歴史解説 赤壁の戦いその5(全6回)

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク

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 前回は孫権そんけん周瑜しゅうゆ魯粛ろしゅく孔明こうめいらの言葉によってついに曹操そうそうとの開戦を決断したことを述べた。今回は孫権そんけん曹操そうそう両勢力が赤壁せきへきにて開戦に至るまでの流れを解説していく。



 ◎周瑜しゅうゆ曹操そうそう討伐軍



 開戦を決断した孫権そんけん周瑜しゅうゆを指揮官とし、曹操そうそう討伐軍を組織した。その軍団は以下のようなものであった。


 『周瑜しゅうゆ程普ていふとが左右のとくとなり、それぞれに一万の軍を指揮し、劉備りゅうびと共同して軍を進めた。』[呉主ごしゅ伝]


 まず、兵力だが、『呉主ごしゅ伝』(孫権そんけんの伝記)では周瑜しゅうゆ程普ていふにそれぞれ一万の軍を指揮させたとある。この他、『先主せんしゅ伝』(劉備りゅうびの伝記)では数万としか書かれないが、『諸葛亮しょかつりょう伝』では三万、『先主せんしゅ伝』及び『周瑜しゅうゆ伝』の注に引用されている『江表伝こうひょうでん』でも三万、『後漢紀ごかんき』でも三万とある。


 赤壁の戦いのでは一般的に周瑜しゅうゆ軍は三万とされる。『呉主ごしゅ伝』との記述と合わせると周瑜しゅうゆ配下一万、程普ていふ配下一万、その他黄蓋こうがいらの他の武将の手勢を合わせて一万というところだろうか。この頃の軍勢は実態より多めに報告するものだから、三万は実際より多めの数なのかもしれない。実際の内訳は不明だが、この時の兵力は二万〜三万ぐらいと推定しておく。


 次に軍の総指揮官だが、前述の『呉主ごしゅ伝』にあるとおり、この討伐軍の総督そうとく周瑜しゅうゆ程普ていふの二人が務め、『呉主ごしゅ』伝を読む限りその立場は同格であったようだ。


 だが、『孫皎そんこう(本編未登場)伝』によると、後に呂蒙りょもう(本編、リョモウ、77話より登場)がこの戦いを述懐じゅつかいして以下のような発言をしている。


『「以前、周瑜しゅうゆ程普ていふとが左右の指揮官となり、共同して江陵こうりょうを攻めたことがありました。最終的な決定は周瑜しゅうゆがしましたが、程普ていふには古参こさんという自負があり、二人は不仲となって、国家の大事を危うく損ないかけました」』[孫皎そんこう伝]


 呂蒙りょもうの武将で、赤壁せきへきの戦いにも参戦しており、身近で見ていた一人である。彼のこの発言から、周瑜しゅうゆが最終的な決定権を有していたことがわかる。周瑜しゅうゆ程普ていふ、両者の立場は同格ではあったが、この部隊の主体は周瑜しゅうゆであった。だが、そのために両者の仲は険悪となり、『周瑜しゅうゆ伝』には周瑜しゅうゆ程普ていふは仲が良くなかったとはっきり書かれている。


 さらに『周瑜しゅうゆ伝』の注には以下のような記載がある。


程普ていふは自分の方が年長者であることから、度々周瑜しゅうゆあなどった。対して周瑜しゅうゆ下手したてに出て、逆らおうとはしなかった。程普ていふは後に周瑜しゅうゆに心服し、親しみ、尊重するようになると、人にげて言った。「周瑜しゅうゆ殿と交流していると、芳醇ほうじゅんな美酒をんだかのように、自らが酔ったことに気が付かない」』[周瑜しゅうゆ伝注江表伝こうひょうでん]


 程普ていふ孫堅そんけんの時代より仕える宿将で、軍の中でも最年長であることから程公ていこうと呼ばれ、とりわけ敬われていた。対して周瑜しゅうゆ孫策そんさくの友人で、家臣としては比較的新参であったが、来てすぐに幹部扱いとしてぐうされた。親子ほど年の離れた若僧が来て早々に自分とほぼ同列に扱われているあたりが、程普ていふ周瑜しゅうゆを気に入らなかった理由だろう。その実力を認めるより前に自分と同格の軍の総指揮官となったために余計不仲に拍車はくしゃをかけることとなった。


