砂の城のキコ

山南こはる

前半

「この絵、増田のパクリじゃね?」

 誰かがそう言ったあの日を境に、僕の世界から色が消えた。

 僕の一家が疎開したのは、母方の親戚が住んでいる九州のとある町だった。何もない海辺の田舎町だったけれど、そんな町にもたったひとつだけ大事な産業があった。それが政府の研究機関だった。

 そこで何の研究が行われているのか、僕は知らない。そこでは人体実験が行われていて、特殊な戦闘能力を持った子どもたちが兵器として生み出されている――僕が疎開してきた春にはもう、それは定説になっていた。

 定説は最初、ただのウワサだった。そしてそのウワサの出どころは増田直人だった。増田の叔父さんの飲み仲間の友だちのいとこが研究機関に勤めているから、それは単なるウワサではなく裏付けのある事実なのだそうだ。叔父さんの飲み仲間の友だちのいとこなんて完全に他人だし、その又聞きなんてウワサと同じじゃないか。

 みんなはその『定説』を信じている。増田の父親は地域の有力者でPTAの会長で、おまけに軍への寄付も欠かさないそうだから、要するに増田はそれだけ影響力のある奴なのだ。だからみんな、増田発信のウワサを真実だと思い込んでいる。

 増田を敵に回してはいけない。それは誰かが教えてくれた。

 でも彼の逆鱗がどこにあるのか。それは誰も教えてはくれなかった。

 その砂浜は学校で『増田の砂浜』と呼ばれていた。増田がここの夕日を撮った写真がコンクールで賞をもらったから『増田の砂浜』なのだそうだ。この地に疎開してきて三ヶ月になるけれど、僕は未だにこの砂浜の正式な地名を知らない。

 増田が夕日の写真で賞をもらった。それはすごく有名な話だったから、僕ももちろん知っていた。写真そのものも見た。しかし僕が夕日の絵を描いたのは、増田の写真を見たからではない。確かに増田の夕日は美しかった。しかし僕が筆を握っていた時、僕の頭にあったのは僕の見た夕日だった。僕が描いていたのは、僕の記憶にある東京の夕日だった。もう今はない、東京の夕日。まるで血が炎みたいな、僕が描くべきだと信じた、真っ赤な夕日。

 増田や他のクラスメイトたちから見れば、この町の夕日も東京の夕日も、同じものに見えるのだろう。そして不意に誰かが言った。

「この絵、増田のパクリじゃね?」

 これ、増田の夕日と同じじゃね?

 それは僕にとって、交通事故みたいなひと言だった。車に撥ねられた。誰かが賛同して、他の誰かが追随した。増田本人がどんな顔をしていたのか知らない。でも増田の父親は地域の有力者でPTAの会長で、軍への寄付へも欠かしていないのだ。

 あの日、美術の授業中。不意に誰かの車に撥ねられた僕。僕は今でも倒れたまま、毎日誰かの車に轢かれ、足の裏で踏みつけられている。

 ありとあらゆる不満の捌け口。口を開けば『パクリ』、そして名前をもじって『バカ』。

 戦争なんかない平和な世の中なら、これをきっと『いじめ』というのだと思う。


     ※


 増田の砂浜。

 確かに美しい砂浜だった。人が何かを美しいと思うのに理由なんていらない。階段から砂浜に降りる。足がきめ細やかな砂を踏む。スニーカーの隙間から砂が靴の中に入ってきて気持ち悪い。顔を上げると、真西に面した海原の向こう、遮るものが何ひとつない水平線の向こうに、太陽が沈もうとしていた。

「……あっつ」

 じっくり見る。目が焼ける。目を瞑ってもまぶたの向こうがチカチカする。もう一度目を開ける。ただ美しいだけの夕日がなおも目の前にある。目が焦げ付くまで見つめても、それは増田の撮った夕日であって、自分の描いた夕日とは別物だった。

 そして、増田の写真に写っていなかった『何か』の影は、僕の視界の右端からぬっとこちらに近づいてきた。人のシルエット。たぶん女の子。僕と同じくらいの年の、少し小柄な女の子の影。顔は逆光のせいでよく見えない。

「ね、もしかしてさ。あんたが『増田』って人?」

 かわいい雰囲気からは想像もできないようなガラガラのハスキーボイス。目を瞑っていれば酒焼けした四〇代女性みたいな声で、女の子は増田の名前を口にする。

 なんでこの子が、増田の名前を知っているのだろう。

「……違うよ」

「ふぅん、そうなの」

 それだけ呟いて、彼女は僕の視界の右端に戻っていく。右を向く。今までど真ん中に君臨していた太陽が左にずれ、今度は女の子が視野の中央に来る。彼女は波打ち際でしゃがんでいた。子供用のプラスチックのシャベルを片手に、砂を掘り起こしていた。穏やかな波が、彼女の足元へと寄せては引いていく。

