第8話

 あたりがすっかり明るくなったころ、くるみは家路を急ぎ足で歩きだしました。お母さんが心配しているかもしれない、と思い至ったのです。マンションが近づくと、お母さんの声が聞こえてきました。くるみを呼ぶ声です。くるみは駆けだしました。お母さんはパジャマにガウンをひっかけた姿で、マンションの前を行ったり来たりしています。

 「お母さん!」

 くるみは、大きな声でお母さんを呼びました。声に振り返ったお母さんの顔は涙でぐちゃぐちゃでした。くるみの姿をみとめると、こわばった顔をゆるめ、くるみのもとに小走りで駆け寄り、子供みたいに泣きながら、くるみを力いっぱい抱きしめました。

 くるみが「痛い」と訴えても、抱きしめる腕をゆるめてはくれませんでした。くるみは、痛みにちょっと顔をしかめながらも、その腕のあたたかさを感じていました。そして、ふた月前にも、こうやって泣きじゃくるお母さんの腕に抱かれたことを、思い出していました。

 その日、くるみは学校に行ったふりをして、近所をうろうろと歩いていました。雲の形をひとつずつ確かめたり、大きな石をひっくり返してダンゴムシの動くさまを眺めたりと、以前は心動いたことをしてみても、何も感じない自分自身を見つけて、くるみの心はどんどん冷え込んでいくばかりでした。心を動かすものを何も見つけられず、ただぼんやり公園のベンチに座っていたくるみの耳に、お母さんの声が聞こえてきました。くるみは、びくりと体を縮込め、まず恐怖を感じました。学校に連れていかれてしまう、という恐怖です。そして、傷ついた心をこれ以上、お母さんに壊されはしないかという恐怖です。けれど、くるみを見つけ、駆け寄り、抱きしめてくれたお母さんの口から出た言葉は、くるみの思っていたようなものではありませんでした。

 「ごめんね、ごめんね。心細い思いをさせて、ごめんね。お家で休もうね。ほんとうにごめんね。帰ろうね」  

 お母さんは子供みたいに言葉をつっかえつっかえ、泣きじゃくりながら言いました。くるみは、その言葉を聞いて「学校に行かなくていいんだ」と、ただそのことに安心して、力強く抱きしめるお母さんのされるがままになっていました。

つい、ふた月前の出来事が、とおい昔のように、くるみには感じられていました。あのときは、まるで響かなかった、お母さんの思いのあたたかさが、体ごしにじんわりと伝わってくるようでした。くるみは、泣き止まないお母さんを、抱きしめてあげたい気持ちになりました。力いっぱい抱きしめられていて、抱きしめ返すことはできなかったので、代わりに、やっと離してくれたお母さんに向けて、心いっぱい顔じゅうで笑ってみせました。

 その日、くるみはたくさんの絵を描きました。すんだ色とりどりの空の下で行われる妖精の音楽会、そして、お母さんの絵です。お母さんの絵を描きながら、くるみには、あの腕の正体がだんだんと分かりかけてくるのでした。

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