皿屋敷奇譚

日野球磨


 夏の蝉しぐれを聞き届けた夕方。

 旅先の休息とばかりに訪れた山奥の宿の一室にて、沈みかかった夕日を見上げながら日記を綴っていた午後六時。まだ夏の終わりではないというのに鳴くせっかちなヒグラシの声を聞いて私は、止まっていた筆を下ろして立ち上がり、暇を持て余して部屋の扉を開けた。

 随分と古風な木造宿の廊下は、私の体重に耐えかねる様にギイギイと悲鳴を上げるが、知ったことかと肩で風を切って私は歩く。

「あら、お出かけですか?」

「少し散歩にでも行こうかと」

「そうですか。ここいらにあまり見るようなものはございませんが、ここほど田舎らしい田舎もありません。どうか、日差しに気を付けながら楽しんでいってくださいね」

「ああ、日が暮れる前には戻らせてもらいます」

 外に出ようとした私に気づいた女将が、気の良さそうなたれ目を細めて話しかけてきた。私の身を案じる言葉を最後に、厨房の方へと戻っていった彼女の背中を見送ってから、私は下駄箱に入れた靴を取り出しては宿の外へと出ていくのだった。

 田舎の夜は早いというが、茜色に染まった景色からはまだまだ暗くなる気配を感じられない。

 思い切って、奥のほうまで行ってみよう。私の好奇心が、あの空を走る飛行機雲のように真っすぐと村の田園風景に差し向けられてしまったが最後、夜までの残り時間のすべてがこの村の散策に尽くされることは必然であった。

 げこげこと喉を鳴らすかえるが田舎の“い”だとすれば、立ち並ぶ藁葺わらぶき屋根が見せる風景こそが田舎の“な”であり、山間を降りてくる心地の良い風こそが田舎の“か”だということを、田園のあぜ道を歩いているだけの私に彼ら自然達は教えてくれる散歩道。

 宿の女将が言う通り、ここは文字通りの田舎であると言えるだろう。

 そうして日記に綴る一文を夢想していた私の耳に、少しばかり奇妙な声が聞こえてきたのは歩き始めて十分ほどの時間が経ってからだった。

「五枚、六枚、七枚……一枚、足りませんね」

 かの有名な皿屋敷の怪談を思わせる呟きに惹かれた私は、その声をたどってふらりふらりと歩いては、阻む生垣の奥を覗き見た。

 すると、その先には時代遅れな井戸の傍で何かを洗う女性が居たではないか。無論、私はその女性へと話しかけた。

「こんにちは。少しよろしいでしょうか?」

「これはこれは、どうもこんにちは。ところで、覗き見は良き趣味だと思わないのだけれど」

「これは失礼。そこのあぜ道を歩いていたところ、美しい声が聞こえてきたもので。立ち寄らせていただいた次第なのですよ」

「あらそう。いやね、おべっかを使うにしても、もう少しましな嘘をつくべきだと思うのだけれど?」

「おべっか、ととられるのは不服ですね。私にとって、美しく聞こえた。それだけではだめなのでしょうか?」

「あら、そうなの? ありがとうね」

 あいさつに続く会話の後に、彼女は鈴が鳴るようにころころと笑った。振り返ったその顔は、田舎においておくにはもったいないほどの美人で、整った目鼻立ちからはこの世のものとは思えない気品が感じられた。

 よもや、ここは異界なのではないかと疑ってしまうほどの美人を拝めただけで、この散歩道は有意義であったと語ることができるだろう。

「ところで、それは何を数えていらっしゃるのでしょうか?」

 ただ、美人を見かけたというだけでは、日記を綴るには薄味と思い、当初から疑問を抱いていたあの声について私は聞くことにした。

「数えていた、とは?」

「先ほど、そこのあぜ道で数える声が聞こえたものでね。ここにこうして立っているのも、覗きではなくそれが何であるか興味があったからなのですよ」

「それはそれは」

 そういう彼女の傍らには、水の入った桶がかすかに見えた。ただ、その桶には数えるようなものなど何も入っておらず、波打つ水がなみなみと揺れるばかり。

「ただ、残念ながら会話に花を咲かせらえるほどのものでもなければ、あなたが興味を持つようなものでもありません。できるのならば、このまま何も見ずに帰っていただければと思います」

「そうか。それは失礼した。ではあなたの言う通り、私はこの辺で下がらせてもらいましょう」

「ありがとうございます」

 なにやらその桶の中身をあまりじっくりとは見られたくない様子の女に免じて、私はおとなしく下がることにした。

 田舎の事情に深入りしても、いいことなどなにもない。

 ぞわりと粟立つ寒気を感じたところで、空を見上げてみれば太陽が布団の中に顔をうずめかけていた。茜色だった空も徐々に夜の黒に侵食されていき、もう四半刻も待たずにとっぷりと日が暮れてしまうであろう時間である。

 最後にあの美人の顔を拝もうと振り返り、その井戸の前には誰もいなくなっていたことにがっかりした後に、私はひとり宿に帰ろうと足を動かすのだった。



 それから宿に帰った私は今日のことを日記に書き留める。

 ――あぜ道を歩いていると聞こえてきた不思議な調べ。その声をもとにさ迷い歩いてみれば、そこにはこの世のものとは思えない美しさの女が一人。何やら数を数えていたようだが、その意味を知ることはできず、日も暮れる頃合いにはどこかへと去ってしまっていた――

