第9話

 絵を描きながら眠ってしまったくるみは、また夢を見ました。船の上でうたた寝していたようです。

 「起きろ、のんきに寝ていたら、沈んでしまうぞ」

 あの男の子の大きな声があたりいっぱいに響き渡ります。くるみは、びくっと体を起こしました。大きく頑丈な船が激しく揺れています。船のへりに駆け寄って海を見ると、激しく波打って、今にも船底を突き破ってきそうです。

 「この分じゃ、この船はだめだ」

 くるみは、船の下で荒れ狂う、腕たちをじっと見つめました。不思議と恐怖はわき起こりませんでした。

 「船がだめなら、飛べばいいんだよ」

 くるみは、くすくす笑いながら言いました。とても、愉快な気持ちだったのです。

 「飛ぶだって? どうやって」

 「翼だよ。見てて」

 くるみは、空を自由に飛び回る、翼を心に描きました。鳥たちが自由に空を飛びまわるのを見上げて、どんなに、その姿にあこがれたでしょう。鳥のように空を飛ぶ自分の姿を、何度となく想像したものです。くるみは、自由に、何にもとらわれずに飛んでいく、自らを心の底から描きました。くるみの心をくじく何物にも負けない自分を、思い描きました。それは、とても難しいことでした。現実のくるみは、負けているのです。佳織ちゃんの理不尽な暴力に、くるみをひっぱるお母さんの腕に。学校に行くという、みんなができていることが、くるみにはできないのです。弱い自分を、くるみは、いやと言うほど知っていました。けれど、くるみの心は、不思議と、自由でした。何にも負けない気がしました。どこにだって行けると、飛んで行けると、本気で信じ、心の筆で、力強い翼を描き切りました。

 すると、ふわっと、真っ白い、大きな翼が、くるみのパジャマを突きやぶって広がりました。激しく上下に動いて、風を起こします。

 「ほら! もう、飛んでいける」

 くるみがそう言って羽ばたいていくのと同時に、船は無残に壊れていきました。くるみのくるぶしを、荒れ狂う白い腕がつかんだかに思われましたが、その腕は、すっと消えて、海は、透きとおったすんだ青にさま変わりしました。

 「どこにだって行ける! あそこにある、白い雲まで飛ぼう。一度でいいから雲の上でおひるねしてみたい、ってずっと思ってたんだ」

 くるみは、自由に飛ぶ喜びに胸がいっぱいでした。翼は、くるみが思う通りに動きます。自由に、何にも妨げられず、青い空を飛ぶのは、なんという心地よさでしょう。くるみの顔には笑みがはち切れんばかりに広がり、心は軽く、思わず、くるりくるりと回り、体中で喜びを表現しようとするのでした。

 「あの雲まで、もうすぐ! もくもくしていて気持ちよさそう」

 くるみは、青い空に浮かぶ、ひときわ大きな雲を指さして、踊るように飛びました。雲は、よく見ると、何か白いものが集まってできているようでした。すぐそばまで近づくと、その白いものの正体が分かりました。細い白い腕だったのです。それは、海の波を作っていた腕と同じように見えますが、おどろおどろしさはなく、優しく、柔らかで、うっとりするような魅力がありました。

 くるみは、吸い寄せられるように、その雲に飛び乗りました。白い腕は、くるみの体を優しく包み込んでくれました。その心地よさは、何物にも代えられない最上のものに思われました。優しく、あたたかな腕がくるみを包み込み、くるみの心を優しくなで、くるみの心の傷を、とろりと溶かしてくれるような、そんな気がしました。くるみは、幸福で、うっとりとしました。幸福で、満ち足りて、もう何もいらない、という気持ちでした。くるみの意識はゆるやかに溶けていきます。目も、耳も、感覚も、溶けていき、ただ、白く、あたたかな、幸福だけが、くるみの感じるすべてでした。

