めけめけ
飯田太朗
声が聞こえる
「せんせぇ、お願いですよぉ」
マドカワ社の与謝野明子くんがいやらしく頼んできた。胸を寄せて無駄にシナを作るあたり品がない。きっと大学時代に男どもにちやほやされてたクチに違いない。
「何度頼まれてもダメなものはダメだ」
僕は手を振って与謝野くんを追い払う。
「帰ってくれ。僕は暇じゃないんだ」
「取材費もはずみますからぁ」
「ダメだ」
「カキヨミでも公式連載しますからぁ」
「ダメだね」
「編集長連れてご挨拶に来ますぅ」
「ダメだって言ってるだろ」
僕はバシバシと机を叩いた。
「僕が小説を書く理由が分かるか? 僕は自分が楽しくなるために小説を書いているんだ。現状趣味で書いている小説が七本、仕事で書いている小説が三本。これ以上は増やせん!」
「趣味の方を一作取り下げて……」
「ダメだ。七対三、この比率は崩せない」
「短編でも構いませんからぁ」
「君しつこいぞ」
僕は彼女の背中を押して玄関へ向かった。
「帰りたまえ。君も暇じゃないだろう」
「そんなぁ」
と、玄関のドアを開けた時だった。
思えばこの時から運命の歯車は動き出していた。僕が彼……オにソースと出会ったのが今この時この瞬間だったからである。
「失礼。飯田先生」
ドアの外に立っていたのは顔を黒いマスクで覆い帽子を目深にかぶった、おそらく男性だった。男性にしては少し声が高くて、何だか星新一のショートショートに出てくる悪魔のような雰囲気があったが。
「たった今ベルを鳴らそうとしたのですが。ドアが開きまして」
「おやおや、お客人とは……」
僕は彼のことを見て、次に与謝野くんの顔を見た。
「回し者か」
「違いますよぅ」
「名刺か何かありましたら?」
僕は彼に向かって訊ねた。すると彼は少し困ったように首を傾げた。僕は鼻からため息をつくとこう続けた。
「生憎ですが、素性の分からない人と面会するわけには……もう会ってしまっていますが」
「その、名刺って何だい?」
急に砕けた口調になった彼に違和感を覚えながら僕は返した。
「自分の名前や所属、連絡先が書いてあるカード」
すると彼は合点がいったように頭を持ち上げるとすっと手を差し出してきた。そこには、そう、驚くべきことに、一枚のカードがあった。そしてさらに驚くべきことに、その無地のカードにゆっくりと、滲み出るように文字が浮かび上がってきたのだ。
「ALT・オイラにソース・Aksya アルゼンチン生まれの変態壁的鷹型宇宙人」
ちょっと何を言っているのか分からなかった。……だが、だが! 僕はこの時とても興奮していた! いいぞ。いいぞ。この感じ、この胸の高鳴り、このときめき!
「気に入った」
僕は彼を通した。
「いいだろう。話を聞こう」
「えぇー、本当ですかぁ」
与謝野くんがやったぁ、と飛び上がる。違う違う君じゃない。
*
そういうわけで僕はお気に入りのウェッジウッドのティーセットでそのアルゼンチン生まれの変態壁的鷹型宇宙人をもてなしたのだが、そこにはやっぱり与謝野くんも同席していた……というより、この紅茶は彼女が淹れた。いつの間に僕んちの勝手を知ったんだこいつ……。
「依頼があってね」
宇宙人は室内だというのに帽子もマスクも外さないどころかこの季節には似つかわしくない羽のついたコートも一切脱がずただただ僕んちの応接ソファに腰掛けていた。気に入った……! ますます気に入った……!
「まず断っておきたいのが」
しかし僕は努めて平静でいると共通の認識であろうことを述べた。
「僕は探偵じゃないんでね。小説家だ。困り事を持ち込まれても困る。その『依頼』が何だか知らないが、受けられるものと受けられないものとある」
すると宇宙人は一瞬間を置いて話し始めた。
「『そのミステリ、請け負います』」
びっくりした……僕は本当にびっくりした。
そのキャッチコピーは今度作る僕の名刺に刻もうと思っていた文言だったからだ。何故だ。何故知ってる? 僕はこのコピーのアイディア出しを紙で行ったからパソコンをハックして、なんて芸当ができるはずはない。あるとしたら僕のこの家に侵入するくらいしか手立てはないはずなのに……。
「飯田先生なら受けてくれると思っているよ」
「気に入った」
もう何度目になるか分からないセリフだった。
「話を聞こうじゃないか」
すると宇宙人は背筋を伸ばして話し始めた。
「まずオイラの趣味はお菓子作りなんだ」
「ああ」
「オイラの星は地球からうんと遠いんだけどね」
「ん? んん」
「先日聞こえてきたんだよ。『めけめけ』ってね」
全く要領を得ない……全く筋が通らない話だし宇宙人が何でお菓子作りが趣味なのか全く以って意味不明だが、しかし面白かった……面白かった!