 後に程普ていふ周瑜しゅうゆを認め、親しくなっているが、前述の呂蒙りょもうの発言には、両者の不仲によって国家の大事を危うく損ないかけたとある。そのことからもおそらく、両者が良好になるのは赤壁せきへきの戦いの後のことで、赤壁せきへきの最中は、それこそ不仲のために敗戦になりかけるほどに決裂けつれつしていたのだろう。


 両者をほぼ同格としたのは孫権そんけんの失策といえるだろう。孫権そんけん自らが出陣して総指揮をれば解決するのだが、孫権そんけんは戦が不得手ふえてで、この時代で最も戦上手の曹操そうそうとの戦争は他の者に任せるしかない。また、この戦いに負ければ後がないという状況で少しでも保険をかけた結果だろう。


 また、この討伐軍の参謀には魯粛ろしゅくが任命されている。


周瑜しゅうゆに総指揮を任せ、魯粛ろしゅく賛軍校尉さんぐんこういとして、周瑜しゅうゆが戦略を立てる時の助言者とならせた』[魯粛ろしゅく伝]


 この他、赤壁せきへきの戦い及びその後の荊州けいしゅう戦に参加したという記述のある者は、呂蒙りょもう黄蓋こうがい韓当かんとう(本編、カントウ、9話より登場)・周泰しゅうたい甘寧かんねい(本編、カンネー、77話より登場)・凌統りょうとう(本編、リョートー、77話より登場)・呂範りょはんらが挙げられる。


 その他、本編では、ショーキン(蒋欽しょうきん)(本編、23話より登場)、タイシジ(太史慈たいしじ)(本編、19話より登場)、ハンショー(潘璋はんしょう)(本編、89話より登場)らが参戦している。


 実際にはこの時、蒋欽しょうきん呂岱りょたい(本編未登場)や賀斉がせい(本編未登場)らと共に領内の叛乱鎮圧はんらんちんあつに従事しており、潘璋はんしょう荊州けいしゅうとの州境で防衛の任にいており、共に赤壁せきへきの戦いには不参加であったと思われる。


 孫権そんけんの領土内には、山越さんえつという異民族が同居し、また不服住民も多く、安定しているとは言い難い状態であった。そのため、武将や兵士を各地に分散して配置せねばならない状況となっていた。


 なお、太史慈たいしじはこの二年前の206年に死去している。享年41歳。あまりにも呆気あっけない退場のため、本編でどうしていいのか未だに決めかねている。本当にどうしたものか。



 ◎曹操そうそう荊州けいしゅう政策



 周瑜しゅうゆ率いる曹操そうそう討伐軍の編成が決まったところで、ここで舞台を荊州けいしゅう江陵こうりょうに移し、荊州けいしゅうを占領した曹操の様子を解説しておこう。


 長阪ちょうはん劉備りゅうびに勝利した曹操そうそうはそのまま江陵こうりょうへ入った。


 『江陵こうりょうに入った曹操そうそうは、荊州けいしゅうの官民に布告ふこくを下し、罪を洗い流すことを宣言した。降伏した荊州けいしゅう劉琮りゅうそうとその部下の功績を評価し、十五人を列侯れっこうとし、劉表りゅうひょうの武将・文聘ぶんへい江夏郡こうかぐん太守たいしゅとした。』[武帝紀ぶていき]


 『武帝紀ぶていき』の記述を読む限り、曹操そうそうはこの後赤壁せきへきへ出陣するまでの間、政務は劉琮りゅうそうのいる襄陽じょうようではなく、ここ江陵こうりょうで行ったようである。


 この地にて曹操そうそうは、降伏した劉琮りゅうそうとその家臣の処遇を決定した。


 『劉琮りゅうそう青州刺史せいしゅうししとし、列侯れっこうに取り立て、後に諫議大夫かんぎたいふ参同軍事さんどうぐんじに昇進させた。』[劉表りゅうひょう伝]


 注にある『魏武故事ぎぶこじ』の曹操そうそうの命令書から劉琮りゅうそう荊州けいしゅうから切り離され、軍を放棄したことがわかる。この功績により彼は昇進した。


 『蒯越かいえつ光禄勲こうろくくん韓嵩かんすう大鴻臚だいこうろ鄧羲とうぎ(本編未登場)を侍中じちゅう劉先りゅうせん(本編未登場)を尚書しょうしょ(後に尚書令しょうしょれい)とした。』[劉表りゅうひょう伝]


蔡瑁さいぼう従事中郎じゅうじちゅうろう司馬しば長水校尉ちょうすいこうい漢陽亭侯かんようていこうとなった』[襄陽記じょうようき]


