第2話 過去往なし

「や! これは何事!」

「このわらわ、梨から生まれたぞ」

あやかしか」


 サダは騒ぎをおぼろげに聞いていた。

 梨に登りながら気が遠くなったことを思い出し、天へ上がり損ねて落ちたのだろうと失望がみ出る。それでも起きる為、力を込めた時、初めて彼女は甲高い声が何を語るか心得ないことに気付いた。見回せば、噂にも知らない綾羅りょうらをまとう者達が彼女へ恐ろしげな目を向けている。布も建物も鮮やかに彩られ、サダの知る世と似るのは草木や石しかない。

 神々の住まう庭に来た、と信じ、サダは慌ててその場にひれ伏した。


「お許しください。天に昇って来てしまいました」


 途端、サダは自分が発した声の幼さに驚く。見開いた目に丸みを帯びた手が飛び込んだ。体から着物がずるりと落ちる。

 サダは幼子おさなごの姿になっていた。


あだなすつもりはなさそうです。それに、この言葉、東言葉あずまことばに似ているように思います」


 男が一人、ひさしからへ出て、おびえる彼女に笑みを結んでみせる。


「おぉ、市正いちのかみ殿もそう思われましたか」

東歌あずまうたに頭悩ませていた我々への天恵やもしれません。この童女、我が家で東人と話させてみましょう」


 彼は梨壺なしつぼの庭へ下りると彼女のそばに身を屈めた。


「私は坂上望城さかのうえのもちき。おいで」


 差し伸べられた手を彼女が取ろうとすると、また着物がはだける。望城はそれを着せかけながら彼女を抱き上げた。

 屋敷への道すがら、望城は幼子のげんみ取ろうとやさしく語りかけ、少しずつサダの話すものを察して行った。それに安堵あんどしたサダも懸命に経緯を伝えようとする。自分が嫁ぐ程の歳であること。幼い日より梨を通して神子みこと交流したこと。そして、彼に呼ばれて梨を登り、ここへ来たこと。

 それらを語ると、サダは涙がにじむのをこらえ、望城を見上げた。


「坂上様。神子様はの祖母、田村麻呂の伯父おじと言われました……ご存じですか?」

「なんとも不思議な話よ」


 望城はしばし遠い目であおぎ、思案してから応える。


「私の五世の祖の名だ。それを老爺おじと呼ぶ皇子みこというと業良なりよし親王だろうか。只、昔に亡くなられている」


 それを聞くやサダはとうとう泣き出した。その涙するさまは童女の姿でありながら童女ではない。望城は彼女が霊妙な存在と直感した。


「そう嘆くな。大同だいどうの梨を伝手つてに異界を渡ったなら、ここから余所よそへも行けよう。大将軍は民の為、陸奥みちのくの強い梨を持ち帰られた。梨壺にも恐らくそれを植えたのだろう」


 しかし、その声はサダに聞こえている風ではない。望城は考えあぐね、戸惑いがちに涙をぬぐってやった。二人の目が初めて真直ぐに合う。


「きっとそなたは言葉やしきたりを覚える為にここへ降りたのだ。皇子様の御前に出られるよう学びなさい」


 望城は屋敷で働くなまりある者達をそばに置き、サダの心を慰めながら都の流儀を教えて行った。彼女もそれに応えて励む。やがて髪上げの話も出る頃にはサダはみやこに生まれた娘のように見えた。

 そのような折である。望城は彼女を茂る梨の大樹へ案内して言った。


「この樹は大将軍が敵の長、大墓公たものきみとむらしのぶ為に植えた、と言われ、坂上の者は大切にしている。そなたもならうと良い」


 大同の梨。これが望城の語った異界へ渡る伝手と察し、サダは手を合わせる。


「皇子様、おいでですか?」


 梨は応えなかった。この梨からは皇子へ声が届かないのか、それとも皇子が応じないか、サダに知る術はない。彼女は哀しげに木肌を撫でた。

 すると、梨はさざめき、枝々の狭間に都の空とは異なる青がのぞく。高空たかぞらの下、黄みがかり揺れる稲とそれを囲う山の暗緑。二人の前に深まる景色はサダには見紛みまがうことないさとの秋だ。


「故郷が懐かしいか?」


 望城は思わず声をかけた。わずかにも動かず不思議を見るサダは今にも異界の中へ吸い込まれそうである。問いかけに振り返った彼女へと望城は更に言い募った。


「そなたは親王様の元へ参りたいのであろう? たとえその道が開かれずとも案ずることはない。私が面倒を見よう」


 サダは彼を見つめ返す。その瞳に迷いの影を見て望城が口を開こうとした瞬間、ふっと彼女はその視線を逸らした。


「これまでのご恩、お返しもせず去ることをお許しください」


 望城を見まいとするかに袖で目元を隠すサダは異界の光景へ手を伸ばす。指先が届くや彼女の姿も神通も跡形なく消えた。それは初めから存在しなかったようであり、今は名残に香る薫物たきものさえ間もなくせるだろう。

 望城は袖で風をくるむようにそこにたたずんでいた。

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