第2話

「それで、いよいよ明日だな。どうだ、気分は」

 間下医師の声で思い出から引き戻された。ええと、何の話をしていたのだっけ。気分だって?

「あまり良くはないかな」

「だろうな」

 彼は同意しつつ深くため息をつく。目の前の老人とかつて親友と呼んだ男が同一人物だと、頭で理解しても心が追い付かない。ナメクジみたいな魚を見せられて「これが我々人類のご先祖様だよ」と教えられても全く実感の湧かなかった子供の頃を思い出す。その授業を隣で受けていた少年と目の前でベッドに腰掛ける老医師の繋がりが見えないのだ。せめて自分が同じように歳を重ねていたのなら、もしかすると違ったのかもしれない。一人だけ取り残されてしまったという感覚が拭えない。現代の浦島太郎か、腹立たしいけれどまったく適切な表現だ。

 考え事をしていたせいで肝心の会話の内容が頭に入ってくるのに時間がかかった。間下医師が何か言っていたな。いよいよ明日だって。そうだ、明日は僕の家族が見舞いに来る日だった。

 目が覚めてから既に三週間。前例のない異常症例ということで、前半はほとんど検査室に軟禁状態だった。身体面でも精神面でも数えきれないほどの検査を受け、ようやく個室病室に移ったのがつい一週間前。それでも面会謝絶の扱いは続き、明日それが解禁されるのだ。

「何十年ぶりに家族が見舞いに来るって、本当はもっと喜んで、感謝すべきことなんだろうけれど」

「一般的にはそうだけど、お前の場合は…」

「…僕の場合なら尚更感謝しなきゃいけないだろう」

 昏睡に陥る前、僕は結婚していて、妻のお腹には子供がいた。意識を取り戻したとき僕は真っ先に妻に会いたいと願ったが、四十年近く眠っていたと知ったとき僕は妻がもう僕とは別の人生を選んだかもしれないと想像した。いや、今にして思えばそうあってほしかったのだ。だってそうだろう、そうでなければこの三十五年間、僕という存在が彼女らを縛り続けてきたことになるのだから。

「仕事も安定して子供もできて家も買って、さあ人生ここからって時に僕がああなっちゃって。全然まだまだほかの道も歩めただろうに、ずっと僕の妻でい続けて…感謝しないほうがおかしいだろう。感謝しなくちゃならないのに、あの子の四十年を奪い続けたくせに、いざ目覚めてみたら自分だけこんな若いまんまでさ。息子なんて僕より年上なんだぜ。父親らしい事どころか会ったことも無いのに、どんな顔して家族だなんて言えるんだよ。なんなんだよ僕は」

「お前の言うことは、まあ、分かるよ」

 彼の口調は驚くほど静かで、そのくせ捲し立てる僕の声よりも重く響いた。

「…ごめん、カッとなった」

「カッとなれるというのは、ようやく俺のことを“先生”ではなく“間下省吾”だと認識できたってことかな」

 間下医師は冗談めかしてそう言う。その冗談に乗るのはひどく甘美な誘いだったが、誘いに乗るのは彼への誠意に欠ける気がして止めた。

「悪いけれど、そういうわけじゃない。いまだにあなたは馴れ馴れしい爺さん先生に見えるし、僕の知ってる間下省吾はバンドマンだ。医者になるなんて聞いてないよ」

「音楽は今でも続けている」

「そういうことじゃなくて」

 僕が家族との面会に消極的なもうひとつの理由がここにある。妻は僕のことを僕だと認識するだろう。僕の肉体が若いままであることも既に知っているはずだ。息子の場合はどうだか想像もつかないが、父だと教えられてきた人間が父だというのは案外受け入れられるのかもしれない。だが僕はどうだ。間下医師のことを省吾だと受け入れられないように、明日病室のドアを開けた妻を、僕は妻だと認識できるだろうか。 肉体的には年上の男を息子と認識できるだろうか。

 その半生を僕のために奪われた二人を家族だと認識できないこと、愛せないこと、それは決して許されないことではないだろうか。


 

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