後半

 砂の城は、自分だけのものじゃない。

 どんな作品を生み出そうと、百年後にはみんな死ぬ。

 翌日、僕は砂浜には行かなかった。キコに会ってから、はじめて夕方を家で過ごした。それから数日雨が降って、やっぱり僕は砂浜には行かなかった。田舎町に降る雨はすごく陰気で、車が水たまりの上を走っていく度に、飛んでくる泥水から身を避けなければならなかった。

 雨が降る。

 雷が光る。

 落雷の音。屋根に叩きつける雨粒の音がうるさくて何もできない。ベランダに出て首を伸ばすとギリギリ海が見える。雨霧の向こうの海は荒れていて、濁った波が砂浜に打ちつけているのが小さく見えた。

 部屋に戻る。タオルで頭を拭く。そして少しだけ安心して、もう一度机の前に座る。いくらあのキコだって、こんな荒れた天気の中で城を作るはずはない。

「……何で、あいつは」

 波打ち際で砂の城を作り続けるのだろう。二条城も小田原城もノイシュバンシュタイン城も、みんな海の中に消えていってしまったのに。

 砂の城。自分のものだけではないと言ったキコ。他の人が何を生み出して何を思ったとしても、気にしている暇も余裕もないのだと言い切ったキコ。

 たとえ何を生み出したとしても、百年後まで残るものはほとんどない。

 だとすれば、何で僕は。

 雨に濡れる町の風景を描こうとしたけれど、鉛筆を握った右手はまったく動かなかった。

     ※

 長く降り続いた雨が止んだ。平日の昼間、砂浜に降り立つと先客がいた。

「やあ、久しぶり」

 思った通り、キコは今日もシャベルで砂浜を掘り起こしていた。ギラギラまぶしい昼間の灼熱の中で、つば広の麦わら帽子がなかなか決まっていた。

「平日の昼間なんかに珍しいね。まだ夏休みには早いでしょ?」

「……うん」

「じゃあ、何なの? サボり?」

「……停学」

 キコはきょとんと首を傾げる。

「停学、って……。あんた何したの?」

「……」

 こいつ相手に正直に事情を話すのは、なんだか恥ずかしくて気が進まなかった。その一方で彼女になら話してもいい気もする。きっとそう思うのは、僕にとってキコは他人だからなのだろう。

「……夕日の絵、描いたんだ」

「うん、それで?」

「で、殴った」

 だから、停学。

 あまりにもざっくりしたあらすじに、キコは手を叩いて笑った。

「静かで真面目な晩夏くんが! 模範的な疎開者の晩夏くんが! 暴力沙汰ですって! 世の中には面白いこともあるのね!」

 酒焼けしたようなキコの声は、寝不足の頭にわんわん響く。そんな僕の気も知らずに、キコはこの世界に生きる誰よりも晴れやかな顔をしてゲラゲラ笑っている。

「……うるさいな」

 逆光じゃない視界の中でキコの顔を見たのははじめてだ。ちょっと眉毛が凛々しすぎる気がするけれど、なかなかかわいい。

「……それで? 何があったの?」

 そして酒焼けしたような濁声が、すべての『かわいい』を打ち砕いていく。

 僕は流木の上に腰を下ろす。キコが手元の作業に戻るまでのたっぷり三十五秒。頭の中で言葉の順序を組み立てる。

「僕のクラスにさ、増田って奴がいるんだ」

「増田って、『増田の砂浜』の、あの増田?」

「そうだよ」

 何が『増田の砂浜』だと思う。砂浜に個人の名前が付くだなんて、おかしい話じゃないか。

「あいつ、夕日の写真で賞をもらったんだ」

 それが一体、どうして暴力沙汰に繋がるのか。

「僕は夕日の絵を描いていたんだ」

 この町の夕日じゃない夕日。戦火に穢れきった、まるで炎みたいな東京の夕日。彼の目から、あるいは周囲の目から見ればきっと、この町の綺麗な夕日も、東京の毒々しい夕日も、同じものに見えたのだろう。

 そして誰かが言ったんだ。『この絵、増田のパクリじゃね?』。そんなつもりはなかったし、少なくとも増田の夕日と僕の夕日は、まったく違う夕日のつもりだった。でもそれを意識しはじめたらもう、僕の右手は何も描けなくなってしまった。

 そしてその絵が、破かれていた。誰が破いたのか。そんなことはどうでもよかった。

 あの絵はこの町の夕日じゃない。あの絵は東京の夕日。空襲で壊された町の夕日。今はもうどこにもない、自分の記憶の中にしかない夕日。かつて東京と呼ばれた街の夕日。

「……誰を殴ったかなんて、覚えていないんだ」

 拳で殴った。椅子で殴った。女子の悲鳴が聞こえて、誰かが職員室まで先生を呼びに走る足音が聞こえて、反撃されて殴られて、脳みその中に火花が散って、たぶん増田の頭を殴る感覚が手に残っていて、本当は赤く見えるはずの血が真っ黒な墨みたいに教室の床に飛び散っていて、それで、