「めけめけって聞こえちゃあ、困るんだよ。めけめけだ。何せあのめけめけ」
「めけめけとはどういう意味なんだ?」
「意味なんてないよ」
宇宙人はあっけらかんと答えた。
「意味がないから問題なんじゃないか」
「そ、そうか」
それなら「ねらねら」や「そてそて」あたりもダメそうだが……。
「で、オイラがパルメリータを作っていたらね……」
「パルメリータって何だ」
「源氏パイの元になったお菓子だよ」
こいつ源氏パイを知っているのか……ますます訳が分からん。だがそこがいい。
「どこからともなく音がしてね。ほら、君たちの言葉で言う……」
僕はしばし彼の言葉を待つ。
「ほら、バショー?」
何言ってんだこいつは。
「あ、『古池や蛙飛び込む水の音』?」
与謝野くんが手を打つ。すると宇宙人がその通りだと頷く。バショーって……松尾芭蕉か。
「そのバショーがしたんだよ。不思議だろう?」
「誰か俳句でも詠んだのか」
「ハイク? 何だいそれは」
源氏パイは知ってるくせに俳句は知らないのか……。
「何かが飛び込む音がしたってことですか?」
与謝野くんが訊ねると宇宙人が頷いた。
「その通りだよ」
さっきから宇宙人と意思疎通ができているこいつが怖い。
「おかしいじゃないか。オイラの巣だ。オイラの巣からバショーという音はしない」
「そういうものなんだな」
「その後にめけめけだ。声が聞こえたんだ。もう意味が分からないね」
「こちとら君の話に終始追いつけていないんだが……」
「そうかぁ。まぁ、オイラ、人との間に壁を作っちゃうタイプだからなぁ」
急にリアルな対人関係の悩みを吐くな。
まぁしかし、僕がこの宇宙人と仲良くなりたいと思った気持ちに偽りはなかった。この宇宙人と話をしてみたくて家に入れたし、そしてこうして話も聞いた。もはや他人とは言えないだろう。なので僕はこう告げた。せめて彼が対人関係の寂しさを感じずに済むように。
「こんにちは。壁より」
宇宙人が頭を持ち上げた。
「こんにちは。壁より」
返してくる。僕は訊ねた。
「お名前は? 壁より」
「ALT・オイラにソース・Aksya。壁より」
「どう呼べばいい? その名前は長い。壁より」
すると宇宙人は少し考えるように首を傾けてからつぶやいた。
「オにソース」
「オニソース?」
「違う。オにソース」
「オニソース」
「違う。『オイラにソース』だから『オにソース』」
こいつ「に」と「ニ」の違いを聞き分けてるとでもいうのか……?
