くんはもう一度私を見つめ直した。さっきから見られ続けていい加減恥ずかしくなってくる。汗も止まらない。
「違うよ。だけどせっかく描くんだから、なんかそれなりのものにしたくない?」
ハンカチで汗をぬぐいながら私は答えた。細川くんは腕組みして考えこむような素振りを見せる。
「うーん、僕にはやっぱりわからないな。授業なんだから言われたようにやってれば、わざわざそれ以上を目指す必要ある?」
細川くんの言葉がさっきの心の声みたいだったので、私はぎくりとした。
「そ、そうなんだけど……」
慌てて次の言葉を探したせいで、けっこう無遠慮な言い回しになってしまった。
「細川くんって、なんていうかカロリー低めだね」
口に出てからしまったと思ったが、細川くんの方は特に何も感じていないようだった。
「三好さんの方が燃焼しすぎなんじゃない? 芸術家気質みたいな」
そう返して、私の絵をちらりとのぞく。
「ちょっ、まだダメ。全然できてないから」
電光石火の速さで私はスケッチブックを閉じる。
「ごめんごめん」
細川くんは頭をかいた。
「じゃあ、デッサンが終わったら見せ合わない?」
「うっ」
いやだ、とは言いづらい。
「でもあれよ、私、今日は終わらないと思う。明日でいい?」
話しながら時間を確認する。もう授業時間の半分以上が経過していた。私のデッサンは三分の一できたかどうかだ。
「わかった、そうしよう」
細川くんはうなずき、さっさとスケッチブックを閉じて片付けを始めた。
「えっ、細川くんもうデッサン終わったの?」
「終わったよ。そんな大したもんじゃないし」
その大したもんじゃないのに引っかかってる私は何なんだ。
「じゃ、先帰るね」
と立ち上がって、ああ、と振り返る。
「これ、やってる?」
細川くんの見せたスマートフォンの画面はメッセージアプリを表示している。
「うん」
「じゃあID交換しようか。やり方わかるよね」
「う、うん」
断る隙がない。私は半ば強制的にIDを交換させられた。
「はい、登録できた」
私のスマートフォンから軽薄なワルツが流れた。見ると、
『明日もよろしく』
簡潔なメッセージの向こうで細川くんが微笑んだ。軽く手を振るとこっちに背中を向け、来た時と同じようにツツジをがさがさ言わせて去っていく。
「また明日ね」
背中が半分見えなくなったところで私は声をかけ、その姿が完全に消えてから空を見上げた。
真似できないな、と思った。如才ないというのか、他人との距離の取り方がうまい。
実をいえば、同じクラスになった最初から私は細川くんを見ていた。知らない人にも物怖じせず、誰とでも隔てなく話す。それでいて特定のグループに加わりはせず、いつも自由な雰囲気がある。変なところで頑固なせいで孤立気味の私とは対照的で、それだからうらやましかったのだ。
でも、私とまで距離を詰めてくるとは思わなかった。とはいっても、自分に好意があるのかもと期待するほどうぬぼれてはいない。細川くんもここに私がいるとは考えてなかったはずだ。偶然会ったから、彼のそつない交遊リストの穴埋めをしただけだ。細川くんにとっての私の価値は、アプリのリストに載る名前一つ分くらいのもの。そのはず。
なんとなくもやもやする気持ちを押し殺し、私は再びスケッチブックを開く。もう授業の終わる時間だが、放課後の掃除当番にも当たっていないし、今日のうちにできるだけ進めておこう。
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