歴史解説 赤壁の戦いその6(全6回)

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


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 前回は周瑜しゅうゆ曹操そうそうの両軍が赤壁せきへきに到着するところまでを述べた。今回はついに行われる赤壁せきへきでの決戦の様子とその後の荊州けいしゅうついて述べ、この度の解説を終わりにしたい。



 ◎黄蓋こうがいの降伏



 曹操そうそう周瑜しゅうゆ軍の参戦と疫病えきびょうにより、身動きが取れなくなっていたが、周瑜しゅうゆ軍もまた数万の大軍である曹操そうそう軍を前に攻めあぐね、戦線は膠着こうちゃく状態となった。


 この状況を打破だはしたのは、孫権そんけんの武将・黄蓋こうがいであった。


黄蓋こうがい周瑜しゅうゆにいった。「今、敵は多勢で我らは寡勢かせいなので、持久戦を行うのは困難です。しかしながら、曹操そうそう軍の艦船かんせんは互いに密集しており、火攻めをすれば敗走させることができます。」


 そこで蒙衝もうしょう(駆逐艦くちくかん)・闘艦とうかん(戦艦せんかん)数十そうを選び、まきや草を敷き詰め、その中に油を注ぎ、帷幄いあくおおい隠して、牙旗がきを建てた。そしてあらかじめ曹操そうそうに手紙を送り、偽りの降伏をしようとした。』[周瑜しゅうゆ伝]


 また、注に引く『江表伝こうひょうでん』には、この時の黄蓋こうがい曹操そうそうへ手紙を送った様子が記述されている。


黄蓋こうがいの手紙にう、「私黄蓋こうがい孫氏そんし厚恩こうおんを受け、武将として取り立てられ、浅からぬ礼遇をこうむっております。しかし、天下には大きな勢いというものがあり、江東こうとう六郡に山越さんえつの力をもって中原ちゅうげん百万の軍勢に挑むのが無謀なことは、誰が見ても明らかです。の文武百官も賢愚けんぐを問わず、その無理を承知しているのですが、ただ、周瑜しゅうゆ魯粛ろしゅくのみが頑固で浅慮せきりょのために納得しないのです。


 私が曹操そうそう様に降伏するのはこのような理由からです。周瑜しゅうゆの守るところは簡単に打ち破れます。両軍が戦う時、この黄蓋こうがい先鋒せんぽうを務めますが、適当なところで寝返ります。それは遠い先の未来ではありません。」曹操そうそうはわざわざ黄蓋こうがいの使者を引見し、密かに質問をしてから言った。「ただ、この降伏が偽りでないかだけが心配なのだ。黄蓋こうがいがもし本当に降伏するのであれば、空前絶後の恩賞を授けるだろう」』[黄蓋こうがい伝注江表伝こうひょうでん]


 こうして黄蓋こうがい曹操そうそうへ偽りの降伏を願い出、それを曹操は信じた。何故、曹操そうそうはこの降伏を信じたのか。それだけ曹操そうそう切羽詰せっぱつまっていたということでもあるのだろう。状況的には一度撤退するのが最善だが、敗戦となれば責任を取らなければならない。かといって時間をかければ劉備りゅうび劉琦りゅうき軍が参戦してより困難な状況になりかねない。その中で黄蓋こうがいの降伏がこの不利な状況の突破口になると判断したのだろう。


 思い返せば官渡かんとの戦いも、曹操そうそうは不利な状況であったが、許攸きょゆうの降伏により状況が打開でき、一転、勝利となった。許攸きょゆう袁紹えんしょうの古参であったことを考えれば、古参の将・黄蓋こうがいの降伏もあり得ないことではない。


 これに加えてもう一つ、曹操そうそうが信じた理由は黄蓋こうがいの経歴にもあったのではないだろうか。


 『黄蓋こうがい伝』によれば、黄蓋こうがいは初め孫堅そんけんに仕え、孫堅そんけんの死後、孫策そんさくつかえ、そのまま孫権そんけんつかえたという。だが、彼の孫策そんさく時代の具体的な事跡は記録がない。


 また、『孫堅そんけん伝』や『孫賁そんほん伝』によれば、孫堅そんけんの死後、その軍勢はおい孫賁そんほんが引き継いだという。長男の孫策そんさくらはこの時まだ未成年で、戦場には出ていない。孫策そんさくが成人して袁術えんじゅつの武将となるのは、孫堅そんけんの死から二年後である。黄蓋こうがい孫堅そんけん死後、しばらくは孫賁そんほん軍に所属していたのではないだろうか。


 後に孫策そんさく袁術えんじゅつに願い出て、孫堅そんけんの兵を返して貰うこととなるが、黄蓋こうがいらが移籍したのはこれに伴ってのことだろう。そして、その後の孫賁そんほんだが前述した通り、孫権そんけんによって失脚し、弟の孫輔そんほ曹操そうそうと内通したとして幽閉ゆうへいされた。


 この流れを曹操そうそうの視点から見ると、今まで事実上の政権運営者だと思ってやり取りしていた孫賁そんほん孫輔そんほ孫権そんけんのクーデターにより失脚。さらに孫権そんけん周瑜しゅうゆ魯粛ろしゅく口車くちぐるまに乗せられ、自分に戦争を仕掛けてきた。そんな中、孫賁そんほんに縁ある武将が、周瑜しゅうゆ魯粛ろしゅくのやり方にはついていけないと降伏を願い出てきた。曹操そうそうがその話に耳を傾けてもおかしくない状況である。