まぁ、いい。ここはひとつ、宇宙人と親友になろう。
「よし、オにソース」
僕は続けた。
「その巣……? とやらは君の家だな? 案内してくれるか。そこに行ってみないと話は始まらない」
するとオにソースは頷いた。
「構わないけど、少し遠いよ。オイラは飛べるけど、君たちは?」
僕は与謝野くんと顔を見合わせた。
「飛べない」
「それは残念だ」
オにソースが首を横に振る。
「飛べないことには話にならない」
「あのっ、それってどの辺にあるのでしょうか?」
与謝野くんが身を乗り出す。
「飛行機でいけませんか?」
「飛行機」
「空を飛ぶ移動手段」
「移動手段?」
「ほら、空を進んで目的の場所に行く……」
「全く分からない」
「えーっと……ほら……空に一本、線みたいな雲が伸びてることありませんか……」
「ああ、飛行機雲か」
こいつ飛行機雲は知っていて飛行機は知らないのか……。
「それの本体です!」
「飛行機雲に本体があるのか」
「あります。あるんですそれが」
「変わった星だな、地球は」
正に異文化交流だな。
「とにかくそれに乗れば、空を飛んで移動できます!」
するとオにソースは再び考えるように俯くと、いきなりすっと腕を伸ばしてきた……僕はそう、この時、本当にこの一瞬、オにソースのコートから覗く手が羽毛に包まれているのを見た、気がした。そういえばこいつ、マスクの鼻の部分が妙に尖っているし、あれが嘴だとしたら本当に鷹型……。
「位置情報を送っておいたよ」
と、僕のスマホが奇妙に震えた。今まで感じたことのない強い震え方で、設定しているどのパターンにも当てはまらない震え方だった。
開くと画面が暗転していきなりGoogle MAPが開かれていた。そこは山のど真ん中で、いかなる道も繋がっていない場所だったが……しかし空き地があった。山の中に一点だけ、茶色い部分があったのだ。さながら山に開いた穴だった。ここがオにソースの、巣……?
「明日、いつでもいい。ここに来てくれるかい」
「民間の旅客機では行けなさそうだぞ。見たところF空港が近くにあるが、そこからどうやって行く?」
すると与謝野くんが手を打った。
「ヘリ! ヘリを使いましょう! そしたら任意の点で下ろしてくれる!」
「ヘリって君とんでもないお金するぞ」
「大丈夫です」
与謝野くんが微笑んだ。嫌だ。嫌な予感がする。
「取材費ってことでマドカワから出します! 私ワクワクしてきたぁ!」
ここでマドカワに借りを作るのは癪だ。非常に癪だ。癪だが……。
しかしオにソースの友情に応えるにはそれしかないように思えた。だから僕は頷いた。
「いいか与謝野くん。今回はオにソースに免じて特別に作品をマドカワで出すが今後同じようにいくとは思うなよ」
すると与謝野くんが「やったぁ!」と手を合わせた。
「すぐにヘリ、手配します!」
「頼むよ。オイラはめけめけされるのは嫌なんだ」
オにソースが姿勢を変えずつぶやいた。
「先に巣で待っている。明日の到着だね。楽しみにしているよ」
では、とオにソースが立ち上がった。どういうわけか彼は、去り際にこう告げた。
「おやすみ」
まだ寝る時間には大分早いのだが、と思いつつ僕は応えた。
「おやすみ。壁より」
この壁より、は、「君が作った壁みたいに身近でいたいですよ」という意味だ。
*
F空港に着いたのは翌午前十時。早い便だった。
僕は朝が苦手なのでこれにはえらく迷惑したが、与謝野くんは楽しそうだった。あのなぁ。夢の国に遊びに行くんじゃないんだぞ。
「せんせぇ、朝ごはん何にしますぅ? 私空港でサンドイッチ買ったんですけどぉ」
「僕はもう食べてきた。寝起きから十分以内に何かを口に入れないと起きたスイッチが入らない」
「先生って早起きなんですねぇ」
この馬鹿は何をどう取ったらそうなるんだ。
そんな訳で終始与謝野くんに苛立ちながら着いたF空港は地方だからかほとんど人がおらず実質上の貸切だった。ここからヘリで「巣」へ向かう。
「あいつあんなところで何食べて生きてるんだろうな」
僕が何とはなしにつぶやくと与謝野くんが返してきた。
「魚とか食べてそうですよね」
「鷹なのにか?」
「鷹だからこそ」
「お菓子作りが趣味の鷹だぞ」
「食べてみたいですね、お菓子」
作ってくれているといいな。そう僕はつぶやいてからため息をついた。
そんなわけでヘリに乗って一路「山の穴」に向かうと、意外にもそこはかなり開けた土地だった。陳腐な例えで申し訳ないが東京ドーム二、三個分はあるんじゃなかろうか。