「……人を殴ったの、生まれて初めてだった」

 波の音で、現実に戻る。海面をチラチラ反射する光がまぶしい。今まで砂の城に向き合っていたキコが、ようやく顔を上げる。

「それで停学になったの? そんなくだらないことで?」

 くだらないこと。あまりにも真っ当な意見で、ぐうの音も出ない。

「あんたさ、真似したつもりなんてないんでしょ?」

「……でも、周りはそう信じてはくれなかった」

「それはあんたの人望がないからでしょ?」

 誰かを殴って腫れた右手に、ズキリと痛みが走る。キコは砂浜にシャベルを置いた。

「真似したつもりがないなら、それでいいんじゃないの?」

「……え?」

 聞き間違いかと思った。あまりに悲しくて辛くて苦しくて、自分の都合のいいことを頭が捏造しているのではないかとすら思った。

 それでもキコは、どこまでもまっすぐにこちらを向いていて、

「人のことなんて、どうでもいいじゃない。あんたさ、まさか『わたしが酸素吸ってんだから、あなたは酸素吸わないで! 真似しないでよ!』って言われて、『はいそうですか分かりました』って息止めるの? 窒素でも二酸化炭素でも吸い始めるの? そんなことして、そのうち光合成なんかやっちゃうわけ?

 そんなこといちいち間に受けていたら、あんたそのうち死んじゃうわよ? バカじゃないの?」

 畳み掛けるような濁声。あふれる言葉。死んじゃうわよ? バカじゃないの? 他の人に言われたら腹が立つような言葉でも、キコに言われるとスッと胸の中に落ちてくる。

「……でも」

「『でも』じゃないの。そんなの、言ったもん勝ちじゃない。うじうじ考えた奴が負けなのよ」

 キコが両手を広げる。鳥が鳴く。ギラギラ光る海面すれすれを、二羽のカモメが黒い影になって滑っていく。

「もう戦争は始まっているの」

 キコの呼吸が、耳のすぐ近くで聞こえる気がする。

「写真なんて、今に撮れなくなる。絵の具だって、きっとそのうち、手に入らなくなる。わたしには――ううん、わたしだけじゃない。今を生きている人はみんな時間がないの」

 だって百年後には、みんな死んじゃうんだから。

「本当に表現したい何かがあるなら、人のことなんて気にならないはずでしょ? あんたもわたしも、それからその増田って人も」

 本当に表現したかった何か。美しいとは言い難いけれど、赤くすべてを燃やし尽くす、炎のような東京の夕焼け。

 破り捨てられた夕焼けを思い、右手がうずく。

 それまで本気だったキコの瞳に、食えない女の子の輝きが戻ってくる。

「今日は暑いね」

「……そうだね」

「晩夏くんは気が利かないなあ。そう言う時はアイス買ってくるのがデキる男の子ってもんよ?」

「そんなわけあるか」

「わたしガリガリ君ね!」

 写真なんて、今に撮れなくなる。絵の具だって、今に手に入らなくなる。きっとガリガリ君だって、今に食べられなくなる時代が来るに違いない。

 停学期間中、僕は毎日、昼間に海辺に行った。鉛筆とスケッチブック。それからビニール袋に入ったふたつのガリガリ君。まだ僕は絵を破かれたショックから立ち直れていない。右手は増田をぶん殴った感触を忘れていなくて、それでも何かを描かなきゃいけないという焦りのせいでモノクロの世界はぐらぐら揺れている。

「戦争は嫌だねえ」

 キコはガリガリ君の棒をかじりながら言う。今日作っているのは、ポルトガルはシントラにあるペーナ国立宮殿らしい。シントラはおろか、ポルトガルさえもどこにあるのか分からないけれど、たぶん本物のペーナ国立宮殿の天辺にはガリガリ君の当たり棒なんて突き刺さっているわけはない。

 キコが砂の城を形作っている側から、波が砂を侵食していく。僕は波飛沫を描こうとするけれど、やっぱり右手は動かない。

「何描こうとしてるの?」

 海を。波を。その上を滑るようにして飛んでいく、つがいのカモメの影を。

「……分からない」

 それは本当に、自分が描きたいものなのか。それは本当に、自分が描くべきものなのか。自分の生み出したものなのか。自分の前を歩いている誰かが、先に思い描いた何かではなかったか。

「あんた今、『誰かが同じ絵描いてたらどうしよう』って思ってない? 青い空を飛ぶカモメの絵を描いたら、また誰かに非難されるんじゃないか、って」

 僕が黙り込むと、キコはケラケラ笑う。

「誰かを傷つけないように、不愉快にさせないように……。なんて、そんなの無理よ。気をつけるにも限界があるでしょ? そんなこと気にしていたら、絵どころか、生きていることだってできなくなっちゃう」