 なんとも謎に満ちた彼女の魅力に満ちた顔を思い出しながら、雨が降り出した夜空を見上げてから、私は床に就いた。

 気が付けば夜は明けて、夏場のじめじめとした夜を過ごして朝を迎えてから、全国各地をふらりと旅をしている私は、起きて早々に荷物をまとめると宿の女将さんに挨拶をしてから朝食をいただいて、太陽が空を登りきる前に宿を後にした。

 聞く話によれば、夜はひどい土砂降りだったようで、今日もかえるがよく鳴いていた。

 濡れた道を北に歩き、宿からほどなくした距離にあるバス停から私はバスに乗り込んで、次の目的地へと進路を定めた。

 バスに乗り込めば、まばらに乗り込んだ客が六人。仏頂面の運転手が私が乗り込んだのを確認してからバスの扉を閉めると、静かにバスは動き始めた。

 六人の先人たちがそうしているように、私も彼らとはほどなく距離を開けて窓際の席に座り込んだ。

 どるんどるんと動くエンジンの調べを聞きながら、代り映えのしない森の景色を瞳に映して、のんびりと旅路を楽しんでいると――

 どどどどど、と。聞きなれない音が鼓膜を揺らして襲い掛かってきた。一体何の音だろうかと私は思ってバスの中を見てみれば、お客さん方が随分と慌てた様子。

「なんで今日なの!? やめて、私はまだ食べ――」

 客の一人の女性のその言葉を聞いた瞬間、バスの窓を突き破ってなだれ込んできた土砂にすべてを流されて、私の意識は土の中へと沈んでいった。



 体の痛みを覚えて目が覚めたのはそれからどれだけの時間がたってからのことだったか。

 動けぬ体には痛みばかりが蔓延する中、私の耳には私のものではないうめき声が聞こえてきた。

 おそらくは同乗していた客や運転手のものであろううめき声がそれぞれ七つ。記憶に間違えがなければ、あれほどの土砂崩れの中でも全員がかろうじて一命をとりとめていたようだ。

 ただ、状況はよくはない。動かない体を見てみれば、私の体は半分が生き埋めになっていることがわかり、けがをしたこの体では掘り起こすこともままならないだろう。周りから誰かが起き上がる気配もなく、このままでは体半分を生き埋めにしたまま救助を待つしかないだろう。

 そう、思っていた矢先のことだった。

「……一枚」

 声が聞こえた。それは女性の声。どこか聞き覚えのある美しい言葉。

 しかし、私はその声に身の毛もよだつおぞましさを感じた。なぜならば、その言葉に続くように、聞こえていたはずのうめき声がひとつ、ろうそくの火が吹き消されたかのように、聞こえなくなってしまったのだから。

 そしてもう一度、その声は聞こえてくる。

「……二枚」

 今度はことり、と何かがおかれる音が聞こえた。同時に、また一つの声が聞こえなくなってしまう。

「……三枚……四枚……」

 三人目、四人目。助けを求めるようなその声が、静寂に染まっていく。

「……五枚……六枚……七枚」

 ことり、ことりと何かが並べられる音が近づいていくにつれて声は消えていき――ついに聞こえてくる息遣いは、私一人だけとなってしまった。

 次は自分の番である。何かが数えられるたびに一人、また一人と消えていくこの状況で、あのバスに乗り合わせた八人目となる私の番が巡ってくるのは必然であった。

 まるで死神の声のように感じられるその女の声を、ひぃひぃと恐怖に塗れながら私は待つ。

 しかし、私の耳に聞こえてきたのは、思いもよらない音だった。

 

 パリィン。


 それは、陶磁器が割れるような音。いやに耳を刺激する、明瞭な音だった。その音が聞こえてきた瞬間、どこか笑うような声がともに聞こえてくる。

「……あら、一枚足りない」

 そうして、八枚目が数えられることはなかった。


 ―――


 目が覚めたころには、私は近くの病院のベットの上だった。

 聞く話によれば、夜の豪雨によって起こった土砂崩れに巻き込まれたそうで。巻き込まれたのは私を含めてバスの乗客八人。助かったのは、私だけ。

 そう聞かされた時、私の脳裏にはあの女の声がよく残っていた。

 それから、私は何事もなく病院を後にすることとなるのだが……それからしばらくして、ふと皿を落として割ってしまったとき、私はこのことを思い出した。

 ああ、あの時聞いた音は、皿が割れる音だったのだと。

 皿とは食膳という言葉通り、食事を運ぶ器だ。それが割れたのだから、私は助かったのだと、私はこの時、ようやく理解した。

 ただ……

『……あら、一枚足りない』

 あの声は、井戸にいた女の声に間違いなかった。

 なぜあの時、あの女の声が聞こえたのか。

 そして、あの時の音が皿であったとして、私以外の七人は何に対する食事として出されたのか。

 あれはなんだったのか、私にはわからない。




 


 

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