 列侯れっこうとは爵位しゃくい(身分制度)の一つで、こうの位と領土を与えられる。この領土に対して統治権を持たない、つまり、実際に領主として政治をやることはできないが、その領土から得た税金を生活費として支給される。つまり、働かなくてもお金が貰える夢の地位である。一般的に与えられた地名を取って○○こうと呼ばれる。


 列侯れっこうの上は公や王となるが、これは一般的には皇族しか任命されないため(後に皇族以外で名乗る人が出てくるが)、列侯れっこうが人臣の最高位となる。(一口に列侯といっても、その土地の大小や優劣等で立場に差があるが、今は省略する)


 『武帝紀ぶていき』にあるように劉表りゅうひょう配下の者達の内、十五人を列侯れっこうにしたという(おそらく劉琮りゅうそうを含む)。『劉表りゅうひょう伝』には蒯越かいえつらとあることから、蒯越かいえつが含まれることはわかるが、後の人名は不明である。おそらく、元劉表りゅうひょうの重臣曹操そうそうへの降伏に積極的であった者だろう。


 考えるに、蒯越かいえつと共に高官となった韓嵩かんすうらと漢陽亭侯かんようていこうになっている蔡瑁さいぼうがこの十五人の内なのだろう。(ただし、蔡瑁さいぼう曹操そうそう降伏後いつ任命されたかは不明)


 他に候補としては蒯良かいりょう張允ちょういんがいる。


 蒯良かいりょう劉表りゅうひょう荊州けいしゅうに来た時から加わっている部下だが、それ以降の記録がない。だが、『世説新語せせつしんご』の注にある『晋陽秋しんようしゅう』によると蒯良かいりょう吏部尚書りぶしょうしょになったという。吏部尚書りぶしょうしょ朝廷ちょうていの役職で劉表りゅうひょうが任命するような役職ではない。そのため、曹操そうそう降伏後に任命された可能性が高く、彼もこの時の降伏メンバーに入っていたのかもしれない。


 張允ちょういん劉表りゅうひょう外甥がいせい(他氏のおい)であったという。その具体的な関係性は不明だが、『襄陽記じょうようき』にそれらしい記述がある。蔡瑁さいぼう叔母おば張温ちょうおん(本編、チョーオン、8話より登場)の妻となった。張温ちょうおん荊州南陽郡穣県けいしゅうなんようぐんじょうけんの人。太尉たいい(三公の一つ、大臣最高位)・互郷侯ごきょうこう(列侯れっこう)となったが、後に董卓とうたくに殺された。この張温ちょうおん張允ちょういんの祖父と仮定すると、蔡瑁さいぼうとその姉をめとった劉表りゅうひょうから見て、外甥がいせい(正確には従兄弟いとこの子)となる。これはあくまで仮定で、記録に残ってない劉表りゅうひょう婚姻こんいん関係のある別の張氏ちょうしの可能性もあるが、張允ちょういん張温ちょうおんの孫と仮定すれば、劉表りゅうひょうの一族で、劉琮りゅうそう後継に積極的に協力したことに加え、三公・列侯れっこうの孫となり、曹操そうそうから列侯れっこうに封じられる可能性は高いと言える。しかし、曹操そうそう降伏後の張允ちょういんの記録がないために詳細は不明。[後漢書ごかんじょ竇武とうぶ伝、後漢書ごかんじょ劉表伝りゅうひょう襄陽記じょうようき]


 まだ十五人には足りないが、後に漢中かんちゅう張魯ちょうろが降伏すると、曹操そうそうはその五人の子も列侯に取り立てたとあるので、劉表りゅうひょうやその家臣の一族も別に列侯れっこうとしたのかもしれない。


 その他だと、傅巽ふそん関内侯かんだいこう文聘ぶんへい江夏太守こうかたいしゅ関内侯かんだいこう王粲おうさん(本編、オウサン、63話より登場)を丞相掾じょうしょうじょう関内侯かんだいこうに任命している。[劉表りゅうひょう伝、文聘ぶんへい伝、王粲おうさん伝]


 関内侯かんだいこう列侯れっこうの一つ下の爵位しゃくいで、特定の領地は持たないが、領地相当の金銭を受け取れる身分である。


 そのため、上記の者達は十五人の列侯れっこうには含まれないが、それに準じる待遇を与えられた者達である。


 この他、この頃に曹操そうそうつかえた荊州人士けいしゅうじんしでは、梁鵠りょうこく(本編、リュウコク、63話名のみ登場)、桓階かんかい(本編、カンカイ、91話より登場)、和洽わこう(本編未登場)、裴潜はいせん(本編、ハイセン、91話より登場)、韓曁かんき(本編、カンキ、92話名のみ登場)、杜夔とき(本編、トキ、63話名のみ登場)らが挙げられる。



