ティラノサウルスが吠えるまで

佐伯瑠璃(ユーリ)

ティラノサウルスが吠えるまで

 天気予報は晴れのち曇り、ところによっては雷雨という外出先を悩ませるものだった。

 梅雨は早々に明け、連日の猛暑に襲ってきたのは電力不足。恨みたくなるほどの太陽の活動にダムの水が底を尽きそうだという不安要素が重なった。

 人は雨を欲していた。大地をほどよく潤すほどの雨が欲しい。決して嵐を伴うものではなく、欲しいのはこどもの頃に鬱陶しくて大嫌いだった普通の梅雨だ。ところがそう願った途端に、これまでに見たことの無い線状降水帯が予想していない地域を通過した。

 局地的な豪雨、命を最優先にした行動をとってくださいと何度も繰り返し報道された。

 列島は縦に長いから、北は雨で南は快晴なんてあたりまえだ。でも最近は違う。隣の市で竜巻が家屋をなぎ倒し、ほんの数十キロ先の町では浸水するほどの雨が降る。

 そんなさなかに久しぶりに取れた連休は、世の中のほとんどの人にとっても連休だった。


 いのちと時を旅する博物館


「たまには誰も誘わずにひとりもいいかも」


 車に乗って訪れたのは市立博物館。暑さからも雨からも逃れることのできる場所。

 小さなこどもを連れた家族に混じって私はぼっちで入館した。

 ロビーは水族館でもないのに川のせせらぎが聞こえ、やさしい風が吹き抜けた。そして見上げた先にあったのは人間が誕生するずっと前に滅びた古代生物の展示だった。映画でしか見たことのなかった首の長い恐竜、体の大きな恐竜、翼を広げた恐竜が小さな人間を珍しそうに見下ろしていたのだ。


「うはぁぁ」


 感嘆のあまりに発した言葉は、ほとんどため息として消えてしまった。これを作った人への敬意と、三十数億年という気が遠くなるほど昔に存在していた彼らの姿に私の語彙は消し去られていた。

 そんな私の近くで「トリケラトプスかっこいい!」「ぼく、プテラノドンがすき!」と、小学生の男の子たちが目を輝かせてはしゃぐ。ほんとうにキラキラしていて、直視できないほどだった。館内のショップで買ってもらったらしいお気に入りの小さな恐竜をかざして、その恐竜の特徴を語る子。ぼくの方が知っているとマウントの取り合いがなんとも微笑ましい。


「だんしぃって感じ」


 男の子はどうしてこんな恐ろしい生物にロマンを感じるのだろう。恐竜とか昆虫には昔から目がないのは定番だ。もちろん女の子にだっているだろう。けれど比率からいくと圧倒的に男子が多いはずだ。


「すみません。まだ男子気分が抜けなくて」


 突然、斜め前にいた男性がばつが悪そうに振り返った。


「えっ。あ、いえ、そういうつもりでは!」

「何歳になっても抜けないです。普段は隠しているんですけど、やっぱりこういうところに来るとだめですね。あはは」

「いえ。あの、本当にごめんなさい」


 心の声が言葉になっていたことに驚いたのと、それが知らない男性に聞かれていたことが恥ずかしいし何よりも気まず過ぎた。私はその場から早く離れようと頭を下げながら後ずさった。展示を見るために数段の階段を上っていたことを忘れて。


「ひっ!」

「えっ、あぶなっ」


 そう、お約束のように一段踏み外して態勢を大きく崩してしまったのだ。転びたくない、尻もちなんてつきたくない。あがく私は空中で滑稽なダンスを披露しているに違いない。それを目の前で披露され強制的に見せられている見知らぬ男性は迷惑だろうなと、スローモーションで変わりゆく景色を見ながら私は心の中で爆笑していた。

 実際にはこうだ。

 後ろ向きに一段踏み外し、勢いのまま数段を駆け下り、転ぶまいと手をばたつかせ、近くにあった手すりを綱引きでもしているのかと突っ込みたくなる態勢でかろうじて掴んだ。しかし、あまりにも筋肉がなさ過ぎた。自分の体重すら支えられないことに気づいて、せめて衝撃が少なくなりますようにと気持ちばかり踏ん張りながら床への転倒を覚悟した。

 あとは、素早く立ち上がりこの場から逃げ去るのだ!


