カコイナシ

小余綾香

第1話 囲い梨

神子みこ様、おつらいことはありませんか?」


 早乙女は山梨ヤマナシへとにじり、の荒肌をてのひらでる。長く伸びた枝がさやぎ、散らう白い花弁は黒髪とった。


『そなたと語らう時はうれいも晴れる』


 低い声をかすかに響かせながら花唇かしんは風に舞う。彼女は切なげに目を細め、そっと額を古木こぼくへ預けた。


『そこの梨も咲いたか』

「はい。こずえにまだ雪をかぶるようです」

『……共にながめたいものよ』


 娘は息を飲む。吐息のようにささやかれた願いが梨の樹さえ脈打たせるのを掌は感じていた。


§


 梨の井と呼ばれる家があった。

 屋敷の鬼門きもんに山梨が根生ねおい、絶えずに実ること、井に水がくようである。大同だいどうに授けられた若木が、家と共に代替だいがわりし、幾度いくたびも不作の秋冬を救ってそこにある、と伝わっていた。

 それ故、家では梨が屋根を越えて育つのを許し、中でも一番の大樹を大切におまつりする。

 まだ江戸に柳営りゅうえいのあった頃のこと。梨の井の当主、文助もんすけにはサダという娘がいた。サダは幼い頃から梨をる役目をよく果たした。その朝も彼女は上げの大きな着物を整え、器用に神饌しんせんを運ぶ。ふっくら小さな手と手を合わせ、


仔馬こうまがやせて、みんな、心配しています」


 ふとサダは口走った。昨夜、大人達はそればかりを話し、彼女も馬の仔を気にかけうまやをしばしば覗いてしまう。その不安があどけなくこぼれ出た。

 不意にまだ硬い実がぽとりと落ち、サダは驚いて退きかける。


『仔馬の話を聞かせよ』


 突然、男児の声が響いた。聞き慣れない声にサダは辺りを見回す。しかし、人の姿はなかった。

 彼女は青い果実と梨の幹を凝視ぎょうしし、慌てて身を整え直す。大木の異界へ届く高い枝から神々が降りられる、とさとされて来たサダは、それを梨神の声とかしこまった。


「きれいな青毛あお梅雨つゆにうまれました。ことしは冷えたので弱いかもしれないそうです」

『弱い仔を持つ母は哀れだ』


 葉がざわめく。

 急に虫が鳴き出し、つづせ、綴れ刺せ、とり返した。サダは実を拾い耳元に近づけたが、そこからは何も聞こえない。幹に手を伸ばしても気配はなかった。彼女はそっと根の方へ足を伸ばす。


「これ、足をかけてはいかん!」


 文助のしかる声が飛び、サダはびくりと振り返った。


「……なしの神さまが……」

「そう、神様の宿る樹に足をかけてはならん」


 言い聞かせるように一度、娘をにらんでみせると、文助は忙しそうに家へ入って行く。

 翌日もその翌日もサダは神饌を上げる度に梨の樹へ語りかけたが、声は返らなかった。そうする内に梨の実は褐色みを帯びて行く。


「なしの神さま、いらっしゃいますか?」


 どれ程、経ったか。地にまろぶ梨を避け、神饌を供えて呼ぶサダの問いかけに応じる声があった。


『そなたは青毛を持つ娘か?』

「はい。青毛は育ちそうです」

僥倖ぎょうこうである』


 サダは小首を傾げる。告げられた言葉は彼女には判らなかったが、おごそかであった男児の声はどこか弾んでおり、喜びをサダも感じた。


『しかし、私は〈なしのかみ〉ではない。皇子みこである』


 再びサダは首を傾げた。


神子みこ様ですか……神子様は馬がお好きですか?」

『好きだ。坂上さかのうえの祖母の家に良い馬がいる。田村麻呂たむらまろ老翁おじは白河関の奥は竜馬りゅうめける地と言った。その話は心地良い」


 それからサダは梨の樹に馬や山野について語りかけた。時に梨が声を返す。

 着物の上げもとれようか、という年頃になると、サダは梨をしたう、と噂され、文助は娘を隠しがちになった。しかし、隠され、樹から遠ざけられる程、サダのかたらいを求める想いはつのる。彼女は家人の目をかわし、夜半よわあかつきに梨の樹へと通った。


「聞く程に、そなたの国は話に聞く陸奥おくと似ている」


 しばしば、そう感嘆する声の近しさにサダの心は震える。人の姿を持たない相手と思いながら彼女は胸を高鳴らせた。


§


 そして、幾年いくとせか巡り、花の季節。梨は思い余った声を降らせる。


『花も雪もそなたとでたい……全てを捨て、私の元へ来られるか?』

「はい」


 サダは迷わなかった。

 すると、男の声も意を決したように強く返る。


『では、そなたの名を問おう』

「サダと申します」

さだか。さだ、異界へ通じる枝から我が元へ参れ』


 その黄昏たそがれ、梨の樹の下には草鞋ぞうりが残された。

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