 ◎208年の日食



 本編の赤壁せきへきの戦いにおいて日食が大きな役割をになっている。学校を舞台にしている関係上、実際に放火するわけにはいかないための処置だが、この日食は全くの虚構きょこうではない。


 『建安けんあん十三年(208年)冬十月、日食があった』[後漢書ごかんじょ孝献帝紀こうけんていき]


 赤壁せきへきの戦いのあった208年に実際に日食はあった。正確に言えば赤壁せきへきの戦いがあったのはこの年の12月とされているので、10月にあったこの日食とは二ヶ月ほど開きがあるが、本編の日食はこの記述から着想を得て書いている。


 この時の日食がどのようなものであったのか。『献帝けんていの見た日食 後漢ごかん末からしん統一までの71の日蝕にっしょく一覧』にて詳しく検証されているので紹介しよう。この本では各都市から日食がいつ頃どう見えたか検証されている。その都市に荊州けいしゅうの都市はないが、比較的近い柴桑さいそう(この頃孫権そんけん孔明こうめいがいた都市)で確認しよう。


 208年の10月27日、柴桑さいそうからは|食分(日が隠れた最大時のパーセント)83.4%、日食開始時刻08:05、日食最大時刻09:24、日食終了時刻10:51。かなり深い日食なので、天候に問題なければ全ての人が認識できた。


 この年の10月頃ならば、曹操そうそう劉備りゅうびを破り、江陵こうりょうにて荊州けいしゅうの人事を行っていた頃だろう。劉備りゅうび孔明こうめい江東こうとうに派遣し、孫権そんけん曹操そうそうとの開戦を決定したかどうかぐらいであろうか。


 なお、古代中国では天変地異が起きるとその責任を取って大臣が罷免ひめんされた。日食もその対象であり、後漢ごかん時代ではその責任を取る者は太尉たいいと決まっていた。ただ罷免ひめんといっても慣習的なもので、罷免ひめんされた太尉たいいが時間をおいて太尉たいいに再任されたり、別の高官にくことも多かった。


 太尉たいいは大臣最高位である三公の一つ。軍事をつかさどるが、実際に軍隊を率いるというわけではなく、軍隊を管理し、その賞罰を皇帝を奏上そうじょうする。その太尉たいいがなぜ、日食で責任を取るのかというと、太尉たいいの本来の役目は天をつかさどり、天変地異の責任は太尉たいいにあるとされているからである。また、天文星暦てんもんせいれきつかさどる役職である太史令たいしれい太尉たいい管轄かんかつである太常府たいじょうふ(礼儀・祭祀さいしつかさどる部署)に属す。


 元々、大臣最高位は丞相じょうしょうという役職であったが、後漢ごかん時代に廃止され、その権限は三分割され、三公となった。それを曹操そうそうはこの年、208年の初めに三公を廃止・統合し、再び丞相じょうしょうを設け、自らその役職に就任した。そのため、この時の日食時には太尉たいいの役職は存在さず、当然、誰も罷免ひめんされてはいない。


 しかし、見方を変えれば丞相じょうしょうである曹操そうそうが責任を問われる立場であるとも言えるが、特に責任を取ったという記述はない。もしかしたら、この時の日食への対応が、孫権そんけん曹操そうそうとの開戦を決断する後押しくらいにはなったのかもしれない。


 なお、大臣の罷免ひめんであるが、献帝けんてい(本編、リューキョー/学園長、5話より登場)が曹操そうそう庇護ひごされて以降は行われておらず、後にが出来たばかりの頃の221年の日食の時に、文帝ぶんてい(曹丕そうひ)は天変地異を理由に三公を弾劾だんがいしてはならないと定め、以降は大臣の罷免ひめんが行われなくなった。日食による大臣の罷免ひめん曹氏そうしによって廃止された。



 ◎赤壁せきへきへ至る道



 曹操そうそう江陵こうりょうにて政務を行って約ニヶ月、この年の12月についに劉備りゅうび征討のため西進した。


 小説『三国志演義えんぎ』では、荊州けいしゅうを平定した曹操そうそうが一方的に孫権そんけんに対して降伏を勧告。それに対して孫権そんけん方は降伏か戦争かの侃々諤々かんかんがくがくの議論を経た後に開戦を決断。周瑜しゅうゆ率いる水軍三万と赤壁にて戦闘となる、という流れである。