 だからこそ、曹操そうそうへの偽りの降伏の役目に黄蓋こうがいが選ばれたのではないだろうか。『正史』では自ら言い出したから、その役目を黄蓋こうがいが担当したように読めるが、いくら自ら言い出したからと言っても成功率の低い人物なら選ばれないだろう。曹操そうそうがその降伏を信じる人物でなければならないが、相手にされないような小物では意味がない。


 孫堅そんけん時代から在籍し、この赤壁せきへきの戦いに参戦している指揮官クラスの人物は三人。程普ていふ韓当かんとう、そして黄蓋こうがいである。だが、程普ていふ周瑜しゅうゆと共に総司令官なのでやるわけにはいかない。


 候補は韓当かんとう黄蓋こうがいの二人にしぼられる。韓当かんとう孫堅そんけんつかえる以前の経歴ははっきりとしない。だが、つかえた当初の扱いを見るに、元々良い家柄の出自ではないだろう。


 対して黄蓋こうがいはかつて郡の役人を務め、さらに孝廉こうれんに推挙され、三公の役所から招聘しょうへいを受けている。孝廉こうれんとは当時の役人による人材推挙の方法で、さらに三公(大臣最高位)から招聘しょうへいされているので、黄蓋こうがいは官僚としてエリートコースを歩んでいたといえる。そんな彼が孫堅そんけん軍に加入した詳しい経緯は不明だが、おそらく地元で起きた反乱(孫堅そんけん鎮圧ちんあつした)に巻き込まれる形だったのだろう。


 いくら黄蓋こうがい韓当かんとうに武将として戦功があったといっても、遠く離れた江東こうとうの地での活躍では曹操そうそうは知らない可能性もある。しかし、孝廉こうれんに推挙されたとなればそれなりに名が知られている可能性が高い。さらに言えば、黄蓋こうがいの出身は荊州零陵郡けいしゅうれいりょうぐん荊州人士けいしゅうじんしを吸収した曹操そうそう陣営なら彼を知っていてもおかしくはない。


 おそらく、この偽りの降伏者には、孫賁そんほんつかえたことがあるという経歴と、中央における知名度を考慮こうりょして黄蓋こうがいが選ばれたのではないか。


 なお、『演義えんぎ』ではこの時の黄蓋こうがいから曹操そうそうへの使者には闞沢かんたく(本編未登場)という人物が行っている。闞沢かんたく黄蓋こうがいの降伏を疑う曹操そうそうに、たくみな話術で信用させることに成功した。また、後の話ではあるが、実績の乏しい陸遜りくそん(本編未登場)を大都督だいととくに推薦し、周囲を納得させる役で再登場している。この二つの逸話いつわは共に『演義えんぎ』の創作ではあるが、としては珍しく優遇された人物といえる。


 『正史』での闞沢かんたくだが、彼は代々農民の家の生まれで、貧しかったが、苦学して名声を得た人物であった。彼の作成したこよみの正式なこよみとして採用され、また、孫権そんけんの息子の先生も務めた。だが、孫権そんけんの側近くにつかえるようになったのは219年以降のことで、彼の主な活躍はが建国されて以降の出来事であった。そのため、彼の生年は不明だが、実際の闞沢かんたくの年齢は『演義えんぎ』の想定より一世代ほど若いと思われる。


 なので、本編ではコウガイの使者の役目は与えず、登場自体させていない。今のところ予定は特にないが、もし登場するとしたら、来年度の入学生となるだろう。



  ◎赤壁せきへきでの勝利



 黄蓋こうがい曹操そうそうへ投降するうまを伝え、それを信じさせると、ついに曹操軍への攻撃作戦を実行に移した。


 ついに赤壁せきへきの戦いのクライマックスである。この時の様子は『周瑜しゅうゆ伝』に詳しい。


『(黄蓋こうがいは)あらかじめ走舸そうか(快速艇かいそくてい)を用意して、それぞれ大型船の後ろにつなぎ、ともに曹操そうそう陣営に向けて出発した。曹操そうそう軍の官吏かんり・兵士はそろって首を伸ばして観望し、指し示して黄蓋こうがいが投降してきたと言い合った。


 黄蓋こうがいは(先にまきを敷き、油を注いだ)船を切り離し、それと同時に火を放った。時に風は勢い盛んにたけくるい、ことごとく対岸にある曹操そうそう陣営は焼け落ちた。やがて、煙と炎は天をおおい、人馬らあるいは焼け、あるいはおぼれ、その死者はおびただしい数となった。曹操そうそうの軍はついに敗退し、荊州けいしゅう南郡なんぐんへと引き返して立てもった。劉備りゅうび周瑜しゅうゆらとともにこれを追いかけると、曹操そうそう曹仁そうじんらを江陵こうりょうの守備に残し、自身は北へ帰った。』[周瑜しゅうゆ伝]


 また、この戦いの様子は注に引く『江表伝こうひょうでん』にも詳細につづられている。


『戦いの日、黄蓋こうがいは先に軽快けいかいな軍船十そうを選び、その中にれ草を敷き詰め、魚油ぎょゆを注ぎ、赤い幕でこれをおおい、はたのぼり艦上かんじょうに建てた。時に東南の風が吹き、十そうの船を先頭に立て、長江ちょうこうの半ばでを上げると、黄蓋こうがい松明たいまつかかげ、将校しょうこう・兵士たちに大声で「降伏」と叫ばせた。曹操そうそう軍の兵士たちは皆、営舎えいしゃから出てこの様子を見守った。


 曹操そうそうの陣営から二里余り(約830m強)のところで、黄蓋こうがいは一斉に船に放火した。火の勢いは激しく、強風は吹き荒れ、矢のように船が突き進んでくると、火の粉は飛び、炎は赤々と燃え、曹操そうそう軍の船をことごとく焼かれ、その火は曹操の陣営にまで及んだ。周瑜しゅうゆらは軽装の精鋭部隊を率いて延焼えんしょうを追うように攻撃を仕掛け、太鼓たいこを鳴らして攻め込んだ。これにより曹操そうそう軍は壊滅し、曹操そうそうは敗走していった。』[江表伝こうひょうでん]


