優先席をめぐる戦い

ばーとる

本文

 7:50 津田沼 10両

 7:54 千葉 10両


 コンコースから階段を上がると、いつもの発車時刻表が見えた。代り映えがしない、日常の一場面。電車を待つ客でごった返すプラットホームも、いつもと同じ景色だ。僕の体は何も意識することなく、いつもの乗車口に並ぶ。奥のホームに、快速列車が入ってきた。こっちに乗る方が早く大学に着くが、新宿での乗換が面倒になるから避けている。これも、1年間通い続けて気づいたことだ。


 僕の平日の朝は、ここ最近はずっとこれの繰り返しである。悉くルーティンを守る機械のような毎日。だからこそ、普段と少しでもずれが生じると、そのずれはとてもくっきりと感じられる。


 そのずれというのは、今日の僕が松葉杖を突いているという事実だ。先日タクシーにはねられて、足を骨折してしまった。あの時に黒い服を着ていなかったらこんなことにはならなかったのにな。このようにずっと思っているが、後悔先に立たず。今の僕にできることは、これから夜出歩くときには明るい色の服を着て家を出ようと決意することくらいだ。


 下らない考えを頭の中で転がしていると、黄色の帯をまとった中央緩行線の列車がやってきた。降りる人の流れができ、潮目が変わったところで僕は乗り込む。ほどなくしてドアが閉まり、列車は動き出す。


「お兄さん」


 満員電車の会話のスパゲティをかいくぐり、女の子の声が耳に届いた。何かあったのだろうか?


「お兄さん!」


 今度はさっきよりもはっきりとその声が聞こえた。気になって声の主の方に顔を向けると、彼女もまたこちらを見ていた。セーラー服を着た女の子だ。中学生くらいだろうか。


何? 僕に用があるのか?


「この席、どうぞ」


 彼女は立ちあがり、席を空けた。彼女の拳には少しだけ力が入っている。こちらに向けた笑顔もなんだかぎこちない。


 どうして僕なんかに席を譲ったりするんだろう。僕はこうして問題なく立ち続けられている。老人ならともかく、僕は大学生だ。つり革さえつかんでいたら、片足でも余裕で新宿まで行ける。だから、席を譲られる理由なんてない。


「いいよ。座ってな」


 女の子は、僕から目を逸らす。


「いや、お兄さんの方が私よりも大変でしょうから」


 僕が遠慮したとでも思っているのだろうか。


 周囲の乗客が、ちらちらとこちらの様子をうかがっているのがわかった。いつもみたいにスマホに目を落としていればいいのに。そんなに珍しい光景でもないだろう。ほら、女の子も恥ずかしくなったのか下を向いてしまっている。


「僕は大丈夫だから。ありがとう」


「そうですか……」


 この後に言葉がいくつか続きそうな口の動きをしたが、それはすぐに止まり、閉じてしまった。女の子は再び席に腰を下ろす。立ち上がる前よりも心なしか肩が下がっているように見える。


「座ればいいのに」


 そんな言葉が聞こえた気がした。たぶん男の人の声だと思う。周りを見回してみる。しかし、誰が言ったのかはわからない。


 僕は別に困っていないのだから、他の人が座ればいい。女の子は、あそこに立っているご老人に声を掛ければよかったのだ。少し足を悪くした大学生ではなく、もっと労わるべき対象がいる。


 女の子は、スマホを触ることなくじっと床を見ていた。電車のがたんごとんという揺れに合わせて、小さく髪が揺れる。その姿が青菜に塩のような気がした。どうしてだろう。悪いことはしていないのに、なんだか罪悪感を感じる。


 いたたまれなくなって、僕は隣の車両に移ろうと考えた。


 すると、例のご老人がこちらに向かって歩いてくるではないか。いや、こちらではなく、女の子に向かってだ。


「お嬢ちゃん。悪いんだけど、わしゃ腰が悪くてな。ちぃと席を譲ってはくれないかね?」


 僕は目を疑った。お歳を召された方ではあるものの、さっきまで問題なく立っていた人が、席を譲ってくれるように頼んだのだ。しかも、腰が悪いのは嘘だろう。ここまですたすたと健康そのものの歩き方をしていた。


 女の子はご老人に席を譲った。さっきは僕に譲ろうとしていたのだから、譲ること自体は何とも思っていないだろう。それなのに、彼女の表情は明るくなった。


「もちろんです」


「悪いね。ありがとうな」


「いいえ、とんでもないです!」


 ご老人もにこりと笑った。


「お嬢ちゃんは優しい心の持ち主なんじゃな。その立派な心、これからも大事にするんじゃよ」


 言い切ると、ご老人は今度はこちらを一瞥した。何かを訴えるような視線が、僕を見る。


 もしかしたら、僕は何かが致命的にわかっていないのかもしれない。二人の表情の意味を、僕は新宿駅で下車するまでに解釈することができなかった。


 でも、一つだけ心に決めたことがある。次回席を譲られたときは、素直に譲られてみよう。そうしたら、女の子とご老人の気持ちが少しはわかるようになるかもしれない。


 僕は松葉杖を突いて、山手線のホームを目指した。

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