 砂の城。ガリガリ君の当たり棒。天辺、グサッと突き刺して、

「人間って、そんなものよ」

 濁声ににじむ、かすかな諦め。

「みんながみんな、そんなことを気にできて考えられるなら……」

「なら?」

「そうね。東京に爆弾なんて落ちなかったし、戦争だって起こらなかったかもしれない」

 キコらしい、歯に衣着せない言葉。極端な表現だったけれど、思わず同意してしまう自分がいる。

「他の人はどうか分からない。でもね、少なくともわたしにはできない。手元で一生懸命、自分の砂の城を作っているのに、他の人のことなんて気にしている暇なんてないもの」

 そうかもしれない。気にする必要なんてないのかもしれない。どうせ僕より素晴らしい絵を描く人はたくさんいるはずだし、それに戦争が始まれば、すべてが終わってしまうのに。

「ねえ、晩夏くん。君はなんで、絵を描くの?」

「そんなの、決まっているだろ。描きたいからだよ」

 描きたいからだよ。

 それが僕の持っている、ただひとつの答え。自分の中に最初からあったはずの、唯一の答え。

「……そう言うキコはさ。なんで砂の城を」

 訊きかけて気づいた。自分が作りたいから。波打ち際の砂の城を見たいという、他でもない自分自身のために。

「分かっているくせに」

 描きたいから、見たいから。

 キコの笑顔が、真夏の海にまぶしい。

「ああ。でもさ、それだけじゃないんだ」

「他に何が?」

「……たとえすべてが戦火の中に消えてしまったとしても、波打ち際でバカみたいに砂の城を作っていた女の子のこと、誰かひとりくらい覚えていてくれればいいかな、って」

 潮風が足元をさらう。波が砂の城をゆっくりと削っていく。僕とキコと、ふたりだけしかいない砂浜。まだ夕焼けになっていない西の空に、奇跡みたいな形の入道雲が浮かんでいる。

「ああ、ダメだ。覚えておいてほしいとか、そんなこと考えるのはダメだよね。目的がすり替わっちゃう。わたしが砂の城を作るのは、自分自身のため。誰かのためじゃなくて、自分のため」

 絵を描くのは自分のため。砂の城を作るのは、他でもない自分自身が、その景色を見たいから。

「ねえ、晩夏くん。あんた暇ならさ、海の絵なんかじゃなくて、わたしを描いてよ」

「誰かのためじゃなくて自分のため、とか言っていたの誰だよ?」

「違うわよ。あなたはあなたのために、わたしを描くの。だってこの世界でわたしを描けるのは、あなたひとりだけじゃない」

 自分だけが見た、自分だけの世界の景色。波打ち際で砂の城を作る女の子。明日崩れることが分かりきっていても、ただの砂の山みたいな城を、二条城だの小田原城だのノイシュバンシュタイン城だのを作り続けている女の子。

 キコは砂の城からガリガリ君の当たり棒を引き抜いた。そしてそれを僕の方へ、

「紙と鉛筆さえあれば、絵はどこだって描ける。それこそ今この砂浜に描くことだってできるのよ。さあ、晩夏くん。もう君が絵を描かない理由なんて、どこにもないでしょ!?」

 そうだ、今なら描ける気がする。この砂浜は『増田の砂浜ではなく『キコの砂浜』だ。キコの作った砂の城がある、キコと僕の、思い出の浜辺だ。

「セクシーに描いてね」

「よし、分かった」

 僕は砂浜に『へのへのもへじ』を描き、キコは城の一部を泥団子にして投げてきた。

 百年後には死ぬ僕は、久しぶりに絵を描いた。

 百年後には確実に死んでいる僕は、久しぶりに心から笑った。

     ※

 あの日から僕は再び筆を握った。それから僕の世界には色が戻った。学校での居場所は戻らなかったし戦争の足音はどんどん近くなっていったけれど、僕が筆を折る理由にはならなかった。

 あの日以来、キコは砂浜に来なくなった。もしかしたら増田のウワサは本当で、あの町の研究所では兵器として特殊な子どもたちを育てていたのかもしれない。そしてキコもまたそのひとりで、彼女も戦争に行った。そんな可能性もある。

 でも僕は彼女のことをあまり心配していない。どこかの外国の波打ち際、兵士の死体のすぐそばでも、彼女は砂の城を作り続けているのだろうから。

 戦後、絵描きの端くれだった僕を一躍有名にしてくれた作品がある。とある女の子が、波打ち際で砂の城を作っている絵だ。でも彼女の瞳に映っているのは砂の城。繊細で立派で、ワカメも貝殻もガリガリ君の当たり棒も刺さっていない砂の城。

 キャンバスの中から、酒焼けしたような濁声が聞こえる。額縁の中で、キコはあのころと同じ笑顔で砂の城を作っている。

 今思えば、僕は彼女の素性はおろか、キコという名前が本名なのか。それすらも知らなかったのだ。

 

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砂の城のキコ 山南こはる @kuonkazami

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