春夏あき

「これを登るのか……」

 眼前にまっすぐ伸びる崖のような坂を見上げた僕は、小さくため息をついた。

 頭上には七月の太陽がギラギラと光り輝いている。遠くから蝉の鳴く声が聞こえてきて、僕の感じる暑さを五割増しにした。

 僕は絶望しそうになる気持ちを抑え、その坂道へ始めの一歩を踏み出した。履きなれた運動靴がぺたりとアスファルトを踏みつける。随分擦切った靴底は、道路のごつごつとした感覚を足裏に伝えて来た。僕は右手に持ったクリアファイルをうちわ代わりにしながら、この急な坂道をゆっくりと歩き出した。

 そもそもなぜ、僕がこんなことをしなければならないのだろうか。予定では今頃、親友のたっちゃんと学校のプールで泳いでいたはずなのだ。

 こうなってしまったきっかけは、夏休み前にあった。僕はとある大事なプリントを持って帰るためにクラスメイトからクリアファイルを借りたのだが、それを返すのをすっかり忘れてしまっていたのだ。それだけならまだ夏休みが終わった後にでも返せばよかったかもしれないが、こうなってしまった原因は実のところ二つ目のほうが大きい。それは僕の母の存在だ。母は普段はだらしないくせにこういう所は妙に律儀で、借りた物はすぐに返してこいと僕にしつこく注意してくるのだ。僕にこのお小言を夏休み中聞き続ける気力は到底なく、仕方なくこうして彼の家へ返しに行っている。

 彼のことは詳しくは知らない。クラスの誰とでも仲良くする奴だけど、それ故に特定の誰かと親密になるということはない。普段彼の周りにいる人たちですら彼の家に遊びに行ったことがないと言っていたから、僕は彼はあまり面白くない奴なのかもしれないと思っていた。だが彼に友達が少ない理由は、実は家の立地にあるのかもしれない。

 首筋に汗が流れた。僕はポケットからハンカチを取り出してそれを拭いながら、彼の家があるはずの坂の頂上を見上げた。先ほどから大分歩いてきたと思っていたが、家は相変わらず信じられないほど遠くにあった。

「あっつ……」

 意識せずとも声が漏れる。坂を登るために足を上げ下げしていると、普通に歩いているときの何倍も体力を消耗する。そのため僕の身体には多量の熱がこもり、それらは肉と骨の間で灰燼のように赤々と輝いていた。春の桜は人を狂わせると言うが、夏の太陽にもどうやら同じような効果があるらしい。やり場のない大いなる熱量を内に秘めたままでは気が狂いそうになり、だから僕には、なにか貯まった鬱憤のはけ口が必要だった。

 大きな、大きなため息をつく。それでも残りの道のりが短縮されるということもなく、僕はやはりため息をついた。こうしていても何も解決しない。いつまでもうじうじ悩んでいるよりは、早くこのファイルを返してさっさと帰った方が得策ではないだろうか。そんな考えで自分を励まし、急な坂道をじりじりと進んでいく。

 坂の両脇には民家が建ち並んでいた。彼らはこんな急な坂であっても懸命にそこにしがみつき、住人の生活を支えている。周囲には人の姿は無かった。当たり前と言えば当たり前だ。こんな時間に外へ出てくるような奴なんて、よっぽど急ぎの用事がある奴しかいない。この炎天には、人にそう思わせるだけの力が込められていた。

 そんなことを考えながら気を紛らわしていると、右足を前に踏み出した時、僕は妙な違和感を覚えた。足裏に触るアスファルトの感覚が、なにか先ほどまでと違っている気がするのだ。犬のうんこでも踏んづけたかと慌てて足を上げてみるが、その下には石一つ落ちていない。黒くのっぺりとしたアスファルトがあるだけだ。

 しかしそんなはずは無いのだ。確かに僕は違和感を覚えた。それは小さな、本当に注意しないとわからないほどの違和感ではあったが、僕はそれを感じとることができた。

 しばらく立ち尽くしてその原因を探してみたが、周囲にそれらしいものは見あたらず、僕は仕方なく坂を登るのを再開した。

 太陽の凶悪な熱波が頭を焦がす。行けども行けども、彼の家はじりじりとしか近づいてこない。それどころか、先ほどよりも遠く、高くなっているような気さえする。

 辺りからは蝉の声と、ゴトゴトという室外機が唸っている音だけが聞こえて来ている。室外機が動いているから中に人はいるはずだが、それ以外に聞こえてくる音は一つとしてなかった。足音や荷物のこすれる音、バイクや車のエンジン音すら聞こえてこず、僕は街のど真ん中にいるはずなのに強い疎外感を覚えた。

 そんな調子で坂を進んでいくと、ようやく道のりの中ほどまでたどり着いた。ここから先は坂の角度がさらに急になる。これ以上はさすがに車も入るのが難しいようで、両隣の民家の駐車場は空っぽだった。アスファルトの道路の脇には灰色のコンクリートでできた階段があり、所々が錆びついた黄色い手すりが階段に沿って地面にへばりついていた。