「何してるの?」

「見て分からないの? お城を作っているのよ」

 どう見ても山じゃん。

「これは二条城」

「あの、廊下がギシギシ鳴るやつ?」

「へえ。あんた、本物見たことあるの?」

「あるわけないだろ。京都なんて、もう何年も前に空襲で焼けちまったじゃないか」

 波打ち際にできた砂の山。こうしている間にも少しずつ潮位は上がってきて、夜に水没するのは明らかだった。それでも彼女は懲りもせずに砂の山を高くし続けている。僕は本物の二条城を見たことはないけれど、少なくとも屋根の上に細長い貝の尖塔はないはずだ。

 彼女の右手、スコップが砂に突き刺さって、

「わたし、キコ。あなたは?」

「……僕は、晩夏」

「え? バカ?」

「晩夏だよ! 夏の終わりの、バ・ン・カ!」

 僕は割れた貝殻を拾い上げ、濡れた砂浜に『晩夏』と書いた。書いたそばから、波が僕の字を消していく。

「へえ、晩夏かあ。字だけ見ると女の子みたいだし、変な名前だねえ」

 お前の『キコ』だって、たいがい変な名前じゃないか。

 キコは僕への興味を無くしたように、再び二条城の建設へと戻っていく。変なのは名前だけではなかった。この辺にある学校は、僕が通っている学校しかない。けれども彼女の着ている制服は、僕の学校のものとは違った。

 波音が、カモメの鳴き声が、キコが砂を掘り起こす音が耳を通り抜けていく。それら静かな本流に乗るように、増田が発信したというあのウワサが耳を通り抜けていく。研究所で生み出された特殊な子どもたち。兵器として育てられた子どもたち。まさか、そんなわけ。

 太陽に背を向ける。キコの低い声を、後頭部で聞く。

「もう帰るの?」

「ああ、宿題あるから」

「また明日も来る?」

「……来ないよ」

 増田の砂浜を、夕日を見る。そして確かめる。自分が彼の写真を模倣したのではないと確認するために。自分がここに来たのは、そのためだけだ。でも僕の描きたかったのは、これじゃない。

 キコが「またね」と言っても、僕は振り返らなかった。


     ※


 翌日。

 なぜか僕はまた、増田の砂浜にいた。燃えるようなモノクロの夕日の中、トンビとカモメの鳴き声を聞きながらキコの姿を見る。キコは昨日と同じ場所に、また砂の山を作っている。昨日作っていた二条城は、跡形も残っていなかった。

「これ、何に見える?」

「……筑波山?」

 いいや、高尾山かもしれない。

「違うってば。これは小田原城」

 無茶を言うな。

「晩夏は小田原城、見たことある?」

「小田原城は見たことあるよ。でも、どんなだったかは覚えていない」

 小田原城が今もあるのかは分からない。もしかしたら空襲は東京だけでなく神奈川にも広がっているのかもしれない。でも少なくとも、小田原城に流木でできた城壁なんてなかったのは間違いない。

 寄せては返す波が、建設したそばから小田原城を削っていく。僕は砂浜の内側を指差して、

「なあ。もっとこっち側に作ればいいんじゃないのか? そんなところじゃ、波で壊れちゃうだろ?」

 キコは一瞬だけ手を止める。だがすぐに、スコップを握る右手に力を入れる。

「いいの、それで」

「え?」

「わたしはね、波打ち際に佇む砂の城が見たいのよ」

 意味が分からない。

 砂の城は波で崩れる。それが分かっていてもなお、波打ち際に砂の城を作るバカなんて、たぶん世界中を探しても彼女ただひとりだろう。

「晩夏。今、『こいつバカだ』って思ったでしょ?」

 図星。

 何も言えないでいると、キコは、

「そう、そんなバカなことする人は他にいないでしょ? だからわたしがやってんの」

「何でそんなことするの?」

 何の役にも立たないのに。

 キコのスコップが、小田原城の天守閣に砂を足して、

「作りたいからよ」

 波打ち際に佇む、砂の城を。

「波で崩れちゃうのに? 明日にはなくなっちゃうのに?」

「うん、そうよ」

 さざなみ、カモメ。モノクロの夕日の照り返しがまぶしい世界の中で、キコの黒い影がスッと首を伸ばす。

「わたしが作りたいから、砂の城を作るの。べつに、壊れたっていいの。他の誰かに見せるためじゃないし。わたしはね、わたしのために砂の城を作っているの」

 何か文句ある? 声に出されなかった言葉が、傾げられた首の根元から漏れ出しているのが分かる。

「ねえ。あんた、明日も来る?」

 波がどんどんこちらに寄ってくる。満ちかけた潮が少しずつ小田原城を崩していく。

「明日はどこの城を作るの?」

「うーん、ノイシュバンシュタイン城とか?」

「どこだよ? それ」

    ※

 そして僕は来る日も来る日も、キコの砂浜に通った。夕日の中で、キコは毎日城を作っていた。穏やかな波打ち際、明日には崩れると分かりきっている砂の城。ノイシュバンシュタイン城はワカメをまとっていたし、その後に作られた大阪城の天辺にはヒトデの死骸が鎮座していた。