 この辺りの流れについて詳しく知りたい方は『演義えんぎ』を読んでもらうとして、これまで解説してきたように、この時の曹操そうそう孫権そんけんに対して直接的な戦争の要求はしていなかったと思われる(尊大そんだいな応対等はあっただろうが)。


 『正史』の『武帝紀ぶていき』にも『曹操そうそう自ら劉備りゅうびを征討するために江陵こうりょうより巴丘はきゅういたった』とあり、曹操そうそうの目的はあくまでも夏口かこうに駐屯する劉備りゅうび劉琦りゅうき軍の征討であったと思われる。また、赤壁せきへきの戦いのあった場所については諸説あるが、いずれも荊州けいしゅう内であり、曹操そうそうはこの時、孫権そんけんの領地には踏み込んでいない。


 整理すると赤壁せきへきの戦いにおける曹操そうそうの目的は、江夏郡こうかぐん劉備りゅうびの征討であり、周瑜しゅうゆはその劉備りゅうびの救援を名目に参戦した戦いであった。


 以上の事から考えて、この赤壁せきへきの戦いでの曹操そうそう軍の兵力は巷間こうかん語られるほどの大規模なものではなかったのではないだろうか。この戦いでは曹操そうそう軍の具体的な兵力は記述がないが、とにかく曹操そうそう軍は大軍であったことが強調され、『演義えんぎ』では百万の大軍と号していた。これは大げさにしても前述のの群臣の言葉からも、史実でも数十万の大軍だったのではないかという意見もある。


 しかし、この数字はあくまでも荊州けいしゅう平定後の曹操そうそうが導入できる最大兵力の予想であり、仮に数十万の兵力をようしていたとしても、平定したばかりの荊州けいしゅうをほったらかしにしてその全兵力を投入するとは考えにくい。この戦いの本来の目的が劉備りゅうび劉琦りゅうき軍征討であり、この時の劉備りゅうび軍が一万、劉琦りゅうき軍が一万の合わせて二万の兵力であったことを考えれば、対する曹操そうそう軍はそれ以上の兵力ではあっただろうが、数十万もの兵力を投入する必要はない。


 後述するが、この時の曹操そうそう軍は船が無く、川をいかだを自作して渡ったという記録があり、このことから荊州けいしゅう水軍の多くは同行していなかったと推察できる。また、この赤壁せきへきで戦った記録が曹操そうそう側には『武帝紀ぶていき』ぐらいにしか記載がなく、この他の荊州けいしゅう平定戦に参加したはずの多くの曹操そうそう方の武将の伝記に記述がない。


 以上から、この時の曹操そうそう軍は曹操そうそう本隊を中心とした数万程の兵力だったのではないだろうか。


↓近況ノートリンク 赤壁周辺地図

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 さて、江陵こうりょうから巴丘はきゅうに赴いた曹操そうそうだが、『正史』の『武帝紀ぶていき』ではこのまま開戦しており、この間の様子がよくわからない。このあたりの流れは『太平御覧たいへいぎょらん』が収録する『英雄記えいゆうき』によって多少、補完されている。


曹操そうそうは進軍して長江ちょうこういたり、赤壁せきへきから長江ちょうこうを渡ろうとした。船がなかったので、竹でいかだを作り、兵士らをそれに乗せた。漢水かんすい沿いに川を下り、浦口ほこうに着いたが、すぐには長江ちょうこうを渡ろうとはしなかった』[英雄記えいゆうき]


 曹操そうそう軍の動きを『正史』とこの『英雄記えいゆうき』の記述から総合して考えると、江陵こうりょう巴丘はきゅう浦口ほこう赤壁せきへきという流れだろうか。


 巴丘はきゅうについては、洞庭湖どうていこの辺りは当時、雲夢沢うんぼうたくという湿地帯が広がっていた。『荊州記けいしゅうき』にはこの雲夢沢うんぼうたくの別名を巴丘湖はきゅうこといい、『水経注すいけいちゅう』にはこの近くの山を巴邱山はきゅうざんというとある。現在の岳陽市がくようしの辺りを指すのだろう。なお、後に周瑜しゅうゆが死去する巴丘はきゅうもこの辺りと思われる。


