顔の中の部屋

伊丹巧基

顔の中の部屋


 三カ月前、ツーリング中に対向車と接触した。頭に深い傷を負ったが、運よく一命をとりとめた。傷は残るが、そのうち社会復帰できる。医者から聞いた話は大体そんな感じだった。

 そして包帯が外れた日、鏡で自分の顔を見て驚いた。額の左側から頬まで深い裂傷のあとがある。よくこれで生きていたものだ。

「少し左目を動かす時、痛むかもしれません」

 医者はそう言っていた。正直これは気を使って言ったように思えた。その程度の痛みよりももっと重篤だ。この顔を見れば、大抵の人はぎょっとする。顔の半分に削り取られた跡がある人間は、日常を生きているだけで不気味がられてしまうはずだ。

 会社に出社したとき、上司は面食らっていたが、復帰を歓迎してくれた。

「その、上司の監督義務として聞かせてほしいんだが、顔の傷は大丈夫なのか」

「ええ。少なくとも生きるうえで支障はないそうです。それ以外の面では支障が出てしまいましたが」

 冗談めかして言ったものの、笑顔の印象が悪かったのか、上司は曖昧な返事をしただけだった。

 しばらくの間、仕事も落ち着いていたせいで俺は退屈を持て余していた。バイクは事故の時に手放し、乗る気も失せてしまった。自動車でもいいが今住んでいるところに駐車場はないし金がかかる。そもそもあの風を感じながら走ること自体を楽しんでいたのに、狭苦しい車内ではそれもできない。

 どうしようかと悩んで、ひとまずとっつきやすいと思いゲームを買ってみたが、自分にはセンスがないことがよく分かった。

 賭け事もやってみたが、そもそも運や大胆さに欠ける自分には向いていないと感じた。結局累計十数万損したあたりでやめた。

 風俗は元から飽きていたし、婚活もこの顔でうまくいくはずもない。もっといい趣味もあるのかもしれないが、そういうアンテナを張ってこなかったせいで趣味そのものの見つけ方すら分からない。

 そうなるとそれこそ寝ながら動画でも見るだけの過ごし方しか思いつかなかった。コンビニで弁当や総菜を買い、家の布団でだらだらスマホを眺め屁をこく。そうやって毎日を怠惰に過ごして数カ月。

 ふと朝の出勤前に鏡を見た時、自分の傷跡の様子がおかしいことに気付いた。どこか透けている、とでもいうのだろうか。まじまじと見つめて、その傷跡の質感は、かなり汚れたガラスやフィルムのようだと気付いた。

 汚れは気持ちのいいものじゃない。かといってこれは俺の顔だ。洗剤つけてスポンジでこすりたくはない。まあいいか、と洗面所で顔を洗う。もう一度鏡に顔を向けると、少し汚れが落ちて、透けた先の向こう側が見えた。すると、傷の向こうで何かが動いたような気がした。

「ああん……?」

 もう一度、今度は洗顔剤をつけて顔を洗うと、少しずつ傷の向こうが見えてくる。頑固汚れを落とすように何度も何度も顔を洗って、ようやく俺の顔にできたガラスの向こう側が見えた。

 それがどこかの光景であると気付くまで数分かかった。

 典型的な1Kの誰かのアパート。おしゃれな家具や壁掛けは、自分の部屋にはないものだ。

 最初頭の中に小人がいて、自分自身を操っているという妄想を思い出したけれど、室内にあるのはベッドと机、それと棚や鏡、衣服や生活必需品だけだ。それこそ、俺を動かす操作盤らしきものはない。

 顔を何度も鏡に近づけたり遠ざけたりして、ようやくその部屋にある衣服が女性ものであることに気付いた。

「おいおい。幻覚が見えるほど根詰めてる覚えはねえんだけど」

 しばらく見つめていたが、変化が起きる気配もない。まあ様子見だな、脳卒中とかでもないだろう。そう思って、そのまま職場に向かう準備をしに俺は鏡から離れた。

 次にその部屋をまじまじと見たのは、仕事を終えて帰ってきてからだった。職場でトイレに行くたびに見えてはいたのだが、朝と変わりもないし、同僚から何か言われるでもなかったので無視していたのだ。

「……やっぱ見えてるよなあ」

 相変わらず向こうには部屋が見える。一人暮らしだろうか。もうとっくに日も暮れて、その室内は真っ暗だ。明日になったらこの症状は治っているだろうか。治っていない場合どこの病院に行くか。眼科か? 皮膚科か? 精神科か? はっ、どこでも困った顔をされるだけだろう。唯一精神科がお薬を出してくれそうなくらいか。

