22

 ――――鱗毛人の発見から、九ヶ月の時が流れた。

 詩子は、未だ洞窟地下に広がる空間に暮らしている。ヒトが残したかも知れない痕跡、鱗毛人との関係、古来のヒトが辿ってきた道筋……調べたい事は山ほどあった。

 そして調べるほどに、ヒトについて知る事が出来た。本には乗っていない、誰も知らない人類史を読み解く時間は史上の喜びに満ちている。太陽がないため日付の感覚がなく、スマホも電池が切れたためカレンダーも見られなくなったが、詩子は何も気にせず研究に没頭していた。暗い環境にもすっかり慣れ、洞窟内の明るさ(どうやら岩の表面に生息している発光菌類によるものらしい)で細かなものも色々見えるようになっている。

 そんなある日の事。


「お久しぶりです、一二三教授」


 詩子の下に洋介が訪れた。

 洋介の傍には他にも自衛隊員が五人いる。彼等はもう、防護服を来ていない。如何にも『軍人』的な迷彩服を着込み、重たそうなリュックサックと銃を装備している。

 何人かの自衛隊員は詩子を見て驚いたような顔をしていた。詩子の記憶が確かなら、見覚えのない顔だ。新人なのだろうと思い、詩子はにこやかに微笑んでおく。

 勿論、洋介への挨拶も忘れない。


「久しぶりですね〜。何時ぶりですかね?」


「前回の調査から一月経っています。何時もの、定期調査です」


「あら、成程。では後ろの方々が、今回の研究者さんでしょうか〜?」


 詩子は尋ねながら、視線を洋介達自衛隊員の更に後ろへと向ける。

 そこには三人の男達がいた。いずれも五十代後半、或いはもっと歳を重ねた者達。着ている服は探検に向いたしっかりとした布地のもので、これから過酷な自然界に出向くのだと窺えた。

 詩子は知っている。彼等が菌類学者である事、そして何を調べようとしているのかも。


「ご苦労さまです。キノコの栽培方法の確立は、まだ掛かりそうですかね〜」


「……ええ、悔しい事ですが」


 詩子が尋ねると、最年長と思しき男性研究者はそう答える。

 彼等が研究しようとしているものは、この空洞内及び奥に生息するとあるキノコだ。何故研究するのかと言えば……それが、からである。

 詩子が発見し、自衛隊員達の手により持ち帰られた数々の生物……詩子が予想した通り、人類を救うヒントとなった。

 採取したキノコの一種が、特殊殺傷性菌類の活動を抑える成分を含んでいたのだ。培地での検証後、感染者達に与えたところ症状が出ていた者は劇的に回復、発症していなかった者達はそれを防ぐ事が出来た。血液検査から菌の数が減っていて、余程の(それこそ突発性の免疫不全のような)事がなければ発症の心配はないと思われる。

 かくして人類は未曾有の災厄を防ぐ事に成功した。

 ……と言いたいところだが、問題は山積みだ。

 まずキノコの成分はあくまでも菌の活性を抑える程度であり、完治には至らなかった点。厳密には菌を殺していたが、耐久状態の菌を駆逐する事は出来ず、「体調に影響がない」程度にするのが限界だった。このためキノコの摂取を止めると特殊殺傷性菌類の数が増加し、また発症してしまう。数日に一回で良いようだが、定期的な摂取が欠かせない。

 また完治出来ないという事は、周りに感染を広げるリスクは依然としてある。菌の数が少なくなればその分確率は下がるが、ゼロにはならない。よって感染者の隔離生活は続けられたまま。それに野放しの感染者がまだいるようで、素早い隔離措置にも関わらず感染者は今も増えている。何時感染爆発を引き起こすか、分かったものではない。

 よってキノコの増産が必要なのだが……これが極めて難しい。そのキノコの生息数は現時点で不明。「多分たくさんあるだろう」等と甘い見込みで野生種を採取すれば間違いなく絶滅する。人類はそうやって何百何千という生物種を滅ぼしているのだ。そしてこのキノコが絶滅すれば治療法は失われ、もう特殊殺傷性菌類を抑える術はない。

 ならばどうすべきか?