 次は浦口ほこうだが、これは涌口ゆこうの間違いではないか。涌口ゆこう漢水かんすいとも通ずる長江ちょうこうの支流の一つで、洪湖こうこの辺りにある。


 漢水かんすいに従って川を下っていること、また、船がなくいかだを製作していることから、江陵こうりょうから巴丘はきゅうを経由して漢水かんすい沿いまで陸路であったと察せられる。加えて、孫権そんけん側が警戒した荊州けいしゅう水軍は同行しなかったか、もしくはいても少数であったと考えられる。


 この時の曹操そうそう軍は何十万とはいかなくとも、何万かはいたはずで、それを船で移送しようとすると生半可なまはんかな数では間に合わない。そのために間に合わない分をいかだで補ったとも考えられるが、前述の『英雄記えいゆうき』では、この後の赤壁せきへきで焼かれた曹操そうそう軍の船は数千そういかだとし、船とは書かれていない。


 また、赤壁せきへき戦後、曹操そうそう曹仁そうじん江陵こうりょうに残し、江陵こうりょうを巡って周瑜しゅうゆと攻防戦を繰り広げることとなるが、その戦いにも水軍は登場していないことを考えると、曹操そうそう孫権そんけんが予想したほどには江陵こうりょうには船はなかったのではないだろうか。あるいは劉備りゅうび長坂ちょうはん曹操そうそうに敗れ、さっさと江陵こうりょう占領をあきらめたことを考えると、この時既に劉備りゅうび江陵こうりょう水軍に対して何かしら対策(焼却、奪取等)を行っていたのかもしれない。


 さすがに劉備りゅうび江陵こうりょう水軍を奪っていたのは想像に過ぎないが、関羽かんう襄陽じょうようから乗っていた船は襄陽じょうよう(にいる劉琮りゅうそうの)水軍の船と考えられるので、曹操そうそう江陵こうりょうでも襄陽じょうようでも思ったほど水軍は得られなかったと考えられる。


 それでも曹操そうそう夏口かこうへ侵攻したのは、水軍戦をそこまで想定していなかったからであろう。この時の曹操そうそうの目的は夏口かこう籠城ろうじょうする劉琦りゅうき軍と樊口はんこうに駐屯する劉備りゅうび軍の討伐である。どちらも長江ちょうこう沿いにあるが、船はあくまでも移動手段であって、それで勝敗をつけるつもりはなかった。


 また、劉琦りゅうき籠城ろうじょうしたと思われる卻月城きゃくつきじょう(もしくは魯山城ろざんじょう)は長江ちょうこうの北岸側にあり、そこへ向かうだけならば既に北岸ルートで進行している曹操そうそうはわざわざ長江ちょうこうを南岸へ渡る必要はない。この時のいかだ長江ちょうこうを渡るためではなく、その途中の支流をまたぐために作られたのではないだろうか。


 しかし、この涌口ゆこうを過ぎた辺りで曹操そうそう軍の進行は止まる。おそらくここで周瑜しゅうゆ軍と遭遇したためと思われる。



 ◎赤壁せきへきの場所



 では、ここからは周瑜しゅうゆ軍の動きを見ていこう。


 『先主せんしゅ伝』、『周瑜しゅうゆ伝』等では劉備りゅうび軍と周瑜しゅうゆ軍が合流したとある。一方で、『江表伝こうひょうでん』では劉備りゅうびは留まり、周瑜しゅうゆが先行して曹操そうそう軍に当たったとある。しかし、この『江表伝こうひょうでん』の記述に対して孫盛そんせいの人々が自国を賛美するために劉備りゅうびおとしめて書いてあると批判している。


 実際、ここまで来て劉備が全く動かないとは思えない。だが、『江表伝こうひょうでん』における劉備りゅうびの言動は創作としても、赤壁せきへきの戦いにて主に働いたのは周瑜しゅうゆ軍だろう。劉備りゅうびが出遅れたのは、陸軍主体の劉備りゅうび軍と水軍主体の周瑜しゅうゆ軍の移動速度の差ではないだろうか。移動速度の早い周瑜しゅうゆ軍が先に戦場に到着し、劉備りゅうび軍到着前に開戦となったのだろう。


周瑜しゅうゆ劉備りゅうびとは協同して曹操そうそうを迎え撃ち、両軍は赤壁せきへきで遭遇した。この時、曹操そうそう軍の陣中では疫病えきびょう蔓延まんえんしており、最初の交戦で曹操そうそう軍は敗退し、長江ちょうこうの北側に陣営を築き、周瑜しゅうゆ軍は南側に布陣した。』[周瑜しゅうゆ伝]