果たして「巣」はそこにあった。
黒い球体……その黒さ、この世の全てを飲み込むかのよう。そしてその丸み、この世の全てをいなすかのよう。
「やあ」
球体の真下。
やはりコートを着た男がいた。マスクに帽子。昨日の姿のまま。
「めけめけはやはり聞こえるよ」
現状の報告をしてくれているらしい。
「めけめけ、めけめけ」
オにソースはそれなりに距離の離れた場所にいるはずなのに声がハッキリと聞こえてきた。僕はこちらの声が聞こえているか分からなかったがこうつぶやき返した。
「会いに行くか。そのめけめけとやらに」
*
球体の中にどう入るのか気になったが、オにソースの傍に行くと彼が一声「きぃん」と鳴いた。それを合図にして球体が降りてきた。
「大丈夫なのかこれ」
潰されるのではという懸念に支配された僕がつぶやくと、オにソースが告げた。
「ドアに喰われると思うことはあるかい」
「ない」
「じゃあ大丈夫だ」
果たしてその通りだった。
球体は僕たちの頭に接触すると僕たちに合わせてぐにゃりと変形し、そして僕たちを飲み込んだ。辺りが一度漆黒のカーテンに覆われたかのように暗くなって……次の瞬間、眩い光に包まれた。目を瞬いているとやがて光に慣れてきた。オにソースがつぶやいた。
「オイラは近視でね」
「鷹のくせにか」
「レーシックとか受けた方がいいかなぁ?」
「宇宙人が受けられるなら……」
と、ようやく辺りが見えてきた。真っ白な背景の中にひとつ。縦長の楕円形の、オブジェクトが立っていた。僕はそれを示した。
「あれは何だ」
「ブーンだよ」
「ブーンって何だ」
「何だ、飯田先生ブーンを知らないのか」
「知ってる奴いるのか」
「飯田先生なら知ってると思ったよ」
どういう意味か分かりかねていると、オにソースが右手側を示した。
「キッチンだ」
そこには正方形の穴があった。
「アイスクリームがあるよ」
「わあ」
与謝野くんが呑気な声を上げる。
「アイス! そろそろそんな季節ですねぇ」
「召し上がれ」
正方形の穴の中から三角錐の白い何かがゆっくりとやってきた。僕はちょっと躊躇ったが、しかしオにソースのもてなしには応えたくてそれを摘むと口の中に入れた。
その何と甘美なことか……! 口に入れた瞬間バニラの香りが一気にほどけて、舌の上にこれ以上ないほどなめらかで口当たりのいいクリームがとろけた。僕は思わず目を瞑ってしまった……。
「美味い」
僕の声だ。するとオにソースが応えた。
「趣味はお菓子作り」
さすが、とでも言おうか。
「それで、めけめけのことなんだけどさ、飯田先生」
オにソースの声が急に真面目になる。
「オイラ、本当に困っているんだよ」
「声にか」
「声もだけど、なくなるんだ」
「なくなるっていうのは?」
「ほら、殺風景な部屋だと思わないかい?」
「まぁ、一面真っ白だしな」
「違うよ。家具がない」
確かにないが……ないのがデフォルトじゃないのか。
「もうブーンと台所以外なくなっちゃったんだ」
「だから何なんださっきからブーンって」
「飯田先生も知ってるだろう?」
「何のことだかさっぱり……」
と、話していた時だった。
急に軽い印象の音が聞こえてきたかと思うと、右手側にあった四角い穴が消失した。途端にオにソースが叫んだ。
「あっ、オイラのキッチン!」
「何だ今のは」
「めけめけだよ」
オにソースはどういうわけか冷静だった。
「めけめけに台所を取られた」
「何もかも意味が分からないんだが……」
そう言いかけた時だった。
竹の筒に石ころを入れたような軽やかな音が聞こえたと思ったら、「ひえっ」という女性の声がして今度は与謝野くんが消えた。僕は驚いてオにソースを見た。
「今のもめけめけか?」
「そうだよ」
「じゃあ何か? めけめけは人も物も何もかも消せるとんでもない……」
その瞬間だった。
僕の目の前で、オにソースが、消えた。
「何だ今のは?」
僕は慌てて辺りを見渡した。
「オにソース!」
返事はない。
「オにソース! 何があった! オにソース!」
しかし彼の返事より先に。
声が聞こえた……それはさっきから聞こえる軽やかな、竹の筒に石ころを入れたような非常に軽い音だったが、しかしハッキリこう聞こえた。めけめけ、めけめけ……。
次の瞬間だった。
足場が急になくなったかと思うと、僕は真下に落ちていた。まずい。非常にまずい。僕は即座に反応した。
「『
穴の縁がどこかは分からなかったが、ひとまず僕はとにかくたくさんの僕を出すとお互いに手を繋いだ……人間ロープ!