「いったー......、く、ない?」

「なんとか間に合いました。大丈夫ですか」


 床への衝撃はなく、代わりにふわっと浮いた感覚があった。まさかと思い状況を確認すると、私は誰かに後ろからキャッチされていた。両脇の下に男性の腕が差し込まれていたのだ。そう、その男性は先ほど私に話しかけてきた人だった。


「大丈夫です! 大丈夫です!」


 急いで私が自立すると、今度は男性が謝ってきた。


「申し訳ございません。自分が声をかけなければこんなことにならなかったんです。なんてお詫びをしたらよいか。すみません」


 男性はとうとう私に向かって頭を下げてしまう。何が何だか混乱してしまった私は、男性の腕をつかんで走っていた。とにかく周囲の目が気になったし、落ち着きたかったからだ。男性は黙って私についてきてくれた。やっと立ち止まったのは人通りのない自販機の側だった。


「あの、その。あなたの、せいでは」


 息が上がる私。


「いえ。あれは自分の軽率な行動のせいです。驚いてああなってしまったのは仕方のないことだと思います。許可なく身体に触れましたし。謝るべきは自分です」


 まったく息の上がらない彼。


「いえ。助けていただいたのに、謝らせてしまうなんて。ごめんな、さい」

「あ、そこに座ります? 少し息を整えてから」

「えぇ、あ。はい」


 自販機の隣にある三人掛けの椅子に座った。彼は自販機の前に立ち、少し悩んだあとコインを入れて飲み物を買った。しかも、ふたつ。


「もしよかったら、どちらか飲んでもらえませんか」

「それは悪いです」

「ぬるくなるし、一本しか飲めないし」


 知らない男性から飲み物をもらうはめになるなんて。断りたいけれどこの状況、断って怒らせてしまったら状況は不利。自分で連れてきておきながら暴行にあったなんて笑えない。


「じゃぁ、こっちをいただきます」

「ありがとうございます」

「あの、お礼は私のセリフなので、その」

「あはは。それもそうだな。すみません。あはは」

「いえ」


 私はハーフボトルのレモンティーをもらった。彼の手に残ったのは同じくハーフボトルのダージリンティーだった。きっと私が選びそうなものをふたつチョイスしたのだろう。彼は私の隣をひとつ空けていちばん端に座った。

 よく見ればなにかスポーツでもしているのかと思わせるような立派な体系をしている。

 ペットボトルの蓋を開け、口元に持っていくだけのその腕は二度見するくらいの素晴らしい筋肉が顔を出す。そう、予告もなしに至極ナチュラルに現れたのだ。

 一口それを口に含んで嚥下したときの喉元はもう言わずとも分かるだろう。私はそれを見届けてそのまま瞼を閉じた。


 ―― 尊い


 瞼の裏で再生されるその動作、そして耳に残ったとても控えめな嚥下音。きっと耳を澄まさなければ拾えないほどの小さな音だ。


「あの、本当に大丈夫ですか」

「大丈夫です。えっと、いただきます」


 私は急いでレモンティーを喉の奥に流し込んだ。ほんのり甘みのあるレモンティーは私の気持ちを和ませた。


「おいしい」

「よかった。無糖の方が好きだったらどうしようかなって迷ったんです」

「あの。いつもは無糖しか飲まないんです。でも、これはおいしい。ちゃんとレモンの味も残っているし」

「自分も時々飲むんです。仕事のあとに糖分を欲するときがあって、でも加糖だと甘すぎてだめです。でも、その甘さだと後味も気にならないんで」


 彼はなぜか照れくさそうに笑った。

 今やっと初めてまともに彼の顔を見たけれど、ものすごく私好みの顔で、口元にもっていったレモンティーは私の口から外れて顎からどぼどぼとこぼれてしまった。


「うわ、え! 大丈夫ですか? やっぱりどこか具合が悪いんじゃ!」

「大丈夫です。本当に、本当に!」


 ―― あなたのせいですから! その顔、私に晒さないで!


