ハエ

@shimato

1

ー1ー

私はこの人間にたかる一匹のハエだ。

この人間の生涯を見届けることが私の天命である。

三畳一間の薄暗い部屋の壁際。

その一角こそが私の住処である。

居場所といって差し支えない。

この人間の居場所は広大な世界にたったの三畳。

ただこの人間にとってこの場所はどうやら居心地が悪いらしく、いつも毛布に身を包み何かに怯えたり何かを罵倒したりしている。

ではなぜこんな場所にいるのか。

私では想像に及ばない。


落花狼藉とはこの三畳を意味するのだろう。

まるで脳みそでもぶちまけたようにそこいらに散乱する手記。

窓際にポツンと残された生花のない花瓶。

心許なく明滅する蛍光灯。

私にとっては全く問題ないが、人間にとって住みやすいと思えないこの場所は、変わらぬ有り様のままもう3年余りが経過している。


私が観察するにこの人間、現実逃避や責任転嫁の鬼とあだ名するに違いない性質で、いつも「あいつさえいなければ」とか「俺は悪くない」とかブツブツ呪文のように唱えている。

自ら穴を掘り、自ら穴の中に埋っておきながら世間様に向かって「何故」と問うている様は、もはや自己陶酔でもしているかのようにも見えた。

可哀想に。

しかし結局、私が同情したところでこの人間にしてやれることなど何もない。

当然するつもりもない。

私はハエなのだから。


地球にとって、この私が極々小さな存在であるのと同じように、宇宙にとってこの人間はただの塵でしかない。

気付いたら生まれていて、気付いたら消えている。

そんな程度のものなのだ。

その中で「意味」などを問いだしたのは、一体誰だったのだろう。

この世はほとんどが頭の中の妄想で作られていて、この世のほとんどはその妄想に勝手に固執して勝手に追い詰められ、息苦しく悶えながらも堪えて生きている。

意味など探したところでどこにもないというのに。


日を重ね、この人間について更に分析してみると、新たな一面も見えてくる。

それは先に上げた性質とは真逆のようだが「自分の価値を軽視している」面である。

人間に価値などないが、だからといってこうやって布団に包まり恨み言ばかり垂れているのでは自分の世界など変わる筈もなく。

この人間の世界が変わらなければ必然的に私の世界も変わらない。

天命なのだから仕方がないと諦めてはいるが、流石に飽きるというもので、もっぱら最近はそれはそれは丁寧にグルーミングをしてなんとか暇を潰している始末である。

天命を受けている私とは違って、この人間には現状を変えられない理由などどこにもない。

結局自分の有り様は自分が勝手に決めているのだ。

やはり脳みそなど進化させるべきではなかったということだろうか。

いや、私はハエだからそんなことは考えずとも良い。


ところで恐怖症というものは世間一般に知られているのだろうか。

ある特定のものに対して異常なまでの恐怖を感じるというものだが、私の観察対象であるこの人間も何がしかを極端に恐れているようだ。

この人間を支配しているであろう感情を分析するに、それは大きく3つに分類されるように思う。

まず初めにその名前の通り、「恐怖」。

その次に「怒り」。

最後は…これはまだ小さな芽だが、この人間を見ていればその内分かることだろう。

誰もそんなものは知らないほうが良いに違いない。


少し昔話をしよう。

とある冬の午後のことであった。

私は幼い頃のこの人間に体を潰されたことがある。

それがこの世界の理なのだから同情などは必要ない。

しかしそれがきっかけで、このように見届人を任命されたのだから世の中何が起こるかわからないものだ。

なぜこうしてまだ生きているのかは全く不明。

天に蘇生されたのかもしれないし、流行りの転生というものをしたのかもしれない。

その前後のことは何故か覚えていないのである。

そもそもの疑問として何故私が逃げもせず、この人間に潰されてしまったのか。

今となっては天すら知らない。


ー2ー

きっとあのハエも俺を蔑んでいるのだろう。


将来のためにとコツコツ貯めておいた貯金を切り崩して、何とか今まで生活してきたが、それも昨日底を付いた。

夢も希望も未来もない。

ただ今日を凌ぐ。

すべてが俺の中を通過していく。

受け入れているのではない、流れているのだ。

肋骨の隙間を縫うように。


それは突然、俺の中に芽生えた。

初めは恐怖だった。

小さな教室から始まって、次第に外へと広がっていき、最後には世界中が俺の敵のように見えた。

俺以外のすべてが手を取り合って、俺に恐怖を味わわせようとする。

それから更に俺以外のすべてが手を取り合って俺を殺そうとしている。

直接的にではない。

俺を俺自身の手で殺させるのだ。

自分は手を汚すことなく、勝手に消えてくれればいいと

そう言うのだ。

周りの人間は考えすぎだという言葉ですぐ片付けるが、考えすぎだけでは説明できない目にあっているのだから苦しんでいるのだということを奴らは理解しない。

その頃から段々と胸に湧いてくるものがあった。

怒りだ。

すべてが憎いと感じた。

己すら憎かった。

寝ているときだけが現実を忘れられる唯一の時間に思えるほどに。

いっそ永遠に寝ていられたなら。

そんな時、あれは来た。


少し昔話をしよう。

幼少期、俺は一匹のハエを自らの親指で潰したことがある。

今でも何故そんなことが出来たのかは分からない。

しかしその黒くて大きなハエは、なぜか俺に潰されるまでその場を動こうとせず、ただじっと俺のことを見ていた。

それ以来俺はふとした瞬間に、何かとてつもなく大きなものに押し潰されるような感覚に苛まれるようになってしまった。

その出来事が原因かもしれないと気付いたのはつい最近のことなのだが。


特に俺の近くをたかったり目立つようなことはしないあのハエだが、一番初めに知覚したのは3年前だったように思う。

確かハエの寿命は1週間から1ヶ月程の筈だ。

にも関わらず、あのハエはいつまで経ってもいなくならない。

子孫を残しているだけかもしれないが、何故かそうだとは思えなかった。

もしかすると俺はあいつに親近感を抱いているのかもしれない。

鼻つまみもの同士だからだろうか。

そんなことを考え自嘲気味にニヤついていると、ふと、しっかりとその姿を見たことがなかったのに気がついた。

別にそんなものをわざわざ見てやる必要もないが、まぁこの機会に一度見てやろうと思い至って首を壁際へ巡らせてみる。

自分以外のものに興味を持ったのはいつ以来だっただろうか。

しかし亢進する思いとは裏腹に、俺の期待していたものはそこにはなかった。

俺がハエだと思い込んでいたそれは、ただの壁についた小さな黒いシミだったのだ。


花瓶に水を注ぐ。

水道は止められていたので、床下を漁っていたら500mlペットボトルに1/2程残っていた天然水を探し当てたのだ。

水は注がれるのを躊躇うように一滴一滴ゆっくりと流れ落ちていく。

口の中に残っている極々僅かな生唾を必死に飲み込みながらそれを見つめ、残り1/4程になったところで手を止めてペットボトルの飲み口を唇へと移す。

これが最後の水。

これを飲み干したら少しだけ潤った体で、どこに行こうか。


ー3ー

僕はこの三畳一間の天井に生息する一匹の蜘蛛。


どうやらこの人間、ただの壁のシミをハエだと思い込んで生活していたようだ。


この人間の最後を見届けるのが僕の天命である。

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