穴から出られた僕が足を踏ん張ると、僕を掴んでいた僕が僕をしっかり捉えた。助かった……飲み込まれずに済んだ!
そのまま大勢の僕たちが僕を引っ張り上げた。僕は何とかよじ登った床の上で息をつくと分身たちを消した……僕は分身が作れる。
「何だったんだ今の……」
と、つぶやいた時に聞こえてきた。
ぴちょん——。
バショーだった。
*
「何が起きた……何が起きた……」
そもそも何もかもがイレギュラーすぎる。アルゼンチン生まれの鷹型宇宙人の巣で謎のめけめけという現象だぞ。それぞれ別個ならまだしもまとめて来られちゃ……。
「『
とりあえず五体、分身を作った。本体の僕を含め十二個の目で周囲を観察する。何か……何かないか……。
しかし、また。
めけめけ、めけめけ。
分身の一体が、消えた。
「攻撃されてる?」
僕は辺りを見渡した。ダメだ。一面真っ白だ。壁がどこにあるのかさえ分からない。
めけめけ。
また一体消えた。
くそっ、このままじゃなぶり殺しだ……何か、何か情報を……。
そして目に留まったのはあの楕円形だった。ブーン。オにソースがブーンと呼んでいたもの。
何だか分からないがあれは攻撃されていない。あれを頼るしかない。僕は全力疾走でブーンの元へ向かった。本当なら飛び乗って足元を確保したかったが、縦長の楕円に上るのは難儀だったのでひとまず片手で抱きつくようにしてつかまった。くそ、どうする……どうすればいい……?
しかし、この時だった。
僕がブーンに抱きついたまさにこの瞬間、僕の頭に、墨汁の一滴が沁みるように、ある風景が広がった。それは懐かしい景色だった。
裸の女たちが冬の夜空の下踊り狂う……。
僕が賜物を得た時の光景だった。
「まさか……」
僕はブーンを見た。
「まさか、そうなのか?」
僕の問いに、ブーンは沈黙を持って答えた。
直後、僕の頭の中にあるイメージが流れ込んできた。
美しい澤。透き通った水。そこから生まれ、やがて葉を上り、丘に出て、赴くままに虫を食い、そしてこの山の穴に来て、球体に飲み込まれて……ブーンの前に。
刹那、床が液体になり、僕は沈んでいった……という、イメージを見た。
「
僕は、そう、一斉に。
半径十メートルの範囲で出せる限りの分身を出した。辺り一帯を僕で埋め尽くした。僕をひしめかせた。僕でいっぱいにした。そうして並んだ僕の頭を、僕はブーンによじ登って観察した。来い……。来い。
竹筒に石ころを転がしたような。
軽い音がした。
今だ! 僕は僕たちを観察した。
頭十個分……ざっくり二メートル先。
僕が消えた。あそこにいる!
近くにいた僕が咄嗟に僕の消えた辺りを殴った。床を、強く、思いっきり、殴った。変化はすぐに起きた。
消えた僕のいたところから、オにソースが吐き出されたのだ。
「うわっ」
オにソースが咄嗟に宙で体制を整えた、と思ったら。
彼の着ていたコートが脱げ、帽子もマスクも落ち、彼本来の姿が明らかになった。
そこに浮かんでいたのは、とても美しく、凛々しく翼を広げた……一羽の、気高い、鷹だった。鋭い嘴が「きぃん」と叫んだ。
「オにソース!」
僕も叫んだ。
「君も持っているんだろう?」
僕の問いに鷹が答えた。
「持っているって?」
「賜物だ!」
「タマワリモノ?」
「普通の人間にできないようなことできるだろう? 僕のは『
「ああ、ブーンのことか」
鷹は……オにソースは何でもなさそうにつぶやいた。
「オイラもあるよ」
僕は再び叫んだ。
「何でもいい! 使ってくれ!」
「どうしてだい」
「どうしてもこうしてもあるか! めけめけに攻撃されてるんだよ! めけめけの居所をつかまないといけない。反撃せねば……僕の分身による探知もそう何度も通用しない!」
「でもめけめけの正体は分かったのかい」
すると、また。
軽やかな印象の音。めけめけだ。めけめけが来る……!