 答えは簡単だ。自然界の生産量で足りないなら、人の手で増やせば良い。つまり栽培を行えば良い……だが、これもまた困難だった。

 というのも様々な研究者がこのキノコの培養を試みたが、キノコが発見されてからのこの九ヶ月で成功例は未だなし。生息地の土を用いたり、気温や湿度を再現したりしても、菌糸が全く育たないのである。

 キノコ類ではこうした事象はよく見られる。マツタケのように特定の植物との共生が不可欠な場合や、なんらかの刺激(例えば落雷によりキノコの成長が促進されるという言い伝えがあり、これが事実である事は実験により証明されている)が生育に必要な場合があるからだ。ものによっては極めて繊細な条件を求められる事も多く、特定生物の亡骸や糞が必要だとか、山火事で無菌になった後でないと育たないとか、細かなものを挙げれば切りがない。

 更には生育の段階に応じた気温や土壌の柔らかさ、日照や湿度等々、条件の組み合わせは無限大だ。極めて限定的な条件で育つ種の場合、実験室だけで安定した生育条件を調べるのはほぼ不可能である。

 遺伝子を他の生物に組み込めば生産出来るのでは、という考えもあるが、遺伝子は所詮設計図。『何処』でその物質を作り出しているのか、を調べるには莫大な時間と手間が掛かる。そもそも薬効成分を作るのが本当にキノコなのか、もしかするとキノコと共にいる共生細菌や植物などではないか……例えばフグが持つ毒はフグ自身が作るのではなく、餌である小動物から得ている。この小動物も毒を作る能力はなく、毒の本当の生産者は小動物の餌に含まれるバクテリア類の一部だ……という可能性も否定出来ない。結局のところキノコ栽培こそが、現状一番確実かつ簡単な方法なのだ。栽培方法の確立は急務。

 そこで必要になるのが、野生種の調査である。野生種の生えている環境や生活環を調べる事で、必要な生育条件を絞っていく。そうして初めて栽培が可能となる。より多くの収量を得る方法や、安定した栽培技術の獲得はその次の話。

 彼等研究者は、野生のキノコの生育条件を調べるために此処を訪れたのだ。尤も、研究というのはいくら金を掛けても一年二年でぐんっと進むものではない。毎月この場所に訪れている彼等の研究も、まだまだ序の口といったところか。


「わたしも研究者の端くれですからね〜。ご苦労はお察しします〜」


「いえ……ところで、この空洞のガイドがいると聞いているのですが」


 年長の研究者は、辺りを見回しながら本題を切り出す。

 栽培には野生種の研究が不可欠。だが、これも簡単な話ではない。現在人類が把握しているキノコの生息地は、青木ヶ原樹海地下に広がるこの大空洞のみ。此処は明るさはこそあるとはいえ洞窟という環境であり、豊かな生態系に支えられる未知の生物など、危険は多い。

 生物相手なら武装した自衛隊員にも対処可能だが、無闇に戦わずに済むならそれに越した事はない。地形や気候相手だと武器など役基本立たずだ。

 必要なのは危険を回避するための知識。その知識に最も富んでいるのは、言うまでもなく『現地民』である。

 此度のような辺境地での調査には現地のガイドが必要だ。


「ウゴゥ? ゴゴオォーウ」


 そのガイドを担うのが、今この場に帰ってきた者――――鱗毛人一家の息子である。

 彼は今も此処で詩子と共に暮らしている。食べ物を持ってくるのは彼の役割で、今日はその手に二メートルはある大きな蛇……のようにも見える軟体動物を掴んでいた。

 初めて見ればその奇怪な外見に怯みもするだろうが、今の詩子にとっては見慣れた食材の一つに過ぎない。

 それを捌くのは詩子の『仕事』だ。


「おかえりなさい〜。今日も大物ね〜」


「ホ、ホオォーッ!」


 詩子が出迎えれば、彼は誇らしげに両腕を上げたポーズを取る。

 彼は声帯の都合、ヒトの言葉は発せられない。しかし言葉は理解したようで、今では簡単な会話ぐらいは出来る。詩子も彼の発する声でだけで、大体言いたい事は分かるようになっていた。


