ただいま前夜
御調
第1話
病室のテレビなど高級品であるはずがない。そもそも娯楽に耽るための場所ではないのだから、モニタの大きさも画質も音質も最低限度で十分、そのはずだ。そのはずなのに、目の前の映像も音声も、今までに見たことがないほどに鮮明だった。ただ、その美しさに興奮したり感動したりという気分には到底なれずにいる。
流れているのはワイドショー番組のようで、画面には「現代の浦島太郎、不老不死の可能性」とテロップが出ている。頭の悪そうなタレントが「若いままなんて羨ましいですねぇ」と言えば別のタレントが「でもねえ科学的に、それに倫理的問題も・・・」と何か賢しげにコメントしようとするが、まるで内容が伴っていない。
「好き勝手言ってくれるね、他人事だからって」
ひとり毒づいたところで、突然画面が消された。ベッドの脇に顔を向けると、いつの間にそこにいたのか、「間下」と名札を付けた老医師が白衣のポケットにリモコン仕舞うところだった。
「テレビは程々にと言ったろう。愚痴りながら見るようなもんじゃない」
医者が患者に向ける言葉としては少々くだけた口調だ。
「それは医者としての忠告?」
「いや、友人として」
「なら従う」
僕と間下医師。傍目には子と親ほどにも年の離れた二人がまるで旧来の友のように語らう様子は、事情を知らない人の目には酷く奇妙に映るだろう。実際のところ僕自身もこの状況に慣れたとは言い難い。あくまで対等な友人として話そうと努めているけれど目の前の姿は人生の大先輩だ。うっかり敬語が出そうになるのをどうにか誤魔化している。その戸惑いを彼に悟らせないよう、できるだけ気楽な話題を投げかける。
「それにしても可笑しいよな。名前なんだったっけ、さっきのタレント。今はすっかり知識人の立ち位置なんだな」
昔はバカの代名詞だったのに、と続けると彼も笑って同調する。
「そうなんだよ、喋ってる内容は今も大概バカだけどな」
そのまま視線を宙に向け、彼は独り言のように続ける。
「・・・四十年近く経つと色々変わるけど、変わらないものは変わらないんだよなあ」
四十年近く。正しくは三十五年と二ヶ月、十三日。僕が昏睡状態にあった期間だ。
目覚めたときは身体中に得体の知れない機器が接続されていてパニックを起こしかけたが、駆けつけてきた医者や看護師たちのほうがずっと混乱していた。自分よりも怖がっている人がいるとお化け屋敷もホラー映画も怖くなくなるように、自分よりも慌てている人を目の当たりにすると人間は冷静になれるらしい。「昏睡」「意識回復」「バイタル」と断片的に聞こえる単語から、チューブや電極を身体から外し終える頃には自分の身に何が起こったのか理解し始めていた。
理解し始めた気になっていた、が正しい。病気か事故で病院に運ばれ長期間意識不明だったのだろうという予想は正しかった。しかし本当に我が身に起こったことと比べればそんなことは些事と言えた。医学的、あるいは生物学的に詳しいことはわからないが、どうやら僕は昏睡している間、年を取らなかったらしい。
「まったく老いないというわけじゃない。極度に代謝が落ちて…ようは物凄くゆっくり年を取っていたんだ」
目覚めてから数日後の検査の際、間下医師はそう説明してくれた。
「ゆっくりというと」
「おおむね常人の七分の一」
僕が眠り始めたのが二十七歳の頃。それから三十五年経って僕は六十二歳。ところが僕の肉体はだいたい三十二歳のそれと同じ。心と身体は中年、実年齢は還暦過ぎというわけだ。まったくもって意味が分からない。
「なんにせよ、意識が戻ったのは間違いなく良いことだ。そうだろ?」
やけに馴れ馴れしく話しかけてくると思っていた老医師がかつて親友と呼んだ間下省吾だと知ったのは、それから一週間も経ってからだった。
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