 バッグからハンカチを出して胸元を押さえた。白いティシャツはハンカチ一枚ごときでどうにかなるような濡れ方ではなかった。小さなこどもがジュースをこぼしたあれと全く同じ状況だ。いい年して何をしているのだろう。


「売店でティーシャツ買ってきますよ! ちょっと待っていてください」

「いいですから! もう帰りますし、ねえっ!」


 私がそう言ったときにはもう彼は見える範囲にはいなかった。動きが速すぎる!


「あーん、もう。何やってるんだろ。ばかじゃん」


 私はクーラーが程よく効いた休憩スペースでうなだれるしかなかった。


 ◇


 しばらくして、彼が小走りで戻ってきた。その表情はなぜか浮かない。


「あの、普通のティーシャツが売ってなくて」

「いえ、おいくらでしたか? 売店まで走らせちゃって本当にすみません」

「いやお金は結構です。だってこんなのしか買えなかったですし......」

「こんなのって?」


 彼が渋りながら出して広げたティーシャツは無地の白ティーだった。全然OKじゃないのと、私は受け取った。どこに問題があるというのだろう。


「模様なんてなくて逆によかったですよ。サイズも少しくらい大きくたって大丈夫。逆に申し訳ないです。これ着ますね」

「いや、だからそのバックプリントが」

「誰も私の背中なんて気にしませんよ」

「いいんですか。シンプルなものがそれしかなくて、なんせ博物館の売店なんで。やっぱりコンビニまで走ればよかったな」

「大丈夫ですって、あはは、は?」


 なにげに広げて裏返したティーシャツの柄に私の受けた衝撃といったらなかった。何を隠そうその背中には、こどもたちに人気ナンバーワンと入口に書いてあったティラノサウルスだったのだから。

 しかも大きな口を開け牙を晒し、威嚇するリアルティラノサウルスだ。


「はっ、ははは。あははは、お、おいくらでした?」


 ひきつった顔はさておき、もう笑うしかなかった。適当に数枚の夏目漱石を彼に押し付け、ふらついた足取りでお手洗いに入った。その間にきっと彼は去っている。それを切に願いながら。


 着替えない選択はなかった。あまりにもびしょ濡れ過ぎたからだ。

 レモンティーのかわいらしい色が、縦に横にと飛び散っていたし、なによりべたべたして気持ち悪かったから。幸い博物館は照明がそこまで明るくない。

 展示コーナーを避け、非常用にも使える脇にある廊下を使って外に出れば目立つまい。そのまま車に乗り込み帰宅すれば私の心は安泰だ。


「ふぅー。これでよし!」


 背中のティラノサウルスには目を背けバッグを肩にかけ、急ぎ足でお手洗いを脱出。先ずは非常口ランプのついた廊下に向かうのだ。足元だけを見て、ただひたすらに!

 しかし、ドン! と誰かにぶつかって私の作戦はその時点で終了した。


 ―― ミッション、インポッシブル!


「う、すみません」

「いや、ここに立ってたのが悪いので。一緒に出ましょう。外に出るまで我慢してほしい」


 ぶつかった相手は私好みの顔をした、あの彼だった。

 まさかの待ち伏せに、嬉しさ半分、脱力半分の受け入れ難いなんとも言えない気持ちになってしまった。

 しかも彼は、背中のティラノサウルスが見えにくくなるように私の背中に腕を回して隠してくれる気の使いよう。


 ―― なんということでしょう!