「帰ってきてすぐで悪いけど、この人達のガイドをお願い出来ますか〜?」


「ォガァ? ウーウゥー」


「……あー、今日は疲れたから、一旦休みたいらしいです。探索はちょっと後にしてください〜」


「了解です。疲れた状態で案内されるのも危険ですから、我々としてもその方が良いでしょう」


 詩子の提案を洋介は受け入れる。

 そうして一旦話が終わり、沈黙が流れた。詩子は別段静寂にあれこれ思わないが、どうせならばと一つ質問を投げ掛ける。

 それは鱗毛人に対する世論だ。


「ところで、世間の鱗毛人に対する評価はどんな感じですかね〜?」


「割れています。駆除すべきという意見はかなり鳴りを潜めていますが、大半は否定的な感情のようです。以前襲撃してきた陰謀論者達は海外の白人至上主義団体などと結び付き、テロ組織化する懸念もあります。ネット上では日本国への不法侵入者……つまり鱗毛人を逮捕しろ、という意見が最近出始めました」


「不法侵入ですかぁ。なんというか、起源的にはこちらの方が古そうなんですけどね〜」


 論理的な指摘をしてみるが、この言葉に意味などない事は詩子自身分かっている。それらの意見は自分の感情を正当化するためのものに過ぎない。端から論理的に筋が通っている必要はないのだ。

 そしてそうした、否定的意見が出てくるのは仕方ない。鱗毛人との接触が特殊殺傷性菌類の流行を引き起こし、少なくとも数名の人命を、何百何千という人々の自由を奪っているのだ。好感を抱くのは極めて難しい。

 ましてや鱗毛人は原始人同然の存在である。ヒトは本質的に自分達の所属するコミュニティを『優秀』と思う。鱗毛人は下等な原始人であり、優秀な人類(もっと言えば日本人)を脅かすなど許せない……口では平等だのなんだのを言ったところで、内心は所詮こんなものだ。

 大体にして、人類同士の差別すら解決出来ていないのが今の人類社会である。鱗毛人への差別意識をなくすには、果たして何百年掛かるだろうか。

 そう、問題解決には何百年と掛かる筈である。黒人が奴隷から一般市民へとなるのに、長い時間が必要だったように。

 ……しかし、方法もまたある。そして詩子は図らずもそれを実践していた。


「ところでその場合、この子ってどういう扱いなんですかね〜?」


 詩子はぽんぽんっと、自分のお腹を叩く。

 詩子の腹は大きく膨らんでいた。

 しかし肥満のそれではない。腹以外の部位は極めて健康的な、一般的な太さしかないのだから。腹部だけが異様に、九ヶ月前とは比較にならないほど膨れ上がっている。

 尤も、それを『異常』だと言う者はまずいない。女性である詩子には可能な行いであり、していてもなんら不思議はない年齢であるがために。

 つまりは、妊娠。

 詩子はその腹に子を宿していたのだ。そして父親にも心当たりはある。

 鱗毛人の息子――――今では旦那となった、彼だ。彼が毎日食べ物を取ってきてくれるのも、自分の『家族』だと思っているからなのだろう。今になって思い返せば、彼は随分前から『アプローチ』していた。あの時の自分は全く気付いてなくて、思わず詩子はくすりと笑いを漏らす。


「……念のため確認ですが、本当に彼の、鱗毛人との間の子なのですか?」


「ええ、他に心当たりはありませんし。逆に彼でしたら心当たりは山ほど。なんやかんやあれから毎日やってましたからね〜。今でもそれなりの頻度で」


「教授……もう少しデリカシーをですね」


「あら、これは失礼」


 口許を手で隠しながら、おほほ、と上品に笑ってみる。果たしてこれで下品さが薄れたかは、洋介達自衛隊員の歪んだ顔を見れば明白だろう。

 対して、後ろに控えていた研究者達は目を輝かせていた。


「し、失礼。本当に、鱗毛人との間に出来た子供なのですか……?」


「ええ、恐らく。遺伝子解析は行っていませんが、まず間違いありませんよ〜」


「信じられん。確かに種間雑種など珍しくもないが、ヒトと他の動物の例は……怪しげな『噂話』を除けば初めてだ」


「う、産まれた子供はどうされるのですか? まさか……」


 研究者の一人が、おどおどとした口振りで尋ねてくる。

 言葉は最後まで続かなかったが、何を懸念しているか察するのは容易い。


「最初は標本にしちゃおうかなーとか思っていたんですけどね〜」


 そして詩子は、自らの気持ちを言葉にする事に躊躇いを持たないタイプだ。

 あっけらかんと語られた言葉に、研究者達は顔を強張らせる。冗談だと思いたい気持ちがありありと表れていたが、詩子を知る者であれば、彼女がそれを平然とやれてしまう人間である事を理解するだろう。