 呆れて鏡の前で笑っていると、ふと自分の顔が明るく光ったような気がした。傷の向こうの部屋が明るくなったのだ。まるで部屋の電気をつけたように。

 驚いて鏡を見ると、そこに人影が動いていることに気付いた。

 女性だ。顔までは分からないが、少しやせ気味のOL。職場から帰ってきたのか、くたくたのスーツで夕食らしきビニール袋を抱えている。食事を机に、鞄を床に、着ていたジャケットをベッドに放り投げ、そのまま女性は布団に倒れこんで動かなくなった。

「おいおいおい、これは……」

 ごくり、とつばを飲み込む。作り物ではない。大学時代の彼女もこんな家に住んでいた。机の上の小物入れや、床に無造作に置かれたスチーマーや化粧ポーチ。そのどれもがそこに住んでいる人の日常を表している。

「待て待て、他人の部屋だぞ。しかも女性の部屋だ……」

 つい目がその女性に行く。皺だらけのワイシャツの背中の隆起、少しほつれたスカートに、伝線しそうなストッキング。顔は布団に倒れこんでいて見えないが、社会人になって数年目、というところだろうか。

 監視カメラ、盗撮、ストーカー。見てしまった罪悪感か、そういうたぐいの言葉が脳裏に浮かぶ。それに相手は明らかに二十代。こちらはアラフォー。幻覚だとしてもアウト、言い訳の一つも通らない。

「まだ同性だったらよかったのか? いや、そういう問題じゃねえよな……」

 見えないように傷口を布か包帯で隠してしまおうか。包帯も傷も見た目が不気味なのは大差ない。左目は正直事故以来あまり上手く見えているとは言い難い。とはいえ、この面積を覆えば顎まで巻いて口が開きにくくなる。毎回の取り換えも考えると正直面倒だ。

 そう考えている間も、彼女はこちらに気付いている様子はなかった。こちらが目を離していた間にスーツから寝巻きに着替えていて、何かスマホで動画を見ながら夜ご飯にスーパーで買ったらしい弁当を食べている。そして、その物音は聞こえない。

 この視点は、巧妙に隠されたカメラなのかもしれない。それが不思議な力で電波が混線し、俺の顔についた傷跡というモニターに接続してしまった。そんな説を無理やり脳内ででっち上げて首を横に振る。考えれば考えるほど、何が起きているのか自分に納得のできる説明はできなかった。

 最終的に俺は開き直ることにした。そもそもこれは不可抗力だ。理屈は知らないが誰かの家が傷跡に映りこむ方が悪い。どうせどれだけ遠慮しようが眺めた時点でキモい変態。そしてそれを咎める人はどこにもいない。なら好きに見ればいいじゃないか。どうせ彼女にこの変質者の視線が伝わることなんてないし、俺が配慮したところでその自制心を誰かが讃えてくれるわけでもない。

 そうして、縦十センチ横二センチの傷跡が、俺が見ることのできる別世界になった。

 それは、バイクという趣味を失った俺の新しい陰湿な趣味だった。金もかからず、何より、見たいときだけ見ればいい。配信サイトと同じだ。少し背徳感はあるが、鏡さえあればいつでも見れる。通信料を気にする必要もないし、充電ケーブルに縛られて動く必要もない。

 気付くと、俺の部屋には至る所に大小さまざまな鏡が置かれるようになっていた。好きな時に顔を覗き込めるような小さい鏡が多かった。

 職場にも、折りたためる小さな奴を一つだけ持って行った。普段は書類の中に隠して、誰も見ていないときにこっそりと開いた。大抵日中の部屋は無人だったが、それでもたまに家にいるのを見ると安心した。

 それと同時に、一緒に映る自身の顔が目に付くようになった。モニターの汚れはふき取りたいように、傷口以外の皮膚の荒れやぼさぼさの眉毛、適当な千円カットの髪型が、今まで気にならなかったのに気になってきた。

 手入れの仕方は調べればいくらでも出てくる。若くてきれいな顔の青年ユーチューバーの動画を真剣に見る自分の姿は客観的に見て滑稽だったが、確かに効果は実感できた。

 今度は試しにと思い、大きな鏡を買うと、顔の景色よりも自分のだらしない身体に目が行った。ツーリングをしていた時期よりもさらに悪化している。

「……運動するか」

 俺は街で鏡の多そうなジムを探して入会した。ランニングマシンの正面が一面鏡張りで、マシン同士の感覚が離れているから他人を気にする必要もない。休日にそこのランニングマシンで走りながら鏡を見ると、彼女が布団で寝ているのが目に入った。