 しかし、その作戦に乗らないわけには行かなかった。私は「うん」とだけ首を縦に振り、使命感溢れる目つきで出口を目指した。


「土砂降り⁉︎」


 あとはお礼を述べて車に乗り込むだけのところで、まさかの雷雨。

 ピカッ! ゴロゴロー! ザザザザー!


「嘘だぁ。車、いちばん端っこに停めちゃってるのに。えー」

「これは、なかなかの雨ですね」

「着替えた意味がなくなるのが、いちばんしんどいんですけど……」


 私がそう言うと、彼はティラノサウルスティーシャツをチラ見してから私の顔を見た。


「確かに……。ふっ、ぐふふ」


 手を口に当て、声を殺して肩を揺らしながら笑いを堪えていた。いや、笑っている。


「ちょ、ちょっと。笑ってる!」

「笑ってなんか! ぶっ、ぶはははは。ごめん、でも、無理。あははははは」


 好みの顔は爆笑していても好みだった。


 ◇


 雨足が少し弱まった頃、彼がこう言った。


「よかったら車、ここまで持ってきましょうか」

「え?」


 私は思わずバッグを胸に押しつけた。いくらなんでも知らない人に車の鍵は渡せない! 例えそれが、好みの顔の男でも。


「あ、そうじゃなくて。自分の車をここに持ってくるので、よかったらあなたの車の近くまで送りますという意味です。説明不足ですみません」

「あー、あー、すみません。なるほど、それは嬉しいかも」

「では、後ほど」


 私の誤解を解いた彼は、あっという間に小降りの雨の中にかけだした。走る姿も好みだったのはもう言うまい。


 しばらくして、白いRV車が私の前に停まった。躊躇う私に彼は運転席から手を伸ばして助手席のドアを押し開けた。ウダウダしていたら彼の車のシートが雨で濡れてしまう。私は半ば反射的にその車に飛び乗った。


「おじゃまします」

「いらっしゃい」

「ふふっ。なんだか、私たち変ですね」

「そう、ですね」

「えっと。私の車は西側のあの木の近くです」

「了解」


 彼は静かに車を発車させ、駐車場内のコーナーを無駄のない運転で走った。


 ―― 運転している時のその、腕……。


 このまま時間が止まればいいのに。彼の運転をもっと見たい。そんなことを思ってしまうほどに、横から見る彼の姿はかっこよかったのだ。


「この車かな」

「あ、はい。これです。本当に、ありがとうございました」

「いえ。こちらこそありがとうございました」

「え、なぜ?」

「失礼ながら、その。楽しかったです。くはは」

「あー、もう。恥ずかしいなぁ」

「さあ、小降りのうちに移動した方がいい」

「そうでした。じゃあ、失礼します」


 ロックが解除されたので、ドアノブに手をかけた。これでこの好みの男ともさようならだ。そう思った時、彼が動いた。


「あの!」

「は、はいっ」


 キタ! 私はそう思った。ちょっと心が躍る自分がいる。


「これ、貰いすぎだから」

「うん?」


 彼は私の手を掴み、夏目漱石をそこに握らせた。その夏目は私が渡したまんまの枚数だ。


「いや、取ってくださいよ。実際はおいくらだったんですか?」

「じゃあ、次に会った時に返してください。そうだな、オススメのランチとかで」


 ここは彼のプライドをたてるべきだろう。私はその案を受け入れることにした。


「分かりました。美味しいランチを探しておきます」

「はい。お願いします」

「では、これで。本当にいろいろとありがとうございました」

「いえいえ。また」

「はい。また」


 私は素早く車から降りて自分の車に乗り換えた。彼は私が乗ったのを確認すると、手を振ってその場から離れていった。


「た 405かぁ」


 私の口からでたのは彼の車のナンバー。そして、大事なことに気づいて叫んでしまう。


「連絡先知らない! 名前! 名前も聞いてなーい!」


 逃した魚は大きい。

 背中のティラノサウルスがバカだなと笑っている。


「神様って、いじわるだぁ」


 ショックすぎてしばらくエンジンをかけることができなかった。

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