橘姫異聞

ごもじもじ/呉文子

橘姫異聞

 たちばなの姫、と申し上げれば、ご存知の方もおられましょう。都の口さがない方々が、一時ひとときかまびすしく噂しておられました。曰く、橘の姫は坂東ばんどう下向げこうの折に気が触れて、鬼となられた、と。その噂を聞きつけ、都人みやこびとというものは心ない事を申すものだといきどおったものですが、反面、ああ来るべきものが来た、とも思うたのでございます。


 私は、かつて橘の姫に近くお仕えをしておりました。男の私が、しかも卑しい出自の私が、いかようにして姫の側仕そばづかえをするようになったのか。それには、少し私の話もせねばなりますまい。


 私は都の生まれではありませぬ。郷里さとは遠く離れた名もなき村にございます。私はその村で、日がな一日、虫取ばかりしておりました。さよう、あのわらべとりこになる、虫取にございます。虫のこととなると目の色を変え、大きゅうなっても、野良の仕事を放り出すこともしばしば。よくもまあ、親が私をつまみ出さなかったものだとお思いではないでしょうか。そこはそれ、捕った虫を領主様のお屋敷に届けると、なにがしかの褒美をもらえたのでございます。玉虫や黄金虫こがねむしなど、うるわしとされる虫が捕れた折には、ことに喜ばれたものでした。はて、領主様も虫がお好きなのであろうか、と呑気に構えておりました。


 しかれども、いやはや、人の運命さだめというものは、不可思議ふかしぎなものにございますなあ。ある日、領主様は私たちの住まうあばら家に直々じきじきにお越しになり、こやつを都に連れて参る、と仰せになりました。なんでも、領主様のさらに上のお方、この荘園のまことあるじたちばな様が私を召し抱えるとの御達おたっしでした。これまで献上いたしておりました虫が、一体いずこへと参っていたのかを私が悟ったのは、その時でした。


 たちばな様のお屋敷でのお仕えは、これまでの私のありようと同じものでした。すなわち、虫を捕らえ、それを献上つかまつればよいのです。されど、都暮らしの中ではこれが実に骨折りでした。かがり火に集うものを捕らえたり、土器かわらけに食いさしを入れ土に埋めたり。虫をとらまえるために、様々苦心したものです。しかし、愚かな私のこと、どなたが、いかな目論見もくろみで虫を集めておられるのか、という問いは、露ほども頭に登りませんでした。


 ある時、私は庭に植わっているお花の上に、虫を見つけました。里では、しじみ、と呼ばれている可憐な川平子ちょうです。見栄えがよいのでおそらく喜ばれるだろう、この近さならば十二分に手でも捕れる、と見当をつけました。そろり、そろりと近づき、見事、たなごろの内に収めた、その刹那。


 後ろから、捕れたのか、と、声をかけられたのです。声音はまだあどけない童女のようで、上からの物言いに業腹ごうはらではありました。されど、お付きの女官でもあろう、と思い、捕れましてごさいます、ご覧になりますか、と丁寧に申し上げ、振り向きました。


 その時の私の驚きたるや。馬鹿おこなこととお笑いになるやもしれませぬが、私はその時、天人てんにんが顕現なさったかとすら思ったのでございます。ああもうるわしき御方は、あとにも先にもついぞ見たことがございませぬ。装束は簡素なうちぎ。しかれども、ただようみやびな気配は女官たちとまるで異なるもので、まごうかたなく、このお方がたちばなの姫様なのだ、と思いました。


 私はしばし平伏することも忘れ、姫の前に佇んでおりました。姫が直々じきじきに下賎の者にお声をかける、ましてや御姿おすがたを見せるなぞ、ありうべからざることにございます。そんな私をまるで意にも介さず、姫はくすくすと笑っておられました。


「虫取の名手とは、さて目が三つも四つもあろうか、と思うておったが」


 おからかいになったことよりも、かような高貴な御方が、私を存じておられたことで、顔が急にかっと熱くなりました。気の利いたお返事など到底申し上げられず、ただたなごろの中にあった川平子ちょうをつまんで差し出すだけで、精一杯でした。

 姫は、その細い指で川平子ちょうをお受け取りになりました。あたりに馥郁ふくいくたる香が漂うのを、白き御手みてがかすかに私の指に触れたのを、夢うつつのように思うておりました。


 はねを広げたり、に透かしたり、姫はそれはそれは仔細に眺めておいででした。私もまた、川平子ちょうの様子を伺うふりをしながら、姫を盗み見ました。ぬばたまの闇より黒きそのおぐしが、さらさらとこぼるる様を。気高きそのかんばせを。幾年いくとせた今となっても、まるで昨日のように思われます。


 ひとしきりご覧になった、と思われた頃。姫はたいそう愛おしそうに―――川平子ちょうを、ぶちり、とお潰しになったのでございます。私がこの世の内で見た中で、最もうるわしい、透き通った笑顔でした。


 私は私で、せっかく捕った川平子ちょうを無惨に潰されてしまったことよりも、姫の指、あの白き御手みてが汚れてしまいましたことを、ただひたすらに、心苦しゅう思うておりました。あの時に、私の運命さだめもまた、決まったのでございましょうなあ。


 私はそれから、いっそう念を入れて、虫取に励みました。集められた虫たちはすぐさま、姫があのうるわしい笑顔であやめられたのでございます。蟷螂かまきりの首がもがれ、蝗虫ばったの足は折られ、蜻蛉とんぼは背から割かれたものです。ほふった虫を集めたならば、いくつも塚ができたやもしれませぬな。私は極楽には到底行けまい、と覚悟を決めたものです。されど、なんの、姫のあの笑みがもたらされると思えば、いかな恐ろしきものがありましょうや。私は果報者にございました。


 今にして思えば、姫は、いつくしみといえばかような交わりしかもてぬ御方であったのでございましょうなあ。当時の私も、それはおぼろげながら感じておりました。ああ、姫はまごうかたなく、虫をでておられるのだ、と。はは、かような事を申し上げては驚きあきれられるかと存じますが、私はおのずと、姫が御手おんてずからあやめらるる虫を―――うらやましう思うようになったのでございます。


 朝餉あさげ夕餉ゆうげで出入りする炊屋かしきやでは、ぽつりぽつりと姫の噂が人の口のに上ることもございました。私はその度に耳をそばだてて聞いておりました。ご幼少のみぎりより、おん母君にうとんじられていたこと。お付きの女官に時折きつい折檻をすること。そのため、これまで数多あまたの女官がおいとまをもらってきたこと。やんごとなきお生まれにもかかわらず、姫のお住まいの辺りにあまり女人にょにんの気配がせぬことに、合点がいきました。なればこそ、私がお側近くまではべることができたのでございます。そのようなお寂しい身上ならば、さらにいっそう、真心こめてお仕えせねば、と思いを新たにしたものでした。


 たちばなのお屋敷には、幾年いくとせもご厄介になり申した。せわしなく―――そして心楽しき日々にございました。春夏秋は無論、冬は冬とて、蓑虫みのむしを探したり、木の皮をはがして瓢虫てんとうむしやらを集めるのでございます。明けても暮れても、いかようにして虫を捕らえるかばかり算段しておりました。見事虫を捕らえた折には、姫に一刻も早くお見せしたいと気がはやったものです。あのうるわしき笑みを見ることがかなった折には、甘やかに胸の内が痛みました。あの日々は、今でも夢に見ることがございます。


 姫が坂東の国司様の元へととつがれる、という話を聞きつけたのも、炊屋におった折のことでした。私は仰天いたしました。虫を捕って姫に捧ぐこの暮らしが、永劫続くと信じておりましたため。しばし、お屋敷の中がばたばたと慌ただしくなり申した。秋冬をかけて支度をし、春先、雪どけの頃にお発ちになるとのことでした。


 私は姫の覚えめでたく、天晴あっぱれ忠義のこととて、最後のご挨拶を申し上げてよろしい、というお達しをいただきました。


 姫にお目にかかるのは、御簾みすへだてられた改まった場でございました。もう今生こんじょうの別れになるのだ、ということが身に染みてわかり申した。


 その場で平伏しておりましたところ、しばらくして衣擦きぬずれの音が聞こえて参りました。姫の香があたりに立ち込め、私は姫が御簾を隔てた向こうにおいでになったことを知ったのです。


 少々身を起こし、こたびは誠に、と口上を申し上げかけて、私は言葉を失いました。姫がすだれを掲げて、御自おんみずからお出ましになったのでございます。あまりのことにあっけにとられ、姫が袖口で、何か長いものをお持ちになっておられるのは見てとれたのですが、それが何であるのか咄嗟にはわかりかねました。ああ、焼け火箸である―――と思うたのは、私の頬にぴたりと当てられた時にございました。


 さよう、その真っ赤な火箸を、姫は私の頬にお当てになったのでございます。


 姫ははじけるようにお笑いになりました。明るい声音こわねで。なんという笑顔でありましたでしょうか。かように神々しく、うるわしいものが、私に向けられている。


 私は我知らず涙をこぼしておりました。あまりの有難ありがたさに。姫が御手おんてずから、私に傷をお与えくださったことに。痛みと熱は耐え難く、叫びそうになるほどでございましたが、姫から目を離すことなどできましょうか。どうかひとときでもなごう、この時が続きますようにとひたすら念じておりました。


 さてもさても、この頬のあとは、その折のものにございます。いっそあやめていただけたり、火箸でまなこをえぐりたもうても、ようございましたが―――いや、いや、この傷とて、大変な果報にござりまする。朝な夕な、私はこの傷に触れる度に、姫を思い返すのでございます。


 姫が東にお下りになられ、しばし経った頃、都で噂が流れました。姫が鬼になられたと。曰く、幼子おさなごの肉を喰らい、孕み女の腹を割き、いかな坂東武者とて手を焼いておる、と。皆口々に、そしてひそやかに、やれ宿世すくせの因縁であろう、祖先のたたりじゃ、と申したものですが、そうでないことは私が一番よく存じておりました。姫のあの現世うつしよの業が、そこまでお連れしたのでもありましょう。


 ただ、姫のお姿が鬼と変わり果てられたとは、私にはどうにも思えぬのです。姫は今も、変わらぬあのお姿のまま、荒野あれのでただおひとり彷徨さまよわれておられるような気がしてならぬのです。


 ああ、私のこの頭でありますか。形ばかりの出家ではございますが、姫の御心おこころが安らかとなりますようにと、日々、御仏みほとけにお祈りしているのでございます。されど、近頃は矢も盾もたまらず、胸の内が騒ぐのです。ああ、坂東に行きたい。早く姫のお側に参りたい、と。念仏とて満足に唱えられず、煩悩にまみれたこの身にございます。姫を極楽にお連れすることは叶わねど、ともに地獄に参ることならできましょう。都を立つ前に、お会いできたのが貴方でよかった。


 私と―――橘の姫の道行きを、どうぞお祈り下され。そしてお伝え下され。私は幸せにございました、と。


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