第14話
ポアブル、というのは自宅から歩いて十分ほどのところにある、小さな洋菓子店だった。
閑静な住宅街に、とても古い小さな八百屋のような建物で、なぜこんなところに洋菓子店があるのか不思議だった。
この世界のわたしが小さい頃から通っていたらしく、小学生の頃はバースデーケーキもここで買っていたらしい。
このポアブルという店の店主の娘と、母は小学生の頃の友達で、今でもたまに話すらしい。
店は七十代後半の店主が、妻が亡くなったあとはほぼ一人で切り盛りしており、店番だけでも誰か代わってほしい、とのことだった。
初めてポアブルを訪れた日、わたしは母がここならいいと言った理由がよくわかった。少し破れている看板、古くて狭い店内。くすんだガラスのショーケースに、ケーキがそれぞれ数個ずつ並べられている。慣れた店でなければまず入る気にはならないだろう。ということは攻撃的な客や、強盗などに遭遇するリスクは少ない。
その分、時給も最低賃金ピッタリの底値だったが、わたしは暇つぶしができればそれでいいので、そこは問題なかった。
店主の佐伯力さんというおじいさんは、ショーケースと壁の間で、潜水艦のように身をひそめていた。
「あの、今日からアルバイトに来た菅原美幸です」
「おお、おお、来てくれたか」
顔中にしわがよった細身のおじいさんで、立つと腰が曲がっていた。わたしを見ると笑顔になって、嫌な雰囲気はなかった。
佐伯さんはまず店内を案内してくれた。ショーケースが並ぶ売り場の奥は、お菓子を作るための調理場。ここも狭かった。四畳ほどだろうか。砂糖類の甘い匂いが心地よい。
そんな調理場を奥に抜け、扉を一つ開けると、ロッカールームがあった。二つの学校でもよく見る縦長ロッカーと、一人しか立てないくらいの狭いスペース。
「わし、ここ使わんから。着いたらここで着替えて」
そう言って、佐伯さんは茶色のエプロンを渡してくれた。制服は特に決まっていない、とは事前に聞いていたので、制服から普段あまり着なくなった白地のシャツとスカートへ着替え、エプロンをつけた。少しはバイトの女子高生っぽくなったか、と思ったが鏡がないのでなんとも言えなかった。
「今日は、一緒に店番しよか」
「はい。お願いします」
こうして、佐伯さんと二人で店番をした。
わたしは立っているものかと思ったが、佐伯さんが丸椅子を用意してくれたので、座ってお客さんを待った。
お客さんはほとんど来なかった。午後四時から閉店時間の午後八時までいて、一時間に二、三人だった。すべてのお客さんが佐伯さんとは顔見知りらしく、「あら、新しいバイトの子?」と毎回聞かれた。おかげで多少ミスをしても笑って済ませてくれた。
お客さんがいない時間も使って、レジの使い方、商品の名前と価格、箱詰めの仕方、予約注文の取り方など、いろいろなことを佐伯さんから教わった。
佐伯さんは声がしゃがれていて、話し方も動作もゆっくりで、歩く速度はわたしの三分の一くらいなのだが、やるべきことはしっかりと教えてくれた。
おかげで、何人か注文をこなしたら、仕事の内容はほとんど覚えられた。わかってはいたが、名門進学校での勉強ほど難しい行為ではないのだ、高校生のアルバイトは。
初日を終え、着替えたあと、佐伯さんが売れ残りのクッキーを一袋くれた。
「これ、持って帰りな」
「えっ、売り物ですよね」
「いいの、もう捨てないといかんやつだから。給料少ないしサービスしないとなあ。もっといる?」
一人では食べきれないので、「いや、一つでいいです」と返事をした。帰って母にクッキーを渡しながらその話をしたら、「もっともらってきてよ」と笑われた。
* * *
木曜日にはじめてポアブルでのバイトをして、次の金曜日は、佐伯さんは店の売り場に出ず、奥にある二畳一間のスペースへ入った。
「わし、ここにおるから、わからんことあったら呼んで」
まだ不安な部分もあったが、ショーケースの後ろはすれ違いができないほど狭く、二人いたらむしろやりにくかったので、わたしは「わかりました」と言った。
この日は雨が振っていて、髪がじとっと重くなっているのが不快だった。お客さん少ないだろうな、ここでも結局暇なのか……と思いながら、ロッカールームの扉を開けた。
「あ」
誰もいないと思っていた部屋の中に、一人の男子がいた。
同い年くらいだろうか。短髪で、背は男子にしては少し低く、わたしと同じくらいだった。
それは一目でわかったのだが、問題は、その男子がまさに着替え中で、パンツ一枚だったことだ。
雨で濡れたのだろうか、タオルで体を拭いているところだった。
細身だがものすごく筋肉質で、体中がはち切れんばかりにごつごつとしていて、腹筋は六つに割れていた。こんなにマッチョな男の人を、ほぼ裸の状態で見るのは初めてだったから、わたしは思わず見とれてしまった。
ボクサーパンツの股間は、ぐい、とソフトボールでも入っているかのように膨張している。
父親とお風呂に入るという経験もないわたしは、男子の体ってこんなにすごいんだ、と考えると同時に、とても恥ずかしい気持ちになって、体が熱くなってきた。
「ご、ごめんなさい!」
正気に戻り、慌てて扉を閉めた。
数十秒後、勢いよく扉を開けて男子が出てきた。今度はエプロンと帽子をして、菓子職人の出で立ちだった。
「さっきはごめん! バイトの子来るって聞いてたけど、まさか女の子だとは思わなくて」
「こ、こっちもごめんなさい、他に誰かいるとは知らなくて」
「あー、マジか。おいじーちゃん、バイトの子、女の子なのかよ! んなことは先に言えよ」
奥にいる佐伯さんへ抗議するも、ははは、と笑ってまともに相手をしていなかった。
「俺、佐伯亮太。あの店長の孫で、金曜と土曜だけここでお菓子作りの手伝いのバイトしてる。ロッカーの部屋、鍵あるから、次からは鍵してね。俺も間違って開けちゃうかもしれないから」
「は、はい」
亮太は早口でそう言って、調理場に向かった。
毒親育ちのわたしが送りたかった、そうひどくない高校生活。 瀬々良木 清 @seseragipure
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