 見えている時間はこちらと同じはずだが、休日の彼女はいつ見ても寝てばかりだった。たまに連絡が来ているのかスマホを手にしても、そのまま布団に逆戻りだ。昼間でもカーテンを閉め切って寝ていて、夕方に目が覚めるとどこか近所に買い物に行き、食事を買って食べて寝る。平日は俺が仕事に行くより早く出て、俺が帰って食事を終えたころにようやく帰ってくる。

「アンタも友達いないのか。同類……いや、普通に同類扱いは嫌だよな」

 徐々に彼女にシンパシーを感じている自分がいることに気付く。こっちが一方的に見ている変態なのだと戒めても、徐々に彼女に感情移入していく。本物のストーカーもそういう心理なのだろうか。そうなると、人間は状況さえ整えば誰しもストーカーになりえるのだろうか。ポルノ動画の検索上位にアマチュアや素人が来るように、個人の生活を余すことなく知る欲望が本能的にあるのかもしれない。

 しかし、自分の価値観に古臭さを感じているとはいえ、二十代で休日に出かける様子もない若者というのはそれなりに不安だ。親は生きているのだろうか。相談できる友人くらいはいた方がいいと思うし、なんなら年の近い彼氏でもいてくれた方が、こちらも安心して見ていられるのに。

 思考とランニングは平行線を辿りそのままどこまでも続いていく。俺が走っている間彼女は眠り続け、俺が外出している時も彼女は布団から出ることはなかった。

 そんな日々を繰り返していたある日、妹から久々に食事でもしようという連絡があり、二言返事で了承した。

 当日やってきた妹は、こちらを見て驚いたような顔をした。

「おい、もうこの顔にも慣れてくれよ」

「いや、顔はもう慣れたし。そっちじゃなくてさ、痩せたね」

 そう言われてみれば、前は突き出ていた腹がへこんでいた。休日の間、やみくもに鏡を見ながら走り続けていたお陰だろうか。

「確かに。最近ジムに入会してさ。ダラダラやってただけなのに、地味に効果出てたんだな」

 ふふ、と妹が笑う。そもそも社会人になってから会うのも久しぶりだったが、笑うところを見たのも久しぶりだ。

「お兄ちゃん、前より元気そうでよかった」

「そうか?」

「正直、ツーリングやめてすごい塞ぎ込んじゃうのかなって思ってたんだけど。あんまり気にしてないみたいだし。筋トレ始めたって聞いて次の趣味それかよって思ってたけど、既にめちゃ効果出てるよね。見直した」

「マジか。そんなにか」

 妹からそこまで好意的に受け止められるとは思わず、つい口元が緩む。地元で暮らす両親の話や思い出話をしているうちに夜も更けていった。食べ終わってそろそろ帰り支度という時、妹が言う。

「これなら紹介してもいいかな」

「ん、紹介って、なんだ」

「職場の先輩。お兄ちゃんより三つ下なんだけど、結婚も視野にお付き合いする人捜してるんだって。お兄さん紹介してよって言われてたんだ」

 今日の目的はそれか。食事に誘ってくるなんて珍しいこともあると思っていたが。

「それ、どうせ断ろうと思ってたんだろ」

「うん、断るつもりだった。写真見せたら先輩は結構乗り気だったんだ、顔の傷が逆に歴戦感あって渋くていいって。でもさ、お兄ちゃん腹も出てたし見た目に気を遣う気ゼロだったし。でもそうね、なんか今日のお兄ちゃんなら紹介してもいいかなって」

 蓼食う虫も好き好き、そんな言葉がよぎったが、会ってみるのも悪くないと思った。そもそもそんな機会が向こうから来ることなんて何度とない。

「ああ、じゃあ紹介してくれよ。まさか、そんなことを妹に頼む日が来るなんて」

 久しぶりに帰ってからも鏡を見なかった。酒も入って上機嫌、鼻歌交じりでその日は布団に入る。そう、見なかったのだ。

 その日を境に、ときどき向こうが見えなくなる時があった。平日の朝に見えても彼女はいない。夜はそもそも鏡を見ようとせず、たまに見ても自分の体つきに目が行った。確かに妹の言う通りで、仮に裸でビーチに横になっても恥ずかしくない程度には引き締まってきていた。

