第7話

 くるみは目を覚ましました。窓の外は、まだうす闇におおわれています。時計の針は、四時と五時のちょうど間です。こんなに早く起きたのは、初めてでした。ベッドから体を起こし、裸足の指を床に下ろしました。ひんやりと冷たく感じて、布団のなかに足をひっこめようと思いましたが、一呼吸おいて勢いよく布団から抜け出しました。まだ、お母さんは起きていないようです。くるみは、コート掛けから自分のコートを取ってはおり、たんすの一番下から分厚い靴下を取り出して履きました。そして、そうっと玄関を開け、外に飛び出しました。

 佳織ちゃんから首をしめられた恐怖で、くるみは学校に行こうとすると、足がすくんでしまうようになりました。がんばって学校までの道を歩いても、途中でお腹が痛くなって道端でうずくまってしまうこともありました。お母さんは、はじめはそんなくるみを心配して、「しばらくは休みましょうね」と言って家で優しくしてくれました。けれど、欠席の日が、一日、一日、と長くなるにつれ、様子が変わってきました。ぴりぴりと神経質になり、優しくしたり、突然怒ったりするようになりました。「学校に行きなさい!」と、強い力で腕をひっぱって無理に車に乗り込ませ、学校まで連れて行ったかと思うと、次の日は、「お腹が痛いなら、今日はお家でゆっくりしようね」と優しくなったりするのです。くるみは、びくびくとお母さんの様子をうかがうようになりました。

 くるみは、学校に行けないことがとても悪いことに感じられ、行かなくてはという思いだけ増すのに、体は行くことを拒否しているので、心と体がひきさかれるような苦しみを味わいました。お母さんに強い力でひっぱられて心と体が拒絶している学校に連れて行かれるのは、あまりにもつらいので、くるみは学校に行ったふりをするようになりました。そして、家の近所をうろうろ歩いて、冒険している「つもり」になろうとしました。「つもり」遊びは、くるみの得意なもののひとつで、代わり映えのしない住宅地は、くるみの遊びのなかでは、レンガ造りの大通りで、妖精が飛び交い、草木が話をし、通りを行き過ぎる人は魔女であったり、心優しいくるみの友達であったりするのでした。けれど、あの日から、この「つもり」がなかなかうまくできません。途方に暮れて、いつもの住宅地の冷え冷えと、よそよそしい感じに囲まれて、どこにも行き場がない、空虚な孤独を小さな心に抱えて、のろのろと歩くだけでした。公園を見つけると、草の上に寝転がり、アリの歩く姿をじっと見つめたり、空を見上げて雲の形をじっと眺めたりしました。そうしていると、虫を友達のように思っていたこと、空を親しいものに感じていたことを、どこか他人事のようにぼんやり思い出すのでした。

 くるみは、無性に「つもり」遊びがしたくなりました。あの毎日とは違う光景に出会える予感がしていました。何か、小さなひかりが胸に灯ったような気がしていたのです。

 しんと静かですがすがしい空気を体に感じながら、くるみは、目をつぶりました。それは、冷たく、すんだ空気です。くるみのなかのどろどろしたものを、すっと清めて、やわらげてくれるような心地がしました。くるみは、あるとき止まってしまったかに思われた、心の躍動を取り戻せそうな心地になりました。

 感じたことのない、しんと静まり返った空気です。こんな時間に一人で外に出たことはありません。初めての出来事は、いつもくるみをわくわくさせました。その、なつかしい胸の震えに、もう少しで手が届きそうです。過ぎていく、一瞬一瞬のときの清らかさ、におい、とうめいさに、くるみはただ身をゆだねました。まだ明けやらぬ朝の空気は、かたく閉じたくるみの心に、ちょうどよい新鮮さでした。心のすみずみまで、空気がしみわたっていくのを、くるみは、ゆっくりと、感じていました。心の底から、なつかしい、喜びがわき起こりました。

 わくわくが心にすっと広がり、くるみは涙がにじんだ目を開けました。おのずと、なくしてしまっていた想像の翼が広がり、くるみは、生き生きと目を輝かせ、もうひとつの目で世界を見るのです。

――こんな静かなところには、陽気な妖精もおすまししてるの。きれいな服を着てつんと上品ぶって歩いたりするの。そして、どこか大きな広場に集まって、歌の上手な妖精の音楽会が開かれるんだ。

 くるみの目には、着飾った妖精たちの行進が映ります。その後ろをそっとついて歩いて、(わたしも、その秘密の音楽会を見るんだ)と心を浮き立たせるのでした。

 夢中で「つもり」遊びをしていたくるみは、遠くのビルのすき間から日のひかりが差して、うす闇におおわれていた空に黄金のささやかな輝きが灯り、細い雲があわい紅色に染まった光景を見たとき、想像の世界が見せる幻を見ているものと思いました。現実であるとはとても信じられないほどの、たとえようもない美しさだったのです。ついさっきまでうす闇だった空は、いくつもの美しい色に彩られています。ひかりは、だんだんと輝きを増し、空の色を少しずつ変えていきました。くるみは、その色の移ろいをひとつももらさず、心にとらえておこうとするように、じっと見つめていました。そのまなじりから、涙がこぼれました。

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