綺麗なのは
たちばな
綺麗なのは
「はー……」
暗い部屋の真ん中で、千晴は大きなため息をついた。ここ数日、カーテンも窓も開けていない。エアコンの風に吹かれて、机の上に放っておいていたゴミが落ちた。
(しんど……体、痛い……。でも動きたくねーな……)
いつから床に寝転んでいるのかも、覚えていない。とにかく千晴は何もする気が起きなかった。カーテンを開けることも、大学の課題も、誰かにメッセージを送ることも、したくなかった。
(……あー……俺、もうこのまま死ぬのかな)
暗い部屋にずっといると、思考も暗くなるらしい。元々千晴は楽観的な方ではないが、さらに後ろ向きな気持ちになっていた。
(良いや、このまま死んでも……誰も困んねーし……)
ぐう、と腹が鳴る。最後にまともな食事を取ったのはいつだったか。千晴は床に転がったまま、そっと目を閉じた。
その時、だった。
ヴ、と短い音を立ててスマホが鳴った。
「は……? 誰」
手を伸ばしてスマホを取る。スマホの光の眩しさに、千晴は目を細めた。
表示される名前は『渋谷』。メッセージらしい。
「渋谷……?」
その二文字に、僅かに目を開く。
渋谷は千晴の恋人だ。千晴が大学をずっと休んでいるせいで、最近は全く会っていない。
通知を知らせている緑のアプリを、とんとタップする。急にメッセージが来るから何かと思ったが、至って簡素なメッセージだった。
『千晴。今何してる?』
「ふ、それだけ?」
軽く笑ってメッセージを返す。
『家で寝てる。』
すぐ既読がついた。
『そっち行って良いか?』
『OK』と、適当に猫のスタンプを返した。すると玄関のドアが開く。
「え?」
「うわ、お前……いつからそのままなんだ」
千晴は体を起こした。散らばるゴミを拾いながら、男が入ってくる。
「え、あれ? 渋谷? 何で?」
「は? ……千晴が入って良いって言うから、来たんだが?」
呆れた顔で、渋谷は言った。千晴は何度も瞬きをする。
「え、俺の家の前でメッセージ送ってたの?」
「悪いか? 急に押しかけるのも良くないと思って、確認取ってから入ろうと思ってたんだ」
恋人なんだから別に良いじゃん、という言葉は飲み込むことにした。言ったところで、「親しき仲にも礼儀ありだろ」と呆れて言われるだけ。想像に笑いそうになってしまう。
渋谷は話しながら、慣れた手つきでゴミをまとめていく。床の上があっという間に綺麗になっていく。
「渋谷って変なとこ真面目だよね」
「褒めてんのか?」
「もちろん、褒めてるよ」
まとめたゴミ袋を、玄関に放る渋谷。別の袋を出して、机の上のゴミに手をつける。
「千晴、飯は」
「食べた」
「いつ」
「……」
肩をすくめてみせる。渋谷の目が鋭くなるのを見て、千晴はため息をついた。
「……怒る?」
「当たり前だ」
直後、強めの衝撃が千晴の額を襲った。
「あ痛! ねえ、何で渋谷のデコピンってそんな痛いの!?」
「やられたくなかったら飯を食え。お前、何で食べないんだ」
二つ目のゴミ袋を、さっきと同じように玄関に放りながら渋谷は言った。
「何でって……食べる気力がないからね」
大きなため息。
「こんな暗い部屋にいるからだろ」
「ええ、落ち着くのに」
渋谷がカーテンを開ける。暗い部屋に光が差す。
「わ、眩し……。渋谷、カーテン閉めて」
「残念だな、閉めるわけねえだろ。千晴もこっち来い。日光を浴びろ」
当然のように、千晴は動かない。渋谷の舌打ちが聞こえた。
「しょうがねえな。強制手段だ」
渋谷がずんずんと、千晴に近づいてくる。
「何、渋谷――って、え、待って!?」
筋肉質な渋谷に、細い千晴が敵うわけがない。あっという間に、千晴は渋谷に抱えられた。
「ねえ、俺こんな状況で恋人っぽいことしたくなかった!」
「文句言うな! お前は健康になることを目指せ!」
お姫様抱っこ、というにはあまり雰囲気がないが……とにかく千晴は、お姫様抱っこで運ばれる。カーテンだけでなく、渋谷は窓も開けた。夏の暑い風が吹きつけて、千晴は目を閉じる。
「千晴。目、開けろ」
「う……」
観念して、目を開けた。
青空が広がっていた。雲一つない、澄み渡った空だ。
「え……めっちゃ綺麗じゃん……」
「だろ」
今日初めて、渋谷が笑う。
「お前ん家来る時に丁度晴れてきてさ。千晴に見てほしかったんだよ」
「……」
千晴は、渋谷の横顔をそっと見た。嬉しそうに頬を染めた横顔。細められた目が輝いている。
(……ああ、そういうところ。……好きだなぁ)
「……俺、案外単純だよね」
「ん? 何か言ったか」
「何でもなーい」
誤魔化すように笑って、肩に手を回して渋谷にしがみつく。
(……やっぱり死ねないな。渋谷がいるから)
「綺麗だよな。それしか感想出ねえけど……」
千晴が急に何も言わないからか、渋谷がそう言った。空をずっと見ている、と思っているのだろう。
(俺が綺麗だと思ってんのは、空だけじゃないよ)
「渋谷。こういうのはさ、恋人と見るから綺麗なんだよ」
そして、千晴は渋谷の頬にキスを落とした。
綺麗なのは たちばな @tachibana-rituka
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