 他に『英雄記』にも記載がある。


周瑜しゅうゆ江夏こうかを守っていた。曹操そうそう赤壁せきへきより長江ちょうこう南岸に渡ろうとするも、船が無く、いかだに乗り漢水かんすいを下る。浦口ほこう(涌口ゆこうの誤りか)に到着し、まだ長江ちょうこうを渡らずにいた。周瑜しゅうゆは夜密かに軽快けいかいな船や走舸そうか百数そうで攻め込んだ。一そうごとに五十人がさおぎ、松明たいまつを手に持った数千人の兵を船の上に立たせて、火を放たせた。火が燃え移ると、船はすぐに引き返した。火が起こると、たちまち曹操そうそう軍の数千のいかだを焼け、その火の明かりは天を照らすほどであった。これにより曹操そうそうは夜中に敗走することとなった。』[英雄記]


 三つの書を読み比べると、黄蓋こうがいの攻め込んだ時に使用した船団が蒙衝もうしょう闘艦とうかん数十そうの後ろに走舸そうか(逃走用)をつなげたもの(『正史』)と、軽快けいかいな軍船十そう(『江表伝こうひょうでん』)、軽快けいかいな船・走舸そうか百数そう(『英雄記』)という違いがある。


 さすがに長大な曹操そうそう陣営をことごとく焼き払った船団がわずか十そうで行ったとは考えにくい。おそらくは『正史』や『英雄記』の記述が実数に近く、数十〜百ほどの船団だったのではないか。あるいは『江表伝こうひょうでん』の十そう(原文『輕利艦十舫』)の前に「数」の字か、なにか数字が入っていたのが欠落したのかもしれない。


 その他の記述はいくらか違うところもあるが、大きな食い違いや、矛盾むじゅんというほどのものはない。また、『三国志演義えんぎ』でお馴染みの東南の風も『江表伝こうひょうでん』に記述がある。


 黄蓋こうがいはあらかじめ船にまきを敷き、油を注いで幕でおおい隠し、夜、東南の強風の吹く中、百前後の蒙衝もうしょう闘艦とうかんを率いて曹操そうそう陣営に降伏。しかし、岸に近づくと船に放火し、曹操そうそう軍の船や営舎えいしゃに向けて突っ込ませ、これを焼き払った。


 この黄蓋こうがいの火攻めにより、曹操そうそうの陣営は焼失し、劉備りゅうび周瑜しゅうゆらの追撃の中、敗走することとなる。


 なお、命がけの攻撃を行った黄蓋こうがいであったが、この時の戦いで流れ矢を受け、冬の長江ちょうこうに落水し、味方の兵士に助け出された。だが、助けた兵士はそれが黄蓋こうがいだとわからず、便所の中で放置された。黄蓋こうがいは力を振り絞って同僚の韓当かんとうを呼ぶと、韓当かんとうがこれに気づき、黄蓋こうがいの姿を見て涙を流し、衣服を着替えさせて一命をとりとめた。後に黄蓋こうがいはこの赤壁せきへきの功績で武鋒中郎将ぶほうちゅうろうしょうに昇進した。[黄蓋こうがい伝]


 黄蓋こうがいは救助されたが、名のある武将と気付かれずに便所に放置されたということは、おそらく周瑜しゅうゆらの追撃戦も決して一方的なものではなく、自軍に多数の死傷者を出し、そのために治療が追いつかない状況だったのだろう。たまたま近くに韓当かんとうがいたために発見されたが、韓当かんとうの方も行方のわからぬ黄蓋こうがいを探していたのかもしれない。


 ここで少し当時の船について解説しておこう。この時代の船は基本的に木造で、移動にはを用いられることもあったが、あくまでも補助的なもので、主動力は多数のオールを使った人力である。


 蒙衝もうしょう(艨衝もうしょうとも書く)は矢や石の攻撃から守るために装甲を牛皮ぎゅうひおおった船で、前後左右にの発射口やほこを突き出す穴が設けられている。小型船が多く、速度と防御力を重視した船で、楼船ろうせん闘艦とうかんといった大型船の支援等に使用された。今で言う巡洋艦じゅんようかん駆逐艦くちくかんのような船。


 闘艦とうかん(ただ単にかんと書かれることもある)は水上戦闘の主力となる重武装船。多数の兵士を乗せることが出来、また女牆じょしょう(低いかき)が設けられ、船上での戦闘が可能な大型船。今で言う戦艦せんかんにあたる。なお、「かん」という漢字はこの船が監獄かんごくのようであったことから生まれた字である。


 走舸そうかは小型の高速船。その高速を生かして大型船の支援や非戦闘艦の保護等に用いられた。乗れる兵士は多くないので、比較的精鋭が搭乗した。今で言う駆逐艦くちくかんのような船。


 この他に大型船では楼船ろうせん、小型船では游艇ゆうてい等がある。


 楼船ろうせん闘艦とうかんと似ているが、船の上に楼閣ろうかく(複数階建ての建築物)が建てられているのが特徴。移動要塞ようさいというべき船で、輸送力・防御力・攻撃力においてはトップクラスの大型船。ただ、移動速度・機動性は悪く、暴風雨等の天災に弱いという欠点があり、必ずしも最強の船ではなかった。