「正体は分かった! 能力も漠然とだが分かる……!」
オにソースはあっけらかんと訊ねてきた。
「どんなのだい」
「蛙だ! この部屋にはおそらく
僕は疲れてきた腕に力を込め直して続けた。
「おそらくだが奴の能力は『潜伏』だ。物の表面を水面に見立てて出たり潜ったりできる。さっきから床に潜っているんだ! そしてそれの応用で自分の内側を水面にして何でもかんでも飲み込んでいる……! 無限の食欲……! 飛んでいるからって安心するな! 蛙は舌が伸びるんだぞ!」
「ハハァ、なるほど。蛙ね……」
と、オにソースが納得したところで、僕はブーンの表面を見た。そこには薄く文字が浮かんでいた……「
「じゃあオイラもブーンを使うか。ブーンにはブーンを。行くゾォッ」
オにソースが翼を大きく広げた。
「『
オにソースの目が光った。
「何をしている?」
僕の問いにオにソースが答えた。
「見ているんだよ」
「見ている?」
「ああ。オイラの目は何でも見れるんだ。透視、望遠、顕微、熱感知、何でもできる!」
オにソースが床を凝視していた。僕の分身は邪魔じゃないのだろうか。引っ込めようとしたがしかしオにソースがハッキリと「邪魔じゃないよ」とつぶやいた。僕は静かに彼を見ていた。彼は続けた。
「オイラのブーンは身体強化。アルゼンチン生まれの鷹的身体強化さ。目、翼、爪、嘴。どれも好きなだけ強くなれる」
と、オにソースが一点を見据えた。静寂が駆け抜けた。
「きぃん」
オにソースが鳴いた……かと思えば、彼は一直線に僕の内の一体の元へ急降下し、その鋭い爪を振るった。僕は咄嗟にそこにいた僕を消したが、直後にオにソースは翼を羽ばたかせ再び宙に戻った。そして、その爪に、優しくつかまれていたものは……。
丸々と膨れた、青蛙……!
「助かったよ。飯田先生」
オにソースは満足げだった。
「同居人ができた」
*
「めけめけなんて言うから分からなかったんだ」
事後。
蛙を含め獲物を丸呑みにするタイプの生き物は攻撃されると身を軽くするために消化中の獲物を吐き出して逃走する。僕とオにソースに危害を加えられた蛙は大人しく自分が飲み込んだものを全部吐き出した……与謝野くんも含めて。
「普通蛙は『けろけろ』だろ。何だめけめけって……」
「オイラにはそう聞こえたよ」
「まぁ、犬や猫の鳴き声も江戸時代は『びよ』とか『ねう』とかって聞こえてたらしいからな」
めけめけ、か。近くはあるかもしれない。
「それより同居人ができて嬉しいよ」
オにソースは宙に浮かぶ水槽の中に入れた青蛙を愛おしそうに見つめた。まぁ、かわいいけどさ、蛙って。
「せんせぇ、すっごいべとべとなんですけどぉ」
外套で身を包んでいた上に人型に化けていたオにソースと比較し、生身のまま蛙に飲み込まれた与謝野くんはスライムを上からかぶったような有様だった。僕はオにソースに訊いた。
「シャワーは?」
「あるよ」
「洗濯機」
「ドラム式乾燥機付き」
「与謝野くん、しばらく待つから借りてこい」
「こんな一面真っ白な世界で裸になれって言うんですか?」
「オにソース何とかならんか」
「羽貸そうか?」
「もう!」
さて、そんなこんなで。
僕が体験した「めけめけ」という事件はこれで終わりだ。……いや、正確に言うと終わりじゃないな。だってほら、ある日僕が住んでいるマンションの屋上に。
「飯田さん、さすがにああいうのはちょっと……」
管理人。何事かと思って屋上に行ってみれば。
黒い球体……その黒さ、この世の全てを飲み込むかのよう。そしてその丸み、この世の全てをいなすかのよう。
「飯田先生」
中から外套の男が出てくる。
「キロピシの安否が気になるだろうと思って」
「何だキロピシって」
「めけめけ」
「かすってもないぞ」
「おかしいなぁ。地球人も犬や猫にかすってもない名前をつけてると思うけど……」
はぁ、と僕はため息をついた。それから傍で困惑している管理人さんに交渉した。
「いくらで黙っておいてくれます?」
了
めけめけ 飯田太朗 @taroIda
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