拒幸症

1103教室最後尾左端

拒幸症

「昔から幸せが苦手なんです」


 女はひどく疲れていた。背骨は自分の身体の重さに耐えきれず不自然に曲がっており、長い髪は表情を隠していた。


「親に褒められるとか、お腹いっぱいおいしいものを食べるとか、欲しいものを買うとか、仲の良い友達と旅行に行くとか……ともかく幸せな状態になっている自分がすごく気持ち悪いんです」


 女の全身はひどく細い。問診用の椅子に座る彼女は、生まれてこのかたモノを食べるという行為を一度もしてこなかったかのようだった。生き物が当然に持つ生理的な汚さを一切感じさせない、標本のような雰囲気を醸し出している。


「自己肯定感が低いというか、自罰的……っていえばいいんですかね。自分みたいな人間が幸せになっていいわけがない、みたいな固いしこりが心の奥にあるんです。逆に自分の悪いところを探して安心してしまうというか……これって、なにかの病気なんでしょうか?」


 それは典型的な「拒幸症」の症状だった。常態のセルフイメージと幸せを享受している現状とのギャップから生じるショックを、人一倍敏感に感じとってしまう一種の精神疾患である。メカニズムはほとんど拒食症と同じだ。違いは自己像の崩壊を強く原因が「太る」か「幸せになる」かだけだ。


 病名とその原因を伝えると、女は少し安心したように息をついた。自分の抱える症状が正体不明のものではなく、すでに医療が認識している病であると知ることはそれだけでもある程度の治療になることがある。


「……私、今度結婚するんです。職場の上司と。彼は私のこういう感覚が分からないみたいで、考えすぎだって笑うんです。このままだと一緒に暮らす中で相手を困らせてしまいそうで、これを機にどうにかしたいな、と」


 消え入りそうな声だ。まるで本当はそんなことをのぞんでいないかのようだった。本人がそもそも回復を求めていないことは、この病の一つの特徴である。病が治ることも一つの自己像の揺らぎをもたらしうるからだ。


「え? 破談になんてできるわけないじゃないですか。せっかく私のことを選んでくれたのに。私から断るなんておこがましいですよ」


 手を振りながらそう言った女の声は、今までで一番大きく生き生きしていた。自分を卑下するときにやたらと饒舌になるのも拒幸症患者の特徴だった。彼女の様子をカルテに書き込みながら、投薬による治療を行うことを告げた。


「薬……ですか?」


 拒幸症の治療は主に投薬によって行われる。一種の精神安定剤を用いて、幸せで感じる心の動きを小さくして慣らしていくのである。「幸せ」が自己像を脅かす脅威ではないことを少しずつ身体に馴染ませていくことが正攻法とされていた。


「なるほど……じゃあこの薬を飲むと、幸せにならずにすむってことですね」


 薬を処方すると、女は心なしか嬉しそうに受け取った。幸せで気分が悪くなったときに服用すること、服用のたびに効果は薄まること、薬が無くなったら新しいモノを用意するが使いすぎには十分注意することを伝えた。


「わかりました。ありがとうございます」


 女はそういって去っていった。




 ○




「おかげさまで、少しよくなりました」


 女は前よりもやつれていた。表情は殆ど消え失せ、ますます生物らしさを喪っているようだった。


「薬の効果はありました。最初は結婚式のときとか、新婚旅行のときとか……強い幸せが来るタイミングに合わせて服用していたんです。薬のおかげで気持ち悪さは感じずにすんだし、穏やかに日々を過ごすことができています」


 ぼんやりとした顔はのっぺらぼうのようだ。本来人間の顔がもっている、その人物を他者と区別させる「個」の源泉ともいえる部分が欠落してしまっている。


「でも……なにもない日々が続きすぎたせいか、今まで以上に幸せが怖くなってしまったんです。日常の不意にやってくる幸せにまで怯えるようになって、日常的に薬を飲むようになりました」


 拒幸症の治療過程は大きく二つのケースがある。薬の投与によって幸せに対する拒絶が緩和されて治療が進むケースと、遠ざけたことによって余計に幸せへの拒否反応が強くなってしまうケース。この女は後者だったらしい。


「そうしたら、徐々になにをやっても、なにが起こっても、なにも感じなくなってしまいました。食事をしているときも、友人と話しているときも、夫と性行為をしているときも……自分が子どもを宿したと知ったときも、です」


 抑揚の無い声だ。感情の起伏を減らす薬を飲み過ぎた人間は、大体このように常に眠たげで、夢と現実の区別が付いていないような、この世の全てに興味がないかのような話し方をする。


「さすがにこのままじゃいけないと思いました。私、もうすぐ子供が産まれるんです。私、自分の子供には私みたいになってほしくない。普通に幸せになって欲しいんです。そのためには私がちゃんと幸せを受け入れないといけないと思うんです」


 視線は空中をさまよっている。もしかしたら本人の意思ではないのかもしれない。夫にいわれたか、友達にいわれたか、ともかく正常な感覚をもった周囲の人間の助言を聞いたまま口に出しているような印象だ。


 カルテに女の姿を見たままに記述しながら、彼女のようなケースが珍しいものではないことと、対応策がちゃんとあることを告げる。方法は至ってシンプルだ。以前の薬とは逆の、神経の興奮をうながす薬を処方し、幸せを享受した際の快感を人為的に発生させる。


「……そうすると、治るんですか?」


 以前の薬で強すぎる幸せを抑制し、精神状態がフラットになった後、セルフイメージを壊さない程度の弱い幸せを発生させることで徐々に幸せに慣らしていく手法だ。多くの患者がこの方法で拒幸症を克服している。