 游艇ゆうていは防壁を持たない小型船で、今で言うボートに近い。戦闘力はほぼないが、その速度や機動力を生かし、偵察や通信、将校しょうこうの移動に用いられた。


 その他、三国時代に突入すると、さらに大型船が建造されるようになるが、赤壁せきへきの戦いには投入されてないであろうから、ここでは割愛する。



 ◎敗走する曹操そうそう



 曹操そうそう赤壁せきへきから撤退する様は『武帝紀ぶていき』にひく『山陽公戴記さんようこうたいき』及び『太平御覧たいへいぎょらん』に引く『英雄記』に詳しい。


曹操そうそう戦艦せんかん劉備りゅうびによって焼かれると、軍勢をまとめて華容道かようどうから徒歩で帰った。途中、泥濘でいねいはばまれ道は通らず、また、強風が吹いていた。弱りてた兵たちを総動員して草を運ばせ、道を埋め、それによりようやく騎兵が通行することができた。弱った兵たちは人馬に踏みつけられ、どろの中にしずみ、多くの死者を出した。


 曹操そうそう軍がなんとか窮地きゅうちを脱すと、曹操そうそうは大いに喜んだ。諸将がその訳を聞くと、曹操そうそうは答えた。「劉備りゅうびは私と同格だが、ただ少しばかり計略を思いつくのが遅い。もしもっと早く放火していれば我々は全滅していた。」劉備りゅうびは追って放火したが間に合わなかった。』[山陽公戴記さんようこうたいき]


曹操そうそう赤壁せきへきより敗走した。雲夢沢うんぼうたくいたり、大霧たいむに遭遇し、道に迷った。』[英雄記]


 曹操そうそう華容道かようどうを通って退却した。華容道かようどうの場所については諸説あるようだが、雲夢沢うんぼうたくを経由して江陵こうりょうを目指したルートであろう。おそらく、行きに通過した道とほぼ同じ道だろう。広大な湿地帯である雲夢沢うんぼうたくを通過したので、その帰路は困難を極め、きりにより道に迷い、疲労を加速させた上に、騎馬を通すためにその疲労した兵士にさらに無理をさせ、より多くの死者を出してしまったようだ。


 雲夢沢うんぼうたくを抜けたあたりであろうか、曹操そうそうは大いに喜び、劉備りゅうびが火を放つのが遅かったことを指摘した。おそらくこれは劉備りゅうびらの追撃の遅さを指摘したものだろう。


 おそらく、この時点で劉備りゅうびはまだ赤壁せきへきに到着しておらず、続く江陵こうりょう戦でようやく周瑜しゅうゆ軍に合流した状況だったのだろう。また、孫権そんけんが今後独立を周囲に納得させるには自力で曹操そうそうを撃破する必要があった。そのために周瑜しゅうゆ劉備りゅうび到着前に単独で、急ぎ曹操そうそうを討ったのだろう。周瑜しゅうゆ軍が先行して曹操そうそうを追撃するためには長江ちょうこうを渡る必要がある。それも曹操そうそう軍に気づかれないように大きく迂回うかいして渡らねばならず、それだけの時間がなかったのだろう。結果的に曹操そうそう撃破には成功したが、先回りして追撃する余裕はなかった。そして、これにより曹操そうそう劉備りゅうび周瑜しゅうゆ連携れんけいが決して取れているわけではないことを察して喜んだのだろう。


 なお、『演義えんぎ』では伏兵ふくへいが無いことを曹操そうそうが笑ったところへ趙雲ちょううん張飛ちょうひ、さらに関羽かんうと次々に襲いかかられ、最後には関羽かんうに、かつて千里行せんりこう曹操そうそうの武将を斬っても許したことを思い出させ、情に訴える形で逃してもらうという内容になっている。


 本編ではカンウ・チョーヒ・チョーウンの三人が同時にソウソウ軍へ追撃を仕掛け、ソウソウ軍の将・シカンによって足止めされるという展開にしている。これは舞台が校舎内で、廊下に陣取るソウソウ軍をすり抜け、先回りして待ち構えるという展開は構造的に無理があるという判断からこのような形となった。(まあ、校舎外に出てしまえばどうとでもなる気はするが)


 この『学園戦記三国志』では、必ずしも『演義えんぎ』の内容に沿うとは限らないので、ご了承のほどよろしくおねがいいたします。まあ、関羽かんう千里行せんりこうとか色々やってないので今更ではあるのだが。



 ◎曹操そうそうの敗戦処理



 曹操そうそうは道中、多数の死者を出しながらも、江陵こうりょうへ撤退した。曹操そうそう族弟いとこ曹仁そうじん行征南将軍こうせいなんしょうぐんに任じ、徐晃じょこうと共に江陵こうりょうに駐屯させ、楽進がくしん襄陽じょうようを守らせ、満寵まんちょう行奮威将軍こうふんいしょうぐんとし、両都市の間にある当陽とうように置いて、自身は北に帰還した。[武帝紀ぶていき曹仁そうじん伝、楽進がくしん伝、徐晃じょうよう伝、満寵まんちょう伝、呉主ごしゅ伝]


 曹仁そうじん満寵まんちょうの役職の前にある「行」の字は代行の意味で、仮に任命された役職である場合に頭につけられる。本来なら朝廷ちょうていで正式な手続きを経て任命されるものだが、緊急事態のため出先の荊州けいしゅうでの任命となったのでこの処置となっている。この二人はこの時点ではまだ将軍号を与えられていなかったので(曹仁そうじん議郎ぎろう満寵まんちょう汝南太守じょなんたいしゅ)、代行ではあるが将軍として荊州けいしゅうの防衛を任せることとした。(なお、この時点で徐晃じょこう横野将軍おうやしょうぐん楽進がくしん折衝将軍せっしょうしょうぐんと、ともに将軍号持ち)


