楓の木のもとに

神崎 ひなた

楓の木のもとに

 あのかえでの木を覚えている者はどれだけ残っているだろう。私たちが小学校を卒業するとき、創立百周年の記念に植えた苗木のことなど、一体誰が覚えているというのだろう。校庭の端をわざわざ重機で掘り起こし、腐葉土を敷き詰めて、苗木と一緒にタイムカプセルを埋め、二十年後またここに、と約束したことなど、きっと誰も覚えていないだろう。私もつい最近まで、そんな記憶など最初から無かったかのように忘れていたが、この歳になってようやく思い出したのはなぜだろう。

 

 あの楓は、どれほど大きくなっただろう。あれから七十年以上も経つことを考えればさぞ立派な大樹へ成長しているだろう。

 小学校はずっと昔に廃校となったが、再利用や解体の話が耳に入ってこないのは、そういったコストを捻出する余力があの町に残されていないからだろう。だから今でも校舎は当時のまま残っているだろう。楓の木は年々成長を重ねつつ、年々朽ちてゆく学び舎を見つめていたのだろう。


 八十二歳の同級生たちは今、どうしているだろう。すでにこの世を去った者も多いだろう。元気に頑張っている者もいるだろう。いずれにせよ佳境に迫りつつある人生と日々向き合っていることは間違いないだろう。卒業式以来、大半の同級生とは再会する機会も無く、当時は連絡先を交換することも簡単ではなかったため、今になって彼らの消息を知ることは難しいだろう。


 もはや同級生たちの顔や名前を思い出すことも難しいが、彼女の顔と名前だけはいつになっても忘れることはないだろう。家が隣同士だったので本当に小さい頃から一緒に過ごしていて、入学から卒業までの六年間もずっと変わらない関係が続いて、休み時間と放課後はいつも二人で遊んでいたので、他の同級生たちからすれば随分と立ち入り難く思われていたことだろう。そして陰ではデキているだの、夫婦だのとさんざん冷やかされていたことだろう。当時の私たちは、そんな事を気に留める余裕もなく、次はどんな風に遊ぶかと考えることで頭がいっぱいだったはずだろう。


 楓の苗木と一緒にタイムカプセルを埋めたとき、私たちはお