14 瞳

 あれほど疲れ切っていたはずの足が、すんなりと前に出た。

 オレは春野の濡れた腕を強く握った。


「はっ、離してっ!」

「離さねぇ!」

「なんで!」

「逃げんじゃねぇよ!!」


 びくっと身体を震わせる春野。

 オレは彼女を引き寄せ、その瞳を見つめた。


「目の前の現実から、見たくねぇもんから逃げんな!!」


 気付けば、そう怒鳴っていた。

 この怒りは、春野に対するものよりも、オレ自身に対してのものだった。


「今のオレの人生はな、最高に最悪だ! クビになるわ、人殺しの女子高生に脅されるわ、毎日が無気力になってくわ、そのくせお前を引き止めてるわ、なんでこんな人生になっちまったんだ! 本当にクソみたいな人生だ!」


 偉そうに説教しておきながら、本当に逃げていたのは、オレの方だ。

 クビになってから、ずっと逃げてきた。

 会社のせいだ、女子高生のせいだと、何でも周りのせいにした。

 オレは悪くないと被害者ぶっていた。


「だけどなぁ……そんなオレでも、生きてんだよ」


 オレの人生は一瞬で崩壊した。

 でも、オレはこうして生きている。

 どんなにダメな日々でも、ゴミみたいな時間をすごしても、生きている。


「どうしようもない人生だろうが、取り返しのつかない人生だろうが……息を吸って、飯を食って、こうして今、立ってんだよ」


 そう言いながら、オレは泣いていた。

 

 思えばずっと、オレは逃げてきたのだ。

 それはクビになってからではない。

 自分の本心から目をそむけて、気付かないふりをして。

 自分を滅して、何も考えずに、働いていたのだ。

 会社務めの5年間で、実に多くのものを失った。


 いちばん失ってはいけなかったのは——オレ自身だった。


「お前はどうなんだよ……春野。お前は、生きてんのかよ」


 涙が止まらない。

 おっさんの醜い後悔だ。

 女子高生にこの気持ちなど、わかるわけがない。


 そう思っていたのは、オレだけだった。


「生きてます」


 嗚咽の混じった声だった。

 春野も泣いていたのだ。

 きれいな顔をゆがませ、鼻水を出して、ぐちゃぐちゃになった顔で、そう言った。


「わたしも……生きてます」

「あぁ」

「こんなクソみたいな人生でも、苦しくてもっ……生きてます」


 小さな頬を伝っていく雨と涙。


「やっぱりオレたち、同じだよ」


 オレは正面から春野を抱きしめた。

 柔らかいとか温かいとか、もうどうでもいい。

 犯罪だろうがなんだろうが、どうでもいい。

 ただ春野という人間と、正面から向き合いたかった。


「どうしようもない奴らで、救いようのない奴らだ」

「でも、生きてます」

「あぁ。生きてる」


 雨で濡れた身体は、暖かさを求めている。

 彼女のぬくもりが、オレの胸にしみた。

 切ない思いに、また涙が溢れ出てくる。


「なぁ春野……これからも、一緒に生きねぇか?」


 無意識に出てきた言葉。

 だが、取り消すようなことはしない。

 いくら非常識な考えだろうと、今のオレにはこれが最適解だと、そう直感した。


「一緒に立ち直ってさ。普通に戻れてから、別れようぜ」


 オレは普通の社会人に。

 春野は普通の女子高生に。

 お互いが普通に戻るまで、協力関係を結ぶのだ。


 黙って聞いていた春野は、驚いたように目を見開いていた。

 そしてゆっくりと、その目をそらした。


「わたしは……柳川さんに何もできないです」

「おいおい、忘れてないか? オレたちの関係は、お前が脅したことで始まったんだぜ。今さら良い関係にしようってのも無理な話だ」


 これまで過ごしてきた春野との日々は、ただの脅迫でしかない。

 どんなに美化しようとも、正当化しようとも。

 オレたちはどこまでも、脅し脅された関係で。


「だからこうするんだ。春野がもう一度、オレのことを脅す」

「おどす、ですか?」

「これからも一緒にいるためにな。この関係を続けるための口実だ」


 この提案は、ふたりの決心を固めるための儀式だ。

 出会った時と同じ手段で、オレたちは生まれ変わる。

 一方的な関係から、互いに支え合う関係に。


「……柳川さんは、それでいいんですか?」

「そうでもしなきゃ一緒に居られねぇだろ。傍から見ればオレは女子高生を泊めてる危険なおっさんなんだからな」

「後悔、しませんか?」


 後悔という言葉が頭の中で響く。

 会社をクビになって、後悔していた。

 人殺しの女子高生をかくまって、後悔していた。

 後悔なんて今まででさんざんやってきたのだ。


「お前と別れる後悔もしたくねぇよ」


 オレがそう言うと、春野はふにゃりとした力のない笑みを浮かべた。

 その顔は、オレが今まで見てきたあらゆる人の表情の中で、いちばんみっともなく。

 そしていちばん、美しい笑顔だった。


 彼女の瞳が、まっすぐにオレを見つめる。決心を固めたように。


「柳川さん」


 オレの首に絡みつく、春野の両手。

 それは全く力の込められていない、形だけの首絞めだ。


「私といっしょに……生きてくれませんか?」


 やっと出てきた、春野の本心。

 素直にならなかった彼女が初めて、オレを頼ってくれた。

 誰も信用できなかった彼女が、オレを信用してくれた。


 オレは嬉しさのあまり、たまらず笑い声を上げた。


「そう脅されちゃあ、しかたねぇよなァ」


 オレがそう言うと。

 春野はぷっと吹き出した。

 そしてまたふにゃりとした、力のない笑みを浮かべた。


「あの。もっとかっこよく言えないんですか?」

「悪かったな、ダサくて」

「いや……その方が柳川さんらしいです」

「どういう意味だよ、それ」


 くすくすと笑う春野が、オレの首筋を優しくなでた。

 彼女の指は、細くて、柔らかくて、温かかくて。

 人を殺したとは思えないほどの、小さな手だった。


 だが今度は、この手が立ち上がるためのものになることを、オレは願う。


「柳川さん」

「おう」

「これからも……よろしくおねがいします」


 ここでようやく、オレたちの関係がはっきりとした。

 春野はオレを脅し、オレは春野に脅された。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 女子高生とおっさんの歪んだ関係は、ただそれだけの話で。


「あぁ、一緒にいてやるよ。オレが無職のうちはな」

「じゃあ、ずっと無職でいてくださいね」

「それは難しい話だな……」


 つまりなにが言いたいかというと。

 オレはまだ無職のままでいい——そういうことだ。

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脅し、脅され、女子高生。 ようひ @youhi0924

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