 また、曹操そうそう劉巴りゅうは(本編、リュウハ、102話より登場)をし出してじょうに任命し、長沙郡ちょうさぐん零陵郡れいりょうぐん桂陽郡けいようぐんに帰順を呼びかけさせた。注に引く『零陵先賢伝れいりょうせんけんでん』によると、この時劉巴りゅうはは「荊州けいしゅう劉備りゅうびが支配しているので無理です」と言ったが、曹操そうそうは「もし、劉備りゅうびが攻めてきたら私が六軍を率いて助けにいくだろう」と答えた。[劉巴りゅうは伝]


 劉巴りゅうは荊州零陵郡けいしゅうれいりょうぐんの出身で、祖父や父も郡太守ぐんたいしゅを務めた名家であり、彼自身も若い頃から有名であった。劉表りゅうひょうの招集には応じなかったが、曹操そうそう荊州けいしゅうを平定すると、彼は曹操そうそうつかえた。初め曹操そうそう荊州けいしゅう南部の帰順を既に実績のある桓階かんかいに命じたが、桓階かんかい劉巴りゅうはには及ばないとして辞退した。


 荊州けいしゅう平定時、曹操そうそう江陵こうりょうで留まり、そのまま東進して赤壁せきへきの戦いとなったので、江陵こうりょう以南へは足を踏み入れておらず、荊州けいしゅう南部へはほとんど何も出来てない状況だったのだろう。だから、曹操そうそう荊州けいしゅう南部の名家の出身である劉巴りゅうはを派遣して帰順をうながした。それは裏を返せばこの時点で荊州けいしゅう南部は決して曹操そうそうに従っていたわけではないことを意味している。


 また、赤壁せきへきと前後して孫権そんけん合肥ごうひ(“がっぴ”とも読む)へ侵攻している。孫権そんけん揚州ようしゅうで勢力を築いていたが、揚州ようしゅう全土が孫権そんけん領であったわけではなく、北部には曹操そうそう領となっている地域もあった。合肥ごうひ揚州ようしゅう曹操そうそう領に含まれる都市で、劉馥りゅうふく(本編、リュウフク、41話より名のみ登場)は曹操そうそう揚州刺史ようしゅうししに任命されると、本来、揚州ようしゅう州治しゅうち(州庁所在地)であった寿春じゅしゅんは既に袁術えんじゅつによって荒廃していたので、空城となっていた合肥ごうひに新たな州の庁舎ちょうしゃを置き、修復した。[武帝紀ぶていき劉馥りゅうふく伝、呉主ごしゅ伝]


 孫権そんけん揚州ようしゅうを完全に支配したいと考えていたのだろう。合肥ごうひは修復を開始してまだ数年しか経っておらず、またこの年(208年)に劉複りゅうふくも亡くなってしまっていたので、この時とばかりに合肥ごうひへと侵攻した。


 これに対し曹操そうそうは、将軍の張喜ちょうき(本編、チョーキ、102話より登場)(張憙ちょうきとも書く)に千騎を率いさせ、途中の汝南じょなんで兵を補充させて、救援に赴かせようとしたが、疫病えきびょうにより進行を止めてしまった。


 そこで合肥ごうひの役人であった蒋済しょうせい(本編、ショーセイ、64話より登場)は、張喜ちょうき率いる救援軍四万がすぐ側まで来ていると、偽の情報を孫権そんけんつかませた。孫権そんけんは既に合肥ごうひを包囲して一月以上経っていたが、劉馥りゅうふくのこした豊富な物資のおかげもあり、陥落かんらくできなかったこともあって、この情報を信じて撤退した。[蒋済しょうせい伝、劉馥りゅうふく伝]


 合肥ごうひ蒋済しょうせいの機転のおかげで事なきを得たが、合肥ごうひへの救援にせよ、荊州けいしゅう南部への対応にせよ、曹操そうそうの派遣した兵の少なさが目立つ。赤壁せきへき前夜、その総勢は数十万とも言われていた陣営とは思えない状況の変化である。


 これはまず第一に、主力であった曹操そうそう軍本隊が壊滅的打撃をこうむったためであろう。また、その多くが疫病えきびょうに感染していたのなら、帰還後に荊州けいしゅうに残っていた他の部隊にも感染した可能性も高く、荊州滞在けいしゅうたいざい軍全体に影響があったのではないか。


 さらに『蒋済しょうせい伝』によれば汝南じょなん(予州よしゅうに属す)を通過した張喜ちょうき軍にも疫病えきびょうが広まっており、この年の疫病えきびょう荊州けいしゅうで局所的に広まっていたものではなく、もっと広範囲に広まっていた可能性もある。劉備りゅうび軍・孫権そんけん軍に特に疫病えきびょうの記述が無いことから、この疫病えきびょう長江ちょうこう以北、荊州けいしゅう北部から予州よしゅうあたりで広まっていたのだろうか。曹操そうそう軍が広めてしまった可能性もあるが、とにかく曹操そうそう陣営ばかりが打撃をこうむる形となった。


 次に各地の反乱への備えであろう。孫権そんけん反旗はんきひるがえし、曹操そうそうに勝利したことにより、官渡かんとの勝利以降、曹操そうそう一強と思われていた図式が崩れた。それに伴い各地で反乱が頻発ひんぱつする可能性が高まり、それに備えて兵をある程度手元に置いておく必要性があった。そのため派遣する兵数が最低限に留まることとなった。実際に翌年には廬江郡ろこうぐん陳蘭ちんらん(本編、チンラン、55話より登場)らが孫権そんけん劉備りゅうびと組んで反乱を起こし、その後も太原たいげん商曜しょうよう(本編未登場)や関中かんちゅう軍閥ぐんばつ韓遂かんすい(本編未登場)や馬超ばちょうといった勢力を曹操そうそうは相手にしていくこととなる。