 僕は自分の成し遂げた行為を確認しようと、手すりにつかまって一息ついてから後ろを振り返った。そこには絶景が広がっていた。僕の住んでいる場所は川沿いにあり、周囲とは一段下がった場所に当たる。こんな風に上から街を見下ろすのは初めての経験だった。まず目につくのはミニチュアのように小さな家々だ。くすんだ色の屋根を乗せた家が、地面をびっしりと埋め尽くしている。所々に見える広い屋根は商業施設だろうか。学校の校庭や公園は、数多くの人工物の隙間から肌色の地面を露出させていた。

 この風景に少しばかり元気を貰った僕は、正面を向き、残りの坂を登ろうとした。手すりを握り直し、足を一歩踏み出す。その途端、僕はまたもや先ほどと同じ違和感を覚えた。

「……?」

 ゆっくりと足を上げてみる。だが、やはり下にはなにもない。強いて言うならば色が黒から灰色に変わっていたが、だからといってなにかがあるわけでもない。靴擦れでもしたのかと思って靴から右足を引っこ抜いてみたが、別にどこにも痛みは感じなかった。

 結局、僕はまたもや違和感の正体を見つけることができなかった。図らずも出鼻をくじかれる形となった僕は、歩く決心を崩されて、ぼんやりと坂の上方を眺めてみた。

 額を流れる汗を手のひらで拭い、ファイルをより早く動かす。さすがにこの位置まで来れば、彼が言っていた特徴を持つ家が見えていた。まだあそこだと確定したわけではないが、表札を見ればそれもすぐにわかるだろう。残りの道のりは距離にして百メートルと言ったところだろうか。平地では少し遠いと思うだけの距離ではあるが、こうして坂道でそれだけを行こうとすると、途端にうんざりした気持ちでいっぱいになる。しかしどうこう言っていても終わらないのだから、僕はこの先へ進むしかない。

 僕は錆びついた黄色い手すりを持つ手により一層力を込め、足を動かすというよりは手で身体を運ぶように歩き出した。これまでの疲労がとうとう誤魔化せなくなったのか、腿を上げるのが難しくなってきていた。身の回りの大人たちが「腰が痛い」「足が上がらない」などと言っているのを聞いたことがあったが、まさか自分にも同じようなことが起きるとは思ってもみなかった。僕はまだ小学生なのに、もう老化が始まってしまったのだろうか。それともこれは、学校の保険の先生が言っていた熱中症の初期症状というやつなのだろうか。僕はこれまで筋肉の痙攣が起こったことは無いので何とも言えないが、もしそうならかなりまずいのではと考える。彼の家に着いたら、お茶の一杯でも貰わないと、帰る途中で倒れてしまうかもしれない。

 必死に足を動かすが、僕の身体はじれったいほどまでにゆっくりとしたスピードでしか坂道を進んでいかない。坂の角度は先ほどより少し急な程度だが、今の僕にとっては断崖絶壁だ。もはや手の力が無ければ、僕の身体は支えられない。ほら、こうして進んでいる間にも、坂の角度がまた急になって……。

「あれ……?」

 僕は自分の目を疑った。

 僕の見ている目の前五メートル程の地面が、まるで粘土のようにぐぐっと持ち上がったのだ。それは幻覚でもなんでもなかった。地面が持ち上がると同時に身体にかかる重力が段々と背中側に移動し、こうしている間にも、僕は坂に対して寄りかかるような体勢になっていったからだ。僕は坂からずり落ちないようにするために、手すりを握る手により強い力を加え、身体を坂の上昇に合わせて逸らさなければならなかった。

 しばらくそうしていると、坂の動きは止まった。だが、今僕の目の前にあるそれは、もはや坂ではなかった。僕は自分で自分が信じられなかった。先ほどまで立って歩いていたはずの坂道は、今は僕の真正面に存在していた。つまり、上下が九十度傾いているのだ。

 僕は手すりにつかまりながら、家族旅行で車を走らせた山道を思い出した。両脇に木の生えたその道には、所々にブロックを積んだような急な壁が建っていた。それはどう見ても坂には見えず、過去の僕にとっては不思議な光景だった。後にお父さんに聞いたところでは、あれは法面と言って、土砂崩れを防ぐための壁なのだと分かった。なぜそんなことを思い出したかと言うと、僕の目の前にあるかつて坂だったものが、丁度その法面に見えたからだ。角度と言い大きさと言い、あれとそっくりなのだ。唯一違う点を上げるとするならば、この法面は山で見た物よりも何倍も縦に長く、そして僕は、そんな法面の遥か上にへばりついているということだろうか。

 ちらりと下を見る。先ほどまであんなに苦労しながら登ってきた道のりが、今では僕の真下にあった。はるか彼方に平地が見えるが、ここから落ちて無事に着地できるとは思えない。坂、改め崖の両脇には、普段見ている家をそのまま真横に九十度ひっくり返したような建物が並んでいた。中にいる人たちは大丈夫なのかと心配になるが、目の届く範囲に同じような状況になっている人影は確認できなかった。

「誰か、誰かいませんか!」

 不安感から周囲に呼びかける。だがそれに応える者は一人も無く、やはりギラギラと輝く太陽だけが、辺り一帯を照らしていた。遠くからは相変わらず蝉の鳴き声が聞こえてきたが、僕にとってそれはただのBGMではなくなっていた。日常にひっそりと紛れ込んだ非日常には、日常との特別な差異は存在しない。けれども今僕が張り付いているこの坂のように、一点だけ日常と全く違うものが、そこにさも当たり前かのように存在している。それ以外は普段となんら変わりがない。太陽も、蝉も、僕自身も、自然の摂理に従っているだけなのだ。

 身体が震えた。それと同時に、僕の身体にかかる重力がゆっくりと移動していく。先ほどまで静止していたはずの坂がまた動き始めたのだ。

 僕は泣きそうになる気持ちを必死に抑えて、身体を坂の動きに合わせてずらしていった。だが坂の角度が増していく度、僕のすり減った運動靴は地面に引っかからなくなっていき、とうとう坂がある角度を超えた時、僕の足は完全に宙に浮いてしまった。手すりを握る両手に全体重がかかる。錆が手に痛いほど食い込むが、そんなことに構っていられる余裕はなかった。今やそれは崖ですらなかった。僕は灰色の天井に、手の力だけでぶら下がっていた。眼下には少し前まで頭上にあったはずの青空があり、無間の蒼穹が、まるで底なし沼のように大口を開けていた。

 額から汗が垂れ、目の中に入り込む。ハンカチで拭い取りたいが、生憎それはできそうもない。両手がふさがってしまっている以上、下手なことをすれば僕は空に真っ逆さまに落ちて行ってしまうからだ。……いや、現状はそんなに甘くないのかもしれない。僕はどちらかというとよく外で遊ぶ方だが、公園で雲梯をしたことは数えるくらいしかなかった。まして一度落ちてしまえば、それがこの世から永遠の別れになる雲梯などしたこともない。けれども今僕が置かれている状況というのは、まさにそれなのだ。なんとか身体を手すりの上に持ち上げようとするが、どうしても手に力が入らない。僕の全体重を支えるべく指は手すりを折るかのように巻き付き、前腕や肩周辺の筋肉が思い切り上下に引っ張られていた。

 僕は自分の身体が落ちてしまわないよう、必死になって手すりにしがみついた。けれども、僕の腕は早くも限界を迎えようとしていた。首筋に汗が流れる。暑さは僕を徐々に食い殺そうとし、宙づりとなる時間を短縮させようとしていた。僕はこれまでの人生で経験したことのない、猛烈な腕の痛みに襲われていた。前腕の筋肉が伸びるだけ伸び、こうしている間にも筋繊維が一本、また一本とぷつぷつ切れていくようだ。腕だけでは無く、肩や首の筋肉も限界だった。無理な方向にねじ曲げられた肩は、小学生の平均体重で思い切り上下に引っ張られ、肩甲骨の辺りにじんじんとした痛みを生んでいた。

 僕は荒い息を吐きながら、必死になって態勢を保とうとした。だが一度生まれた痛みはどんどんと大きくなっていき、やがて僕の頭の中は、恐怖と苦痛でいっぱいになってしまった。このままここへ掴まっていても、必ず助かるという保証はどこにもない。それどころかここから更に坂が傾く可能性だってある。一回転するまで耐えられればいいが、僕にそんな芸当はとてもじゃないができない。それならいっそのこと、この手を放してしまった方が良いのではなかろうか。そもそも今見ているこの光景自体がありえないことなのだ。地面に向かって落ちていくならまだしも、空に向かって落ちていくなんて話は聞いたこともない。きっとこれは熱中症の僕が見ている幻覚で、実際は何ともないただの日常風景なのだ。

 一度僕の頭の中に生まれたその考えは、急速に発達していった。今や僕の頭からは苦痛云々は押しやられ、「手を放せ」というある種呪文のような言葉だけがびかびかと輝いてる。このまま激痛を感じ続けるよりも、いっそのこと、ここから落ちてしまえ。

 落ちるだけでいいんだ。幻覚は現実ではない。空に落ちることはありえない。汗が目を擦る。肩が悲鳴を上げ、もはや痛みではなくちかちかとした白い光が目の前に見え始めた。

 手汗のせいだと思う。それともそれは、僕が僕自身を正当化するために作り出したただのまやかしだったのだろうか。ともかく僕は、目の前に一瞬きらりと光が輝いた直後、「あっ」と思った瞬間に手を放していた。

 ジェットコースターで急降下しているような、ものすごい落下感が三半規管を揺さぶる。腕の痛みを解消したその置き換えに、僕は真っ青な空の中へ、猛烈なスピードで落下していくのだった。

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春夏あき @Motoshiha

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