小児科病棟204号室前 男子トイレ

黒羽椿

小児科病棟204号室前 男子トイレ

 これはかなり昔の、俺がまだ右と左がどっちかすらわかっていなかった時の話だ。昔のことなんてほとんど忘れてしまったけれども、この時のことはよく覚えている。


 今でこそ俺は、風邪なんて引いても夕方になるまで気づかないほどだが、昔はことあるごとに体調を崩していた。インフルエンザは毎年かかるし、風邪をこじらせて病院に点滴を打ちにいくこともざらだった。ある時、病名は忘れちまったが手術が必要ってことで、とある病院の小児科病棟に入院することになった。


 最初こそ、病院の飯が不味いこと以外は俺にとって天国だった。ずっと寝ていても文句は言われないし、親がお見舞いと言っていつも買ってくれないカードゲームのパックを差し入れてくれた。それに、なんといっても同室の同い年くらいの子とも、すぐに仲良くなれたのが良かった。


 とはいえ、確かに手術は怖かった。だが、それよりも怖かったのは夜の病院の異様な静けさだ。夜の10時前くらいにはもう消灯の時間だった気がする。ろくに運動していない事といつもより早い就寝時間ということで、中々寝付けなかったんだ。そういう時にふと、すごく寂しくなる。


 隣にいつも寝ている両親がいない事。いかにもな雰囲気の病室。こつこつと聞こえる誰かの足音。幼い俺は夜中になるとよくゾンビ映画やホラー映画のシーンを想像して、それが怖くて眠れなくなることが多かった。そういうのって、昔は誰でもあったよな?


 当時、自分が見た映画でダントツに怖かったと覚えている映画は、口裂け女を題材にした映画だ。その映画は、無差別に子供たちが襲われ、かなりグロテスクな姿になってしまう映画だった。それと同じようにこの足音も、もしかしたらあの映画のような殺人鬼のものではないかと、そう考えてしまう。


 そうやって寝付けない夜を過ごしていき、ついに手術当日になった。手術といっても内容なんてほとんど覚えてない。ただ気付いたら寝ていて、目が覚めたら終わっていた。今までの俺の気苦労は何だったんだと、子供心に思ったよな。


 手術の痕が痛かったが、これでようやく帰れると思うと、少し嬉しかった。だが、傷の治りが遅く、同じ部屋の奴が次々と退院していく中、俺一人だけが残った。いや他にもいたかもしれないが、その時仲が良かった奴は全員いなくなった。


 歩いたり動いたりするとズキズキと痛むお腹と、ついには自分だけが残ってしまったという孤立感で寂しかった。しかし、問題の話はここからだ。相変わらず夜におびえながらも、少しづつ病院の雰囲気に慣れ始め、ようやく明日には退院できる、というところまできた。この時には、夜が怖くて眠れないことは少なくなっていた。


 確かその時はちょうど七夕のシーズンで、夕食にちらし寿司が出ていた。病院食にしてはいつもより美味しくて、まるで自分の退院を祝福しているように感じたのを覚えている。その時の俺は、そんなことより早く退院したい気持ちが大きかったけどな。


 そんな気分で布団に入ったが、明日には退院できるという喜びと、新しく買ってもらえるゲームができるということでワクワクしていた。そのせいか、前とは真逆の感情ではあるが中々寝付けなかった。


 そうやって布団でゴロゴロしていると、ふとトイレに行きたくなった。病院のトイレは窓が上の方にしかないせいで、昼頃だろうと太陽の光が差し込まない。それに、蛍光灯の一つがパチパチと安定しない光を放っていて、暗くはないが少し怖い。


 夜中の消灯後の院内は薄暗く、いつもなら目にも留めない非常口のピクトグラムなんかが爛々と光っていて、すごく不気味なんだ。いつもならそんな中を歩きたくないから、あらかじめ寝る前にはトイレに行っていた。だが、その日は明日のことを考えていて、寝る前にトイレへ行くことをすっかりと忘れていた。


 病院の雰囲気に慣れたとはいえ、やはり夜中の病院が不気味に感じることは変わらない。寝てしまえばいいと思ってしばらく我慢していたが、やはり寝付けなかった。


 数十分前の自分を少し恨みながら、ゆっくりと足音を立てないようにトイレへ向かった。その時は怒られると思っていたのか、少し余計なくらい足音に気を付けて歩いた。そうしてトイレの近くまできて、少しホッとしながらトイレに入った。


 そこにな、いたんだよ。包帯が頭のてっぺんから、見える範囲で腕や足まで包帯ぐるぐる巻きの、ものすごくでかい大男がいたんだ。


 そいつは、松葉杖で両肩を支えていた。入ってきた俺に一切視線向けず、ただ小便器の前でずっと立っている。人としての形はしているが、すべて病院服と包帯でそれ以外は一切見えない、そんな何かがいたんだ。顔は見えなかったが、俯いていたと思う。


 トイレはそこ以外、ナースが常駐しているところを抜けなくてはいけない。当時の俺は、消灯時間に起きていることを怒られると思っていた。今考えればよく分からない存在の近くで隙だらけになるのと、多少怒られても近くに大人がいるという安心感の方では、後者の方が良いのではないかと思う。しかしその時にはそこ以外選択肢はなかったのだ。


 流石に横で用を足す度胸は無く、個室に入る。後ろを通り過ぎる際も用を足している間も、その何かは物音ひとつ立てない。まるで、そこには何もいなかったのではと思うほどだが、トイレを流してドアを開けてみるとやはり大男はいる。


 不意に、自分のたくましい想像力が恐ろしいイメージを出す。ホラー映画でこうやって油断している時に驚かせてきたりするのが鉄板だ。だから、後ろを通り抜けるときに腕を掴まれたりするのではないのかと想像した。やはり、自分で作り出したものが一番怖いというもので、ようやくこの場から立ち去れるというのに、すでに泣きそうだった。


 そのイメージを振り払うように、手も洗わず全速力でトイレから出ていった。それなりに大きなカツカツといった音が響くが、もう俺には怒られるかもという考えは一切ない。なんなら、ナースさんに会いたいまであった。だが、現実には何事もなく病室に帰ってきた。しばらくの間心臓がバクバクとしていたが、大男が近寄ってくることもなく、いつの間にか眠っていた。


 目が覚めると、いつも通りのまずい病院食が用意されていた。昼頃には迎えが来て、同じく病院に併設されていたあまりおいしくないレストランでチャーハンを食べて帰った。病院の食べ物は病院内の売店以外基本的にまずい。それはあの夜の時と同じくらい覚えている。


 これでこの話は終わりだ。あの後、俺は新しいゲームを買ってもらって、そんなことはすっかりと忘れていた。だが、退院後に同じ病院を訪れたときに、不意にその時のことを思い出した。


 母親に話しても、母は変な夢だねといっていって真剣に取り合ってもらえなかった。今じゃ現実かどうかも曖昧だ。しかしな、やっぱりおかしいんだよ。


 当時の俺の夢は大体同じだ。例えば、車を運転する夢だとか、ゾンビがいっぱい出てくる夢だだとか、自分のトラウマである口裂け女なんかが大体で、しかも断片的でほとんど覚えていなかった。


 それをやけに具体的で、しかも映画やアニメでも覚えがない謎の包帯の大男がただ突っ立っている。夢にしては些か疑問点が多い。


 やっぱり幽霊か何かだったんだろうか。だってそうだろう? 当時大体120cm半ばあたりの身長だった俺が二人分くらいの大きさだったんだ。もちろん正確じゃないけどな。


 そんな異様な大男が小児科の病棟にいるかよ、いたら流石に覚えてるって。

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