 曹操そうそう主力軍の壊滅と各地で起きる反乱のために曹操そうそうは兵力不足に悩まされることとなった。後に曹操そうそうは本隊を立て直すが、結局、天下を統一できなかったのであるから、この兵数不足は解決しなかったのではないだろうか。



 ◎その後の荊州けいしゅう


↓近況ノートリンク 荊州関連地図

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 さて、最後に曹操そうそう撤退後の荊州けいしゅうについて簡単に解説しておこう。


 劉備りゅうび周瑜しゅうゆの連合軍は南郡なんぐんに侵攻。曹仁そうじんもる江陵こうりょう長江ちょうこうはさみ対陣する形となった。周瑜しゅうゆ江陵こうりょうを攻めるより先に甘寧かんねい夷陵いりょうへ派遣し、これを占領させた。この時、甘寧かんねい軍は千人にも満たなかったので、曹仁そうじんは五六千の兵を送り、これを包囲した。甘寧かんねいより救援要請がくると、周瑜しゅうゆ呂蒙りょもうの策を用いて凌統りょうとうに留守を任せ、自ら甘寧かんねいを救出し、そのまま長江ちょうこうを下って、北岸に陣取り、江陵こうりょう対峙たいじした。[先主せんしゅ伝、周瑜しゅうゆ伝、呂蒙りょもう伝、甘寧かんねい伝、凌統りょうとう伝]


 夷陵いりょう江陵こうりょうから隣の益州えきしゅうに通ずるルート上にある都市だ。益州えきしゅう劉璋りゅうしょう曹操そうそうへ援軍を派遣した件はすでに書いたが、『呂蒙りょもう伝』によるとこの時、益州えきしゅうの将の襲粛しゅうしゅく(本編、シュウシュク、102話より登場)が部隊を率いて周瑜しゅうゆ軍に帰順している。おそらく、曹操そうそうの敗北を知って攻められる前にさっさと白旗しろはたを上げたのだろう。そして、この投降によりおそらく夷陵いりょうが空白地帯となり、急ぎ周瑜しゅうゆは占領したのだろう。


 また、時を前後して、劉備りゅうびより「張飛ちょうひと千人の兵を預けるので、代わりに二千の兵を貸してほしい。それで夏水かすいを通って曹仁そうじんの退路を断とう」と提案され、周瑜しゅうゆはこれに乗った。劉備りゅうび関羽かんうを北進させ、曹仁そうじんの退路を断たせた。曹仁そうじん楽進がくしん徐晃じょこう満寵まんちょうらをり、関羽かんうを撃退した。[楽進がくしん伝、徐晃じょこう伝、李通りつう伝、周瑜しゅうゆ伝]


 関羽かんうの動きについてだが、『徐晃じょこう伝』では徐晃じょこう満寵まんちょう漢津かんしんで撃退したといい、『楽進がくしん伝』では襄陽じょうよう楽進がくしん関羽かんう蘇非そひ(本編、ソヒ、77話より登場)らを攻撃して敗走させたという。『徐晃じょこう伝』の記述は長坂ちょうはんの戦いの時の話の可能性もあるが、『李通りつう伝』によればこの後、李通りつう(本編、リツウ、41話より登場)が曹仁そうじんの救援に赴いた時になおも関羽かんうは北道に陣取っていたとあるので、徐晃じょこう楽進がくしん李通りつうの攻撃が同時期でないのなら、徐晃じょこう楽進がくしんらは結局、関羽かんうを撤退させるまでの打撃を与えられなかったのではないか。関羽かんう蘇非そひ(人物不明。あるいは元黄祖こうそ配下の蘇飛そひ(本編、ソヒ、77話より登場)と同一人物か関係者であろうか)の部隊は敵中孤立無援こりつむえんの状況でかなりねばっていたといえる。


 周瑜しゅうゆ軍と曹仁そうじん軍は正面より開戦となった。途中、周瑜しゅうゆの左の鎖骨さこつ流矢ながれやが命中し、重症を負う場面もあったが、周瑜しゅうゆ軍が優勢であった。周瑜しゅうゆ劉備りゅうび軍に包囲され、北道も関羽かんうに断たれた曹仁そうじんのために、汝南太守じょなんたいしゅ李通りつうが軍を率いて救援に赴いた。馬から降りてさくを壊し、包囲陣に突入した。李通りつうは戦いつつ前進し、曹仁そうじん軍を救い出した。一年以上続いた攻防戦を制し周瑜しゅうゆ江陵こうりょうを占領すると、孫権そんけんは彼を南郡太守なんぐんたいしゅ偏将軍へんしょうぐんとし、江陵こうりょうに引き続き駐屯させた。[李通りつう伝、呉主ごしゅ伝、周瑜しゅうゆ伝]


 汝南郡じょなんぐん江陵こうりょうのある南郡なんぐんの北に位置し、隣(南陽郡なんようぐん)の隣の郡である。この時の李通りつうの活躍は諸将第一と『正史』でも賞賛されているが、李通りつうは帰り道の途中、病気にかかり亡くなってしまう。戦場での傷が元か、荊州けいしゅう疫病えきびょうかは不明である。


 そしてこの撤退により、江陵こうりょう周瑜しゅうゆと占領するところとなり、孫権そんけん周瑜しゅうゆ南郡太守なんぐんたいしゅとした。なお、この時点でまだ襄陽じょうよう(元々こちらも南郡なんぐん所属の都市)等の都市は占領できていないが、曹操そうそう荊州けいしゅう平定時に襄陽じょうようを含む北の都市を南郡なんぐんから分割して襄陽郡じょうようぐんを新たに設けている。なので、襄陽じょうようはまだ曹操そうそう領だが、南郡なんぐんの占領は完了したといえる。