 妹の職場の先輩という女性は、会ってみると意外にぐいぐいとくる人物だった。流石に顔のことは伝えたが、そこは彼女にとっては何らデメリットには感じないらしい。

「良いじゃない。いい感じに強者って感じが出ていて私は好き」

 数カ月後には交際も重ね、同棲も視野に入るほどには親睦を深めていた。そうなると恥ずかしいものを処分しようという意志が芽生え、断捨離を始めた。捨てるのをめんどくさがっていた小物や服、いかがわしい本。そして大量の鏡。

 そのころにはもうほとんど傷の向こう側の彼女は見えなくなってきて、俺の顔には元の大きな傷があった。もちろん、向こう側に見えていた場所の話を彼女には話していなかった。誰にだってすべて打ち明けて生きていけるわけじゃない。

 やはりあの光景は俺の妄想だったのだ。孤独な中年異常男性のよこしまで歪んだ願望が産み出した、妄想の向こう側の景色。鏡写しの怠惰に生きる誰かの日常。

 その中で自分の無意識が、怠惰な自分を改善し幸せを自ら掴みに行けと促したのかもしれない。

 その日、俺は休日で昼まで眠りこけていた。昨日の夜は頑張り過ぎた。起きてスマホの通知を見るが、特にめぼしいものはない。もう大半の鏡は捨てていた。布団から起き上がり顔を洗いに洗面台に立つと、久々にあの一室の光景が目に入る。

「なんだ、久々に見ても大して変わり映えのない――」

 そこまで言って、室内の一か所からぶら下がるものに目が行った。天井から蜘蛛の糸のように垂れ下がったそれは、普通部屋の天井にあるはずがない。いや、あってはならないものだ。蜘蛛の足に似た曲線が、一つの円を描いて揺れている。

 そして、そこに向かって椅子に足をかける彼女。俺は鏡にかじりつくように目を向け、怒鳴りつける。

「まっ、ま待て待て待て、馬鹿、やめろ、やめるんだ」

 俺の叫びは届かない。返ってきた返答は、隣人の壁ドンだけだ。

 何度も叫んでいるうちに、彼女がゆっくりと首をかけ、その足元の椅子を蹴り飛ばした。

 もう見ていられない。俺は慌てて外に出る。捨てずにとっておいた最後の手鏡を見ながら、俺は街中を走りだした。もしかしたら近所なのかもしれない。アパートの部屋を片っ端から調べるか。そんな悠長なことをしていたら間に合わない。いや待て、あの吊り方は成功しないという話を聞いたことがある。もしかしたらもう縄が耐え切れずに切れ落ちて、助かっているかもしれない。その苦痛で諦めるかもしれない。しかしそんな都合の良いことが起きるだろうか。時間がない。何ができる。

 彼女は俺の希望だったのだ。コンビニの惣菜と暇つぶしの動画だけで完結してしまう俺の人生に、たった一つ生まれた分岐点だったのだ。その分岐点で、俺は正しい道を選んでいると思っていた。だが違った。

 俺は最寄りの交番に駆け込んだ。普段無人の交番には、たまたま二人の巡査がぼんやりと座っていた。息を切らせた俺を見て、警官がぎょっとした様子で立ち上がる。

「どうしましたか? 真っ青ですよ、落ち着いてください」

 女の人が死のうとしているんです。いえ、自殺する寸前なんです。場所? 分かりません。どこかのアパートの一室です。俺には見えるんです。さっき吊ってしまった。もう時間がない。首をつってた。すぐに見つからないと助けられないんです、お願いです。

「ええっと、落ち着いてください。急いでいるのは分かりますが、場所が分からないと何とも――」

 俺は激高してその若い警官の胸ぐらをつかみ、自分の顔を指差した。

 ふざけるな!! 居るだろう! この! 傷の!! 先に!!!






 俺は今、病院の一室にいる。ここには鏡がない。朝一度だけ許された新聞を、俺は毎日くまなく見ていた。月に一度利用許可が下りたインターネットでも、俺はその情報ばかり探していた。しかし、人は日々山ほど死んでいく。どこかの一室の死など、ありふれたものだ。特に1人の自殺なんてニュースにもならない。誰かが同情をひけると踏んで騒ぎ立てた時くらいだ。結局、彼女らしきニュースは見つけられなかった。

 俺は軽い部類だと判定されたこともあり、食堂でテレビを見ることが出来た。時間限定、お昼の1時間だけだ。顔も覚えられない、俺のためにあてがわれた看護師が俺の一挙一動を見つめている。いつ爆発するか分からない不発弾を警戒するように。

 その日も1時間が過ぎ、職員がテレビのチャンネルを消す。今日も自殺のニュースは流れなかった。光の反射か、その真っ黒なテレビの画面に、ノイズまみれの醜い顔が映った。

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