 「…!」

 どこかで、かすかな声が聞こえます。

 くるみの心は、とろりと溶けて、いま感じる幸福以外、何もいらない、という気持ちでいましたが、その声は、そんなくるみの心をざわざわと揺さぶるのです。くるみは、耳をすましました。手放していた、感覚をかき集め、その必死な声を聞き取ろうとしました。

 「……!、……消えちまうぞ! 自分を投げるな! 考えろ!」

 「ああ、もう! 完全に飲み込まれちまうぞ! 考えろ! 考えることをやめるんじゃない!」

 声が耳に届きました。すると、くるみは、自分の今おかれている状況が、分かりました。白い雲とくるみの体は、いまや一体になっていて、どこからがくるみの体で、どこからが雲なのか、あいまいになってしまっているのです。くるみは、すっかりうろたえてしまいました。

 「どうしよう! どうしたらいいの?」

 くるみの目からは涙があふれました。涙は、くるみの顔を溶かして、雲に溶け込んでいきます。

 「泣いたって、何にもならない! 考え続けろ! お前は、誰だ? 何を感じる? 何を考える? 考えるんだ。考える続けることを休むんじゃない!」

 その声は、くるみの心に響きました。くるみは、考えました。

――私は、何を感じて、何を考えていたんだろう。佳織ちゃんに、首をしめられたとき。お母さんに痛いくらい腕をひっぱられたとき。ベランダから、街を見下ろして、飛んでいきたい、と思ったとき。翼が生え、飛んでいけたとき。あのときは、本当に自由だった! 何にも邪魔されず、自由に、思い通りに飛んでいけた! とってもとっても気持ちよかった! 私は、自分の体も、心も、誰の思い通りにもさせたくない。佳織ちゃんは、私の体を思い通りにした。心まで。もう二度と、あんな、あんなふうに、私をぐちゃぐちゃにしようとする人の、思い通りになんかならない。負けないんだ。私が、私の心を守るんだ。

 くるみが強く思うにつれ、雲に溶け込んでしまっていた、くるみの輪郭が浮かび上がってきました。くるみは、もっともっと心の奥底まで、深く、降りていきました。

――大好きな、ときどき怒ることもあるけど、私をずっと守ってくれてたお母さんのこと、私、すごくすごく怖くなった。だって、いやだって泣いて頼んでも、怖くて怖くてたまらない学校に連れて行こうとしたんだもん。本当に、震えて吐きそうになるくらい、いやだったのに、お母さんは、私のことなんて見てなかった。なんにも、見てなかった。あんな、お母さんは、私大っ嫌いだ。でも、「ごめんね」って謝ってくれたもん。きっと、あのときのお母さんは間違えたんだ。お母さんだって、間違うことはある。お母さんが腕をひっぱっても、いやだったら振り払えばいいんだ。私のこと、お母さんにだって思い通りになんてさせない。でも、お母さんのことは、ずっとずっと大好き。大好きだから、悲しかったんだ…。ちゃんと、それをお母さんに言おう。きっと、また泣いちゃうな。そしたら、私が、頭なでてあげるんだ。抱きしめてあげるんだ。

 くるみの目から、あたたかい、涙があふれました。涙は、きらきらと輝く、宝石のようなかたまりになって、青い空に消えていきました。心にも、あたたかいものが広がり、くるみは、もっと心の深いところまで、すうっと入っていきました。

――私、ずっと、心がぼうっとしていて、苦しくって、いっそ、死んでしまえたらって思っていた。ぜんぶ終わってしまって、もう、きっと苦しくないんだって…。でも、そんなこと、許さない。私は、私を、私の弱い心の好きにさせない。私は、飛んでいける。きっと、思い通りに、飛んでいける。だって、私は、私だもん。私だけが、私を好きにできる。生きることを、飛んでいくことを、私は、選ぶ。だから、ここから飛んでいける。飛ぶんだ。

 くるみの体を飲み込んでいた、雲が、あとかたもなく、あたりに消えていきました。くるみは、翼を大きく上下に動かしました。そして、青い空高く、飛んでいきました。どこまでも、どこまでも。

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くるみの翼 みのり @oozr_minori

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