 キコの城が崩れていく度に、僕の居場所もまたどんどん壊れていった。僕の周りだけではない。テレビやラジオが報道する戦況もまた、少しずつ悪くなっていった。美術の授業はなくなったし、放課後の部活動もなくなった。僕の世界に色は戻らない。今日から武道の授業が始まって、そしてやっぱりキコは城を作っている。

「ねえ、おバカの晩夏ちゃん。あんたさ、友だちいないの?」

「……いないよ。見れば分かるだろ?」

「何でいないの? 性格悪いから?」

 自覚は十分あるけれど、他人に指摘されるのは癪に障る。

「……みんなさ、不安なんだよ。この世界が、戦争がどうなるのか、ぜんぜん分からなくて」

 先が見えない。未来が見通せない。たぶん誰しもが心の中に黒い塊みたいなものを持っていて、でもその正体が何なのかてんで分からなくて、それで、

「だからさ、吐き出したいんだよ」

 自分でも何を言いたいのか分からない。そしてキコにそれが通じたのかも分からない。キコは相変わらず砂を掘るのに忙しそうだ。

「その捌け口があんたなの?」

「うん。だから僕は、友だちがいないんだ」

 キコは一瞬だけ顔を上げたが、またすぐに砂の城へと視線を落とす。

「ふーん……」

 キコは他人に興味がないのかもしれない。きっと僕がここで絵を描いていたとしても、スケッチブックをのぞき込んでくることもないに違いない。


     ※


 砂の城を作る。それを『作品』というべきなのか僕には分からない。でも僕の絵が『作品』で増田の写真も『作品』なのだから、キコの城もきっと『作品』なのだろう。

『作品』を生み出す行為は、すべからく『創作』だ。キコならきっと、僕の悩みをズバッと一刀両断してくれる。

「ねえ、キコ。もし君以外の人が砂の城を作っていたとしたらさ、君はどう思う?」

「どう思う、って……。べつに。どうとも思わないけど」

 キコは顔を上げない。斜め後ろから見た彼女の姿は、どこまでも砂の城に向き合っているように見える。

「真似されて不愉快になったりとか、そういうの、考えないのか?」

 キコの右手、小さなシャベル。砂の城の土手っ腹に、大きな穴を空けてトンネルを通す。

「なんで不愉快になるの?」

 キコの顔がこちらを向く。上手く説明できないで言い淀む僕の顔を、真剣な表情で見つめながら、

「だって砂の城って、わたしが開発したものじゃないし」

「いや、そうかもしれないけど」

「砂の城は、わたしだけのものじゃないわ。砂で城を作っているからわたしの真似をしているだなんて……。わたし、そんなこと言わないわ」

 まったく失礼ね、わたしそんなに傲慢じゃないわ。

「……逆の立場になっても?」

 要するに、誰かが先に君のとなりで、波打ち際に砂の城を作っていたとしても。自分以外の人間が、砂の城を作っている事実があっても。

「うん。気にしない。だってさ、時間がないんだもの」

「時間?」

「うん、時間。……わたし、いつか死んじゃうんだもの」

「え? 死んじゃうの?」

 頭に誰かのささやいたウワサが浮き沈みする。研究所。特殊な能力を持った、兵器の子どもたち。

 自分が想像するよりも、ずっとひどい顔をしていたらしい。キコはヘラヘラと相好を崩しながら、

「やだなぁ。何でそんな深刻な顔してるの? わたしたち、百年後にはみんな死んじゃうんだよ?」

 キコはシャベルを地面に置いた。思ったよりもずっと高くなった波が、城を水没させてまた引いていく。

「それにさ、もう戦争始まっているんだよ? ここ田舎だけどさ。もしかしたら今日にも明日にも空襲があって、わたしたちみんな、死んじゃうかもしれないじゃん」

 カモメの鳴き声が、トンビの鳴き声が、田舎の澄んだ空気の中を落ちてくる。東京よりもずっと高くて綺麗な空。戦争の汚い熱を知らない、ただ美しいだけの夕焼けの空。

「少なくともわたしはさ。他の人に興味持ったり、気を遣ったりする暇ないの。……もちろん、文句言ったりする余裕もね」

「キコ……」

「さ、つまんない話しちゃったね。良い子の晩夏ちゃんはもうすぐお帰りの時間です」

 彼女がそう言うと、浜辺の拡声器からお帰りの音楽が鳴り響く。東京でもこの田舎町でも、夕焼けの中で聴く『遠き山に日は落ちて』は何ひとつ変わらない気がするし、でもそう思っているのは僕だけなのかもしれない。

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