第3話

 間下医師は何事か考えているようだった。

 しばらく瞼を下ろしていた彼は、おもむろに目を開き、僕に向き直った。

「そうだな、まずは医者として言っておく」

 医者として、という言葉に思わず背筋が伸びる。間下医師は一呼吸おいて続ける。

「お前が抱えているのは、感謝ではなく罪悪感だ」

 息が詰まる。僕にだって勿論その自覚はあった。あったのだが、断言されてしまうと心を抉られる。とはいえ罪悪感を抱いてしまうのも仕方がないだろう。そう言いかける僕を彼は制して「もし」と続ける。

「もし俺が医者になったのはお前を治すためだ、と言ったらお前は俺にも罪悪感を抱くのか?」

 唐突な告白に面食らった。何を言っているんだこいつは。僕の知っている省吾は高校の時が最後で、あの時は音楽で食っていくなんて言ってて…。あれ、音楽は諦めたのか、もしかして。固まる僕を見て間下医師が苦笑する。

「嘘だよ、お前を治すためじゃない。もともと医者になる気はあったんだ。大学中退して医大に入り直してる。知らなかっただろ」

 だけどな、と彼は続ける。

「偶然お前がああなったと知ってからは治すために尽力したんだ。だから俺はここにいるし、お前が回復した理由の何割かは俺のおかげだと思ってる」

「いったい何の話なんだよ」

 僕の胸にトンと人差し指が立てられた。その指の主、間下医師がニヤッと笑う。

「さて、いまお前の中にあるのは感謝か? それとも罪悪感か?」

 言葉を継げない僕をベッドに残して立ち上がりつつ、両手を広げて背を向けたまま彼は続ける。その様子はまるで、頭の固い大人に呆れてなぞなぞの解答を教えてあげる子供のようでもあった。

「お前は奥さん達と話してないからわからないだろうけどな、あの二人は俺と同じだよ。やりたくてやってるし後悔も無い。お前が目を覚ましたと聞いたときはきっと誇らしい気持ちで一杯だったろうさ。そこに罪悪感で応えるってのは失礼な話だ」

 そのまま半回転してこちらに向き直り、さらに続ける。

「それでだ、ここからは医者としては言えないことを、お前の友人として言うぞ」

 奇妙な話だが友人という言葉には医者以上の凄味があった。

「明日そこのドアを叩くのは、六十超えたしわくちゃの婆さんと中年の男だ。お前にとっては見知らぬ婆さんとオッサンで、お前はそれを愛しの家族とは思えないかもしれない」

 指さされるままに病室のドアに目を向ければ、光景がありありと浮かぶ。僕は黙って次の言葉を待つ。何を言う気なんだ。

「でも、思え」

 一瞬思考が飛んだ。思え。思えと言ったのかコイツは。

「そんな乱暴な」

「だいたいな、二人を家族だと思えなかったら許されないだと? お前はもっと許されないことをしてるんだぞ」

「何言ってるんだよ」

「お前を思い続けてきた家族をほったらかして俺みたいなジジイとペチャクチャ駄弁ってる」

「言ってることがムチャクチャだ、お前が絡んでくるから」

「いいや、順番が違うだろうが。なんで俺がお前の悩みを打ち明けられてるんだ。家族を差し置いて」

「家族に言えないから言ってるんだろ」

「だったら覚悟決めて騙せって言ってるんだ。ほったらかしたことに比べたら騙す罪なんて無いようなもんだ。無理やり家族だと思い込め。お前の心の負担なんざ知ったことか」

「お前、何てことを。本当に医者か」

「医者としては言えないと言っている。友人として――」

「わかった、わかった。従うよ」

 僕の言葉が意外だったのか、目の前の顔はキョトンとしていた。それからすぐに納得がいかないような、不満の滲んだような顔になる。きっと僕を説得するための文句をたくさん用意していたんだろう。僕が呆気なく了承してしまったから、空振りしてしまって悔しいんだ。

 そっちの話はいいんだ、もう解決してる。いや、解決はしていないけれど、兆しは見えた。僕はきっと妻を妻だと思えるようになる。息子にもきっと向き合える。

 置いて行かれたと思っていた。老い損なったと思っていた。三十五年のギャップを埋めるには僕の心も身体も皆に追い付かなきゃならないと思っていた。でもそうじゃないんだな。

 人に指先を押し付けたり子供みたいに得意気にしたり、妙な理屈を捏ねたかと思えば思えば力業で押し通そうとしたり。四十年近く経てば色々変わるけど、変わらないものは変わらない、か。

 まったくお前の言うとおりだよ、省吾。

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ただいま前夜 御調 @triarbor

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