 尤も、詩子はちゃんと「最初は」という前置きをしていた。その言葉通りに受け取れば、詩子の本心は読み取れる。


「最初は、という事は、今は違うのですか?」


 意図を汲んだのは洋介。彼の問いに詩子はこくりと頷く。


「ええ。なんかお腹が大きくなると、こう、胸からポカポカとしたものが込み上がりまして。今までわたし、愛しいとか可愛いとか感じた事なかったのですけど、多分これがそうなんですかね?」


 思わず饒舌に話してしまうほどに、詩子の心は舞い上がっている。

 語った通り、詩子はこれまで愛しさや可愛いと想う感情を抱いた事がない。どういったものが可愛いと言われるかの知識はあるが、それに共感した事は皆無だ。何分、ヒトへの知的好奇心しかなかったがために。

 子供に対しても同じで、これまで研究として様々な年齢の子供と接しているが、ろくに愛情を感じた事がない。子供の亡骸を見ても何一つ感じないし、とある部族が行う『間引き』――――育てられない赤子をシロアリに食わせるという行為にも、眉一つ動かさなかった。

 しかし今、お腹の中の子に誰かが危害を加えると言うのなら、我を忘れて止めに入るという確信が詩子にはある。

 妊娠一つでこうも変わるとは、我ながら少々単純かも知れないと詩子も思う。されど本心は本心。それを否定しても仕方ない。

 妊娠により、詩子は我が子を愛する気持ちを理解したのだ。

 ……とはいえ詩子という人間の本質が変わった訳でもなく。


「この子が大きくなるほど、新しい発見があります。もうワクワクが止まらない毎日ですよ〜。子育てなんてしたら、どうなっちゃいますかね?」


 ヒトを知りたいという衝動は相変わらずのものだ。

 だからこそ、不安よりも好奇心が勝る。

 


「……この赤子は、どう扱われるのでしょう。つまり人間なのか、それとも鱗毛人なのか」


 誰もが洋介のように疑問に思うだろう。ヒトではないものと、ヒトの間に出来た生き物は、どちらなのかと。


「……ヒトと鱗毛人という二つの種に関して言えば、今のまま変わらないだろう。一般的には自然状況下で交雑しないものは別種として扱う。産まれる子も、生物学的には『雑種』であり、どちらとも違う」


 マイヤーという生物学者が提示した種の定義。今では最も普遍的に用いられる分別法を用いれば、鱗毛人とヒトを同一視する理由はない。その子供を特別視する必要もない。


「ですが、人間から産まれたものは、人間として扱うべきです。でなければ差別の温床となります」


 しかし現代の世界を保ってきた秩序――――平等の理念を貫くためには、ヒトから産まれたものは『人間』でなければならない。人間以外のものが産まれる事を認めては、

 差別のない平等な社会を実現するためには、人間から産まれたものは人間とするしかない。それ以外はあってはならない。


「だが、それをしてはもう何処までが人間か分からない。人間とは、?」


 鱗毛人が類人猿であるゴリラやオランウータンと交雑出来たなら? 鱗毛人を介して、人間の範囲は広がっていく。人間の権利が自然に溶け込む。もう、人間の『特別さ』と『神秘』が失われてしまう。

 ヒトは曖昧ではいられない。間違っていようが理屈が破綻していようが、分からないよりも分かる事を選ぶ。統合失調症の患者が、命を狙われているという妄想に無理矢理にでも理屈を付けていくように。

 曖昧となった人類の枠組みを定めるために、議論が巻き起こるだろう。しかしそれは激しく、終わりの見えない議論だ。何故ならば全ての人間が議論の中心にいて、自分の立ち位置を決めるものなのだから。

 同じだと思っていた、不変だと思われた領域が変容する時、ヒトは様々な反応を起こす。順応、拒絶、曲解、盲信、忘却、固執……人類の枠を決める時にも、あらゆる反応が世界で見られるだろう。黒人が白人社会の仲間となった時よりも、大きく、歪に、過激に。それがもたらすものは破壊か進化か。成長か衰退か。

 どちらに転ぼうと、その過程でヒトの『本質』が窺い知れるのならば――――詩子にとっては喜ばしい。


「『人類』の定義。果たして、どうなるんでしょうね」


 愛おしげに腹を撫でながら、詩子だけは無邪気に微笑むのだった。

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人類定義 彼岸花 @Star_SIX_778

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