13 声


「おい、なんでマスクなんか付けてんだ?」


 会社員時代、小林が白マスクを付けて出勤してきた。

 彼女がマスクを付けている姿など、今まで見たことがなかった。


「あー……なんとなく、かな」

「風邪か?」

「いや、ホントになんとなく」

「なんとなくで付けるものでもないだろ」


 小林は笑っているような声を出した。

 顔が隠れているせいで、小林の感情を読み取ることが難しい。

 布が一枚あるだけで、距離感が遠くなったように感じる。


「マスク、外してほしいか?」

「おう。お前の考えてること、わかんねぇから」

「じゃあ、外すよ」


 あっけなくマスクを外した小林は、いつもの整った顔をしていた。

 そんな当然のことに、どこか安心する。


「なんだよ。そんなにあたしの顔、見たいのか?」

「別に。表情が見えねぇといろいろと面倒だろ」


 そんなもんか、と小林。

 お互いに仕事に取り掛かろうとすると、「そういやさ」と小林が言った。


「マスクって、ぬいぐるみみたいだよな」

「ぬいぐるみ?」

「よく子どもが持ってるだろ。これがないと不安だとか、安心するとか」

「安心……」


 そう言われて思い出す。

 確か、彼女の今日のスケジュールは——。


「会議か」

「そゆこと。不安なんだよ」

「そんなキャラじゃねぇだろ、お前」

「誰だって不安にはなるだろう? わたしだってそうだ」


 カッカと笑う小林の笑顔に、やっぱりオレは安心する。






 マスクを外した春野を前にして、そんな昔のことを思い出していた。


「また会えましたね、柳川さん」


 初めて見た春野の素顔は、ひとことで言えば、可愛かった。

 隠れていた鼻と口があらわになっただけなのに。

 マスクを付けている時は近付きがたい雰囲気だったのに。

 彼女の印象は大きく変わり、優しく温かな雰囲気だった。


「おい……」


 今、オレの前にいる春野の方が、本来の春野だ。


「お前、捕まりたいのか?」


 そんな彼女を前にすると、言葉がうまく出てこなくなる。

 春野であることは変わらないのに、まるで初対面の人と話しているようだ。


「オレの家の方が、安全だろ。こんな外なんかよりも……新聞に載ったなら、なおさら危ないって、わかりきったことだろ」


 春野は小さな唇をきゅっと結んでいた。

 そんなことはわかっている——そう言いたそうな、硬い表情だった。


「なんで家、出ていったんだ」

「柳川さんが、良い人だから」

「あ……?」


 オレは言葉を失った。

 良い人なんて、あまりにも突飛すぎる言葉だ。


「私をかくまってくれました。ご飯をくれました。ドレスを買ってくれました」

「それは……お前に脅されてたからで」

「無理やり私を押さえることだってできたんですッ!」


 春野の叫びが公園中に響く。

 今までの儚い声が嘘のような、大きな声だった。


「逃げようと思えば、いくらでも逃げられましたよね。あなたはそうしませんでした。それどころか、私を助けてくれたんです」

「それは……」

「そのことが、苦しいんです」


 違う。

 オレは逃げようとした。

 ちゃんとお前を見捨てようとしたんだ。


 そんな言い訳は、喉を通らない。


「こんなに良い人と一緒にいるのに、ひどいことしかできないし、ひどいことしか言えない。あなたが私にくれたものを、私はひとつも返せないんです」


 春野の悲しげな微笑みに、胸が締め付けられる。


「そんな柳川さんに……もう、頼れません」


 ああ、オレは。

 これっぽっちもわかっていなかったんだ。


「私はなにも、できないから」


 オレのようなクソ人間を、『良い人』だと言い切ってしまう春野のことを。


「……だから、出ていったのか」


 考えてみれば当然だ。

 誰が好きで包丁を持ち、血まみれになり、知らないおっさんのことを脅すだろうか?


 こいつは、オレを脅すしかなかったんだ。

 自分の取らされた選択に、苦しんでいるんだ。


「私だって……あなたを脅したくなかったんです」

「でも、そうするしかなかった」


 黙ってうなずく春野。

 見ているだけで、悲しくなる表情だった。


「だから……これで終わりにしましょう。私たちは、他人なんですから」


 春野は本気で出ていくつもりらしい。

 血まみれの制服を着ているのだって、オレの家に証拠を残さないため。

 負い目を感じ、オレに何も言わずに、消えようとして。


「今までありがとうございました。そして……今まで迷惑をかけて、ごめんなさい」


 胸が痛み出す。


 ——こいつ、マスクの下で、いつもこんな表情をしてたのかよ。

 ——こんなふうに表情を変えながら、オレと話してたのかよ。


「さようなら。柳川さん」


 それを知っていれば、オレはお前を。


 もっとお前を——大切にできたのに。


「おい……待てよ!!」

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