 一方、劉備りゅうび長江ちょうこう南岸の油江口ゆこうこう公安こうあんと改称し、ここを拠点とした。劉琦りゅうき荊州刺史けいしゅうししとし、荊州けいしゅう南部四郡の征討に赴き、武陵太守ぶりょうたいしゅ金旋きんせん(本編、キンセン、91話より登場)、長沙太守ちょうさたいしゅ韓玄かんげん(本編、カンゲン、91話より登場)、桂陽太守けいようたいしゅ趙範ちょうはん(本編、チョウハン、91話より登場)、零陵太守れいりょうたいしゅ劉度りゅうたく(本編、リュウタク、91話より登場)らを全て降伏させた。曹操そうそうより南部の帰順の役を命じられていた劉巴りゅうはは、劉備りゅうびがこれらの郡を平定し、曹操そうそうの元に帰れなくなったため、遠く交州こうしゅうへと逃れた。[先主せんしゅ伝、劉巴りゅうは伝]


 油江口ゆこうこう江陵こうりょう長江ちょうこうはさんですぐ南側に位置し、長江ちょうこう油水ゆすいの合流地点あたり。劉備りゅうびはここを公安こうあんと改め、本拠地として荊州四郡を平定した。


 この征討された四郡の太守たいしゅについては記録が少なく、劉表りゅうひょうが任命したのか、曹操そうそうが任命したのかはっきりしない。唯一まとまった経歴がわかるのは武陵太守ぶりょうたいしゅ金旋きんせんで、『三輔決録注さんぽけつろくちゅう』によると、金旋きんせん京兆けいちょう(司隸しれいに属す)の人。黄門郎こうもんろう漢陽太守かんようたいしゅを歴任し、中央に召喚され、議郎ぎろうとなり、昇進して中郎将ちゅうろうしょうとなり、武陵太守ぶりょうたいしゅを兼ねたが、劉備りゅうびに攻撃され死亡したとある。これによれば中央で活躍していた人物であることがわかる。なお、『正史』では降伏しているが、こちらでは戦死している。金旋きんせんのその後の記録はなく、どちらが正しいかわからない。


 また、『黄忠こうちゅう伝』によると、曹操そうそう荊州けいしゅうを平定すると、元劉表りゅうひょうの将であった黄忠こうちゅう(本編、コーチュー、66話より登場)を仮に裨将軍ひしょうぐんとし、長沙太守ちょうさたいしゅ韓玄かんげんの統制下においたとある。黄忠こうちゅう劉表りゅうひょう時代から長沙ちょうさに駐屯していたが、長沙太守ちょうさたいしゅの配下ではなかった。それを曹操そうそう長沙太守ちょうさたいしゅの管轄に組み込んでいるのだから、韓玄かんげん曹操そうそう側の人間といえる。


 これらから考えて、おそらくこの四人の太守たいしゅ曹操そうそうが任命した可能性が高いのではないだろうか。


 なお、『演義えんぎ』ではこの四郡の攻略を関羽かんう張飛ちょうひ趙雲ちょううんにそれぞれ活躍の場を設け、かなり脚色を加えて描写している。黄忠こうちゅう韓玄かんげんの指揮下にいたのは前述したが、魏延ぎえんもその指揮下にいたのは『演義えんぎ』の創作である。また、趙範ちょうはんあによめ趙雲ちょううんに嫁がせようとし、拒否されたことは『趙雲ちょううん伝』の注に引く『趙雲ちょううん別伝』に見える。その他、邢道栄けいどうえい(本編未登場)等の四太守たいしゅの配下や関羽かんう黄忠こうちゅうの一騎打ち等は『演義えんぎ』の創作となる。


 赤壁せきへきの戦いでどうしても出番が減る関羽かんう張飛ちょうひ趙雲ちょううんに活躍の場を設け、黄忠こうちゅうとの一騎打ち等見所も多い『演義えんぎ』の四郡攻略だが、創作部分の多さと既に五章がかなり長くなっていたことから本編では大幅にカットした。気になる方は『演義えんぎ』やそれを元にした小説・漫画等を読んで確認してほしい。


 さて、この四郡攻略により、ついに劉備りゅうびは領土を得て、傭兵ようへいのような立場から群雄の仲間入りをたした。後に三国志の一国となる基盤を得たのである。


 この後、荊州けいしゅうの領有を巡っては劉備りゅうび孫権そんけんの間で大いにめることとなるが、次章に及ぶ話であるので、今回の『歴史解説 赤壁せきへきの戦い』はここまでとしたい。



 ◎まとめ



 今回は208年に起きた赤壁せきへきの戦いとその前後について解説した。


 三国志最大の戦いとも言われるこの戦いだが、実際に見ていくとそこまで大規模な戦いではなかったように思う。だが、その歴史的意義は大きい。


 まず、曹操そうそう側から見たこの戦いの損失だが、何よりも曹操そうそうの天下統一事業の破綻はたんが挙げられる。


 官渡かんとの戦いに勝利し、袁氏えんしを滅ぼした曹操そうそうは、事実上の一強状態となり、他の勢力は恭順きょうじゅんの意を示した。後はかつての袁氏えんしの同盟者である劉表りゅうひょう劉備りゅうびを倒せば反対勢力はほぼ一掃されるはずであった。


 その劉表りゅうひょうも亡くなり、残る劉備りゅうびは優れた指揮官といえども寡勢かせいで、曹操そうそうの勝利は一目瞭然いちもくりょうぜんであった。しかし、そこに孫権そんけん反旗はんきひるがえし、そして曹操そうそうに勝ってしまった。これにより今まで曹操に恭順していた他勢力にも反抗の気運が高まり、更には劉備りゅうび孫権そんけんも倒しきれず、結局、曹操そうそうの代での天下統一は頓挫とんざしてしまった。


 この後の曹操そうそうは、魏公ぎこう、そして魏王ぎおうとその地位を上げていくこととなるが、この敗戦で権威を大きく損ない、さらに天下統一からの皇帝即位という軍事的な手順を行うのが難しくなったため、政治的な手順で権威をおぎない、皇帝への道筋をつける必要が生じたためというのも理由の一つだろう。


 次に孫権そんけんの場合だが、こちらは孫権そんけんの権威の確立が挙げられる。


 これまで見てきたように、これ以前の江東こうとう孫氏そんし政権は孫賁そんほん孫輔そんほらが強い発言権を有し、孫権そんほんの力は決して強いものではなかった。孫権そんけんはこの戦いを利用し、クーデターにも近い形で孫賁そんほん孫輔そんほを政権中枢ちゅうすうの座から失脚させた。


 この後、孫権そんけんは三国の一国であるを建国していくこととなるが、この孫賁そんほん孫輔そんほの排除は自立していく上でけては通れないことであった。孫権そんけんはこの戦いの勝利により、軍事的な功績・権威に加えて、権力の確立に成功し、建国の第一歩を踏み出すこととなった。


 最後に劉備りゅうびだが、彼は念願の領土を得ることが出来たのが最大の利益であろう。


 劉表りゅうひょう時代、劉備りゅうび新野城しんやじょう樊城はんじょうに駐屯してはいたが、その領土を与えられたわけではなかった。傭兵ようへいのような扱いであり、それは袁紹えんしょう劉表りゅうひょうのような群雄の元にいなければ活動もままならない状況であった。徐州じょしゅう以来の領土を持つことで劉備りゅうびはようやく群雄として並び立つことができた。後に彼も三国の内の一国を建国することとなるが、それもこの元手があったからこそ得ることができた。


 こうして三勢力の事情を見ていくと、曹操そうそうは天下統一が不可能となり、孫権そんけん劉備りゅうびは勢力を拡大することに成功した。まさにこの赤壁せきへきの戦いはそれまでの後漢ごかんの群雄割拠の時代を終わりを告げ、来たるべき三国時代の始まりとなった戦いと言えるだろう。



〔参考文献〕


・書籍

陳寿著 今鷹真・井波律子・小南一郎訳 『正史三国志』(全八巻) 筑摩書房 1993年

范曄撰 李賢等注 『後漢書』(全六巻) 中華書局出版 1965年

目加田誠訳注 『新釈漢文大系 世説新語』(全三巻) 明治書院 1975年

譚其驤主編 『中国歴史地図集 第二冊(秦・西漢・東漢時期)』 地図出版社 1982年

宮川尚志 『諸葛孔明(新装版)』 光風社 1988年

中国綜合地図出版編 『中国綜合地図集』 中国綜合地図出版社 1990年

篠田耕一 『三国志軍事ガイド』 紀元社 1993年

沈伯俊・譚良嘯編著 立間祥介・岡崎由美・土屋文子編訳 『三国志演義大事典』 潮出版社 1996年

郭沫若主編 『中国史稿地図集』 中国地図出版社 1996年

竹田晃訳 『文選(文章篇) 中』 明治書院 1998年

来村多加史他 『歴史群像グラフィック戦史シリーズ 戦略戦術兵器事典 中国編』 学研 2000年

渡邉義浩 『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』 講談社 2012年

幾喜三月 『献帝の見た日食 後漢末から晋統一までの71の日蝕一覧』 楽史舎 2015年

長田康宏 『三国志群雄太守県令勢力図(上)』 長田康宏 2018年

東光書店 『三国志地図』 東光書店 2019年


・論文

上田早苗 「後漢末期の襄陽の豪族」 『東洋史学』(28号) 1970年

石井仁 「漢末州牧考」 『秋大史学』(38号) 1992年

石井仁 「富春孫氏考ー孫呉宗室の出自をめぐって」 『駒沢史学』(70号) 2008年

満田剛 「孫策・周瑜の「断金」の交わりの歴史的背景 : 孫氏と周氏・袁氏・朱氏」 『東洋哲学研究所紀要』(28号) 2012年

石井仁 「赤壁研究序説ー「江漢五赤壁」とその周辺」 『駒沢史学』(80号) 2013年



・サイト

資治通鑑 維基文庫

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91

三国志、全文検索 http://www.seisaku.bz/sangokushi.html

全三国文

https://zh.m.wikisource.org/zh-hans/%E5%85%A8%E4%B8%89%E5%9C%8B%E6%96%87

後漢紀

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E7%B4%80

襄陽記

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%A5%84%E9%99%BD%E8%A8%98

水経注

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8?uselang=ja

太平御覧

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%BE%A1%E8%A6%BD

太平寰宇記

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%AF%B0%E5%AE%87%E8%A8%98

東洋文庫水経注図データベース

https://static.toyobunko-lab.jp/suikeichuzu/

むじん書院

http://www.project-imagine.org/mujins/

季漢書

http://blog.livedoor.jp/jominian/

てぃーえすのメモ帳

https://t-s.hatenablog.com/

思いて学ばざれば

https://mujin.hatenadiary.jp/

いつか書きたい『三国志』

http://3guozhi.net/

もっと知りたい!三国志

https://three-kingdoms.net

歴華泉

http://rekishiizumi.web.fc2.com/

呉書見聞

http://gosyokenbun.com/

[三国志]孫権が権力を掌握する過程について

https://togetter.com/li/662812

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