 両軍、赤壁せきへきにて戦いとなったが、実はこの赤壁せきへきについて具体的な場所については諸説ある。


 まず、長江ちょうこう流域に赤壁せきへきと名付けられた地名が複数あること。また、『程普ていふ伝』その他では曹操そうそうを破った場所を烏林うりんとしており、ここが赤壁せきへきと同一なのか別の場所なのか不明なこと。さらにこれだけの戦いがありながら、この赤壁せきへき烏林うりんの地名はその後、地理書・辞書類等の後世の編纂物へんさんぶつを除けば、一切登場しないこと等の理由により、赤壁せきへきの戦いのあった場所は正確には不明となっている。


 赤壁せきへきの候補としては大きく五つあるのだが、それらを詳しく説明すると長くなるので、ここでは代表的なものを二つ簡単に紹介しよう。


↓近況ノートリンク 赤壁周辺地図(再掲)

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 まず、一つは嘉魚赤壁かぎょせきへきと呼ばれる場所である。現在の湖北省こほくしょう赤壁市城区せきへきしじょうくから西北へ約三十キロ。長江ちょうこうの南岸の赤壁山せきへきざんである。ここはかつて嘉魚県かぎょけんと呼ばれた地域にあるので、一般に嘉魚赤壁かぎょせきへきと呼ばれる。現在(2022年5月現在)、赤壁せきへきの戦いと検索してまず出てくる岩肌に大きく「赤壁せきへき」の文字が掘られている場所がここで、現地は赤壁せきへき古戦場にちなんだテーマパークが建てられ、一大観光地となっている。ここには他にも孔明こうめいが東南の風を呼んだとされる「拜風臺はいふうだい」があり、龐統ほうとうゆかりの鳳雛庵ほうすうあんもあるという。だが、孔明こうめいが風を呼ぶのも、龐統ほうとう赤壁せきへきに現れ、連環れんかんの計を授けるのも『三国志演義えんぎ』の創作であって事実ではない。「拜風臺はいふうだい」は遅くともみん代後半(一説には1610年創建)にはあったようで、『演義えんぎ』ファンの製作したものであろうが、かなり古いものではあるようだ。


 もう一つが江夏赤壁こうかせきへきである。こちらは現在の湖北省こほくしょう武漢市江夏区ぶかんしこうかく赤磯山せきそやまがそれだという。こちらは地理書『水経注すいけいちゅう』に記載されている場所で、それによると、赤壁せきへきとは周瑜しゅうゆ軍が布陣し、黄蓋こうがいが出発した場所で、烏林うりん(洪湖市こうこし下烏林かうりん)は曹操そうそう軍が布陣し、黄蓋こうがいの攻撃を受けた場所であったという。この『水経注すいけいちゅう』が現存する地理書の中で最も古く、そのため信憑性しんぴょうせいが高いとされ、学術的な観点からも支持者が多い。


 現在は、学術的には江夏赤壁こうかせきへきが優勢で、観光地として有名なのが嘉魚赤壁かぎょせきへきという状況である。江夏赤壁こうかせきへきが優勢とはいえ、もちろん反論もあり、確定とはいえないので、今回は両説を紹介するに止める。二つの場所を地図に当てはめると、嘉魚赤壁かぎょせきへき曹操そうそうが通過した涌口ゆこうに近い場所にあり、江夏赤壁こうかせきへき劉琦りゅうきもる夏口かこうに近い場所にある。


 


 ◎曹操そうそう逡巡しゅんじゅん



 前述した『周瑜しゅうゆ伝』の記述によると、周瑜しゅうゆ軍と曹操そうそう軍は最初の交戦で周瑜しゅうゆ軍が勝利し、曹操そうそう軍は撤退して長江ちょうこう北岸に陣取ったという。


 この最初の交戦が具体的にどのようなものであったのか、『周瑜しゅうゆ伝』以外にその記述がないため、よくわからない。ただ、ここで曹操そうそうの進行は止まったようだ。


 しかし、曹操そうそうの進行が止まったのは、最初の交戦云々よりも、周瑜しゅうゆ軍の存在そのものが大きかったのではないか。曹操そうそうからすれば予想していなかった軍隊が突然三万もいてきたことになる。この三万で止まるのだから、赤壁せきへきの時の曹操そうそう軍は数十万という途方も無い大軍ではなく、やはり数万程度だったのだろう。劉備りゅうび劉琦りゅうき軍と合わせれば五万の軍となる。曹操そうそう軍が数万の兵力ならばおいそれと攻撃できない戦力差となる。


 また、この時の曹操そうそう陣営の船は、軍船もあっただろうが、急ごしらえのいかだを多くふくんだ状況であった。対して周瑜しゅうゆ軍は水上戦をメインにえて、水軍を充実させていた。これではたとえ曹操そうそう軍の方が数で勝ろうとも、長江ちょうこう対岸に陣取る周瑜しゅうゆ軍相手に気軽に攻撃を仕掛けることはできない。


 さらに加えて、『周瑜しゅうゆ伝』によれば、この時既に曹操そうそう陣営では疫病えきびょうが流行していたという。おそらく疲労に加えて、雲夢沢うんぼうたくの湿地帯を経由したことでより悪化したのだろう。湿地は病原菌の媒介ばいかいとなる蚊やダニが多く生息し、疫病えきびょうの温床になりやすかった。この時の曹操そうそう軍中の疫病えきびょうがどういったものかは不明だが、後に曹操そうそう孫権そんけんへの手紙の中で赤壁せきへきの撤退理由としてこの疫病えきびょうの流行を上げている。実際に赤壁せきへきの敗因が疫病かはさておき、流行していたのは間違いないだろう。


 曹操そうそう陣営の指揮官クラスの人物にもこの疫病えきびょうに感染したと思わしき人物がいる。曹純そうじゅん史渙しかん(本編、シカン、9話より登場)の二人だ。


 そもそも、この赤壁せきへきの戦いの記述は曹操そうそう方の武将の列伝にほとんど無く、あまり多くの武将が参戦していなかったのではないかと察せられるが、それでも参戦していたと思わしき人物はいる。


 まずは長坂ちょうはんの戦いでも先鋒せんぽうを務めた曹純そうじゅんである。彼はそのまま曹操そうそうとともに江陵こうりょうに入り、赤壁せきへきの敗退後、曹操とともにしょうまで帰還したことは『正史』にも記載がある。また、彼は曹操そうそうの親衛隊にして精鋭である虎豹騎こひょうきの指揮官でもあった。彼が赤壁せきへきまで曹操そうそうに従軍していた可能性は高いだろう。その曹純そうじゅん赤壁せきへきの二年後の210年に唐突に死去する。しょうに帰還してからの事跡も、その死因についても記録はない。


 史渙しかんは反董卓とうたく軍の時から曹操そうそうつかえる古参で、中領軍ちゅうりょうぐんを務めた。中領軍ちゅうりょうぐん曹操そうそう率いる中央軍の指揮官なので、彼も曹操そうそうに同行した可能性が高い。史渙しかんもこの戦いの翌年の209年に死去する。こちらも赤壁せきへきから死去までの間の事跡もその死因についても記録はない。


 赤壁せきへきの戦いは208年の12月に起きたとされるので、一月も経てば年が変わる。もしかしたら彼らは赤壁せきへきの地で疫病えきびょうに感染し、闘病とうびょう生活の後に死去したのかもしれない。


 本編ではこの二人を元にしたソウジュンもシカンも赤壁せきへき後のソウソウの撤退戦で活躍し、そのまま退場することとなった。それは彼(女)らの死因が赤壁せきへきにあったのではないかとの推測による。


 さて、予期せぬ周瑜しゅうゆ軍三万の参戦に、疫病えきびょうの流行と、この時点で既に曹操そうそう軍は苦境に立たされている。周瑜しゅうゆ参戦の時点で状況は大きく変わっているのであるから、曹操そうそうがこの時すべき判断は撤退だろう。だが、曹操そうそうは撤退しなかった。できなかった事情があったという方が正しいだろう。


 話は203年にさかのぼる。袁紹えんしょうの子である袁譚えんたん(本編未登場)・袁尚えんしょう(本編未登場)兄弟を追い出し、ぎょうを占領した曹操そうそうはある布告を出した。


 『将軍に命じて征討に赴かせる以上、ただ功績を賞し、罪科を罰しないのは国家の法ではない。よって、征討に赴いた将軍で戦いに敗れた者にはその罪を裁き、利益を失った者は官職爵位しゃくいを取り上げる』[武帝紀ぶていき]


 官渡かんとの戦いで袁紹えんしょうを破り、その子の袁譚えんたん袁尚えんしょうを撃破したことで安堵あんどや増長があったのだろう。曹操そうそうは戦争で敗けた将軍を罰する法を作った。それから5年、まさか強敵・袁氏えんしを滅ぼした後に自身にこの布告が適用される可能性が出るとは曹操そうそうも思いもしなかったであろう。曹操そうそうは自身が定めた法により撤退が出来ない状態となってしまった。

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