 前回と同じく、用法用量を守るように念押ししながら薬を渡すと、女は曖昧に頷いた。


「そうなんですか。ありがとうございます」


 女はそういって去っていった。




 ○




「どこで薬を飲めばいいのかわからないんです」


 女の表情は今までで一番はっきりしていた。いままでのような疲労感やぼんやりとした雰囲気は抜け落ちている。目も見開かれ、姿勢も天井からつり下げられているように真っ直ぐだったし、病的に細かった体躯も幾分改善されている。


「どういうときに自分が幸せになるべきなのかわからないんです。どれが幸せで、どれが不幸で、どれが普通なのか区別できないんです」


 ただ、彼女の人間らしさは完全に欠落していた。はっきりとした表情も、はきはきした声もひどく非人間的だ。マネキンが疲労を感じずに表情や姿勢を維持できるのと、あるいは録音した声がなんど繰り返しても同じ熱量で話せるのと同じだ。


「一度飲むと、いつもそういう場面で飲まなきゃいけないような気がしたり、みんながニコニコ笑っていると、私も幸せでいなきゃいけない気がしたり……段々薬を飲む量が増えちゃって……」


 すでに表情も口調も自分のコントロールを外れてしまっているのだろう。わざとらしい抑揚は演劇のようだ。視線が動くたびにパキパキと音がするようだったし、口角を上げたまま固まっている口元は死後硬直を思わせる。


「ネットとかで調べると、びっくりするぐらい沢山の幸せの形があって、自分がどれにあてはまるのか、どれを選べばいいのかわからなくて……。とにかく幸せであるべき場面全部で薬をのんでたら、よけいにわけがわからなくなってしまって途方にくれているんです」


 途方にくれるという割に、顔に悲壮感はまったくない。真っ直ぐこちらをみつめる瞳はカメラのレンズに似ていた。もしかしたら本当にレンズなのかもしれない。レンズのほうが肉眼よりも便利なのは明白だ。悪くなる心配もないし、きっともっと精巧に見える。


「夫も気味悪がるんです。私が普通と違うところで喜んだり、普通は嫌だと感じるようなことがあったはずなのに上機嫌でいたりすると、おかしなものを見るような目で見るんです。『顔も見たくない』とか『娘に悪影響だ』なんていわれたときも、笑顔で頷いてたらよけいに怖がらせてしまったみたいで……」


 これも、重度の拒幸症患者にはよくある症状だった。本来この治療は、幸せのシチュエーションと神経の興奮を人為的に結びつけ、幸福と快感の相関関係を身体にすり込むことを目的としている。


 しかし、症状が重いと、幸せと不幸せの区別がつかない場合もある。なにが自分にとって幸せなのか、もしくは不幸せなのか、自分の判断で選ぶことができないのである。


「夫や娘に迷惑はかけたくないから、どうすればいいか色々調べたんですけど、苦しいときほど明るくいるべきだっていう人もいるし、苦しいときは苦しいって伝えるべきだっていうひともいるし、もうよくわからないんです」


 こういうケースでは多くの場合、患者は過去の経験や周囲の様子を参考に薬を服用するようになる。薬の過剰摂取によって慢性的な興奮状態になる。幸せでいることが常態になってしまえば、それはもはや幸せとはいわない。


「幸せは人それぞれ……そんなことわかってます。あたりまえのことです。でも、それじゃ、私はいつ薬を飲めばいいんですか?」


 障がいや病に明白な定義はない。多くは「普通の人間ならできるであろうとされていること」ができない人間、あるいはその状態にあてられる。そういう意味では、「幸せを自力で選ぶ」という普通の人間ならあたりまえにやっていることができない彼女は充分に障がい者であり病人ある。そうである以上、なんらかの治療を求めることは当然だった。


「……カタログ、ですか」


 彼女に手渡したカタログには、一般的に人々が幸せを感じるシチュエーションが記載されている。年代、性別、職業などに加え、患者の遺伝子配列までも含めた膨大な情報を、数億人の情報が取り込まれた当院のデータベースと照合することで、このカタログは作成されている。彼女のような人間が平均的に幸せを感じるであろう場面が細かに記されている。


「これを見て、これの通りに薬を飲めばいいんですね……わかりました」


 手渡したカタログは概要であり詳細なデータはメールで送信したこと、データにはより細かいシチュエーションが記載されているから困ったら検索機能をつかって調べること、カタログは現時点での彼女のものであるから定期的なアップデートが必要であることなどを彼女に伝えた。


「なるほど……でも、カタログに書いていない場面に遭遇したらどうすればいいんですか?」


 滅多にないことではあると前置きした上で、その場合は当院のホットラインに電話をしてもらいたいといった。そうしてもらうことで当院のデータベースはより正確に平均的な幸せを測定できるようになるから,遠慮は不要だ。


「至れり尽くせりですね。ほんとうに助かります」


 そういった彼女の声と表情には今日一番に感情がこもっていたようにみえた。マネキンじみていた彼女の顔に感情の破片がみえるのは逆に不気味な光景だった。


 もちろん、これは治療である。自分で幸せが判断できるようになるための補助としてこのカタログはつかうべきであり、カタログにない状況は回復のきっかけにもなりうる。当然ながら、カタログの内容に納得いかなければ自分の判断を優先するほうがよい。


 しかし、それを伝えるころには、彼女はすでにカタログを読むのに夢中で、返事は上の空だった。


「はい、はい。わかりました」


 生返事をしながら彼女は立ち上がり、手にもったカタログに視線を落としたまま部屋を出ようとした。


「……ああ、そうか」


 そして、なにかに気づいたように立ち止まり、ポケットから例の錠剤をとりだして慣れた手つきで口に放りこんだ。


「治療法がわかることは『幸せ』ですものね。ありがとうございます」


 女はそういって去っていった。


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