姫が眠りにつきまして。

政(まつり)

姫が眠りにつきまして

午前6時鳥たちのさえずりで目を覚ます。

今日を迎えるのが憂鬱で仕方なかった。否応なしに日常に引き戻されてしまう今日を迎えるのが。

 昨日妻の葬儀が終わった。このまま明日が来なければいいのに、そう思って昨日の夜は眠りについたが、残念なことに今日は来てしまった。家の事など全く分からないが妻が死んだ今そうもいっていられないので、頑張って体を起こす。

返ってこないことがわかりきっている「おはよう」を腹の中に押し込んだ。本当に返ってこなかった時にきっと私はまた布団の中に潜り込んでしまうような気がして。

 洗面台で歯を磨いて顔を洗い朝食を採る。実に美味くない朝食であった。

 それから私は今まで妻に任せきりだった家事とやらに精を出す。洗う食器もたたむ衣類も自分一人分と言うのは家事初心者の私にとってはいいことのような寂しいような。うん、やっぱり寂しい。それにこんなに早く終わってしまったら私は何をしたらいいんだろうか。そう思いながらソファに座り廃人のようにテレビを見る。つまらない、あぁつまらない。まるで知らない人間の結婚式に参加させられているかのような、それぐらいつまらない。私が妻と過ごしてきた間に世界はこんなにも彩りを失ってしまっていたのか。それとも妻が私の人生に色を塗ってくれていたのか。今となってはもう確かめようもないが少なくともいえることは私はもうこの白黒のこの世界から抜け出すことはできないのであろう。死んであの世で妻と再会するまで。

 どれだけあの世の事を思っていようと生きている限り腹は減る。この腹の虫が私をこの世にとどめる。私は年を取ってから随分と食べてこなかったカップラーメンに湯を注ぐ。妻がいたら食べさせてもらえなかっただろうと思うとこれはいいや、そう思うことにした。3分待って蓋を取る。するとこの湯気の向こう側に妻がいないことが途端に悲しく思えてきた。悲しさのあまり私はラーメンの中に顔をうずめる。この涙と悲しみをごまかしてくれるような気がして。でもそれならしょうゆや塩を選べばよかったな。なぜ味噌を選んでしまったのだろう。いや理由は自分でもわかっている。

妻はバターとそしてコーンをたっぷり乗せて食べるのが好きだった。もともと私はしょうゆ派だったがあんまり美味そうに食べるもんだから私も味噌派になってしまったんだった。こんな思いをするんだったら妻が生きているうちにもっと二人で食べておくんだった。後悔ばかりが募って私は麺をすするよりも先にラーメンの中ですすり泣いた。いや、流石に鼻をすするときは容器から少し顔を上げる。そして一通り鼻をすすったらまたスープの中に涙を隠す。顔に麺が絡みついて私に寄り添ってくれているようだった。と、いつまでもこうしていられない。顔を上げ服で顏を拭く。こんな奇行を繰り返しても、服を汚しても、もう私を注意してくれる人は誰もいない。あんまりこうしているとため息ばかりが漏れてしまいそうなので、息を吐かないように麺を吸う。やっぱりあんまり美味くなかった。明日からはしょうゆにしよう。

昼を食べ終えた私はやめておけばいいのにタンスの中にしまってある妻とのアルバムに手を伸ばした。見ても辛くなるだけなのに。この冊子にはあまりにも多くの妻との思い出が、妻と私の笑顔が、詰まりすぎていた。今思えばインドア派だった妻を随分と色んな所に連れまわしてしまった。ロンドン、香港、タリン、アスマラ、ウィーン、ドーハ、リバプール。無理してついてきてくれていたんじゃないだろうか。妻には申し訳ないことをした。そんな数々の写真を見ていると心がずきずきと痛む。あぁ痛いなぁ。妻に会いたいな。

 泣きつかれた私は風呂に入り酒を飲み今日はもう眠りにつくことにした。起きていてもあまりいいことはなさそうだったから。寝る前に、朝は正対することのできなかった仏壇の前に腰を下ろす。伝えなきゃいけないことがたくさんあった。たくさんあったはずなのだが、いざ妻の写真を目の前にすると年のせいか伝えたかったことが出てこなくなってしまった。だから一言だけ「今までありがとう。少しの間ゆっくり休んで待っててくれ。」そう伝えた。愛していると伝えるには少し年を取りすぎてしまった。

 そして今日も明日が来なければいいのに。そう思いながら眠りにつく。若いころの必ず妻より先に死ぬという自分との約束は果たせなかったが、今日一日を振り返って先に死んだのが妻で良かった。そう思った。明日が来なければいいのに、それがかなわないのであればせめて夢のなかで妻に会いたい。もし会えたのなら明日の朝はきちんと仏壇に手を合わそう。

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姫が眠りにつきまして。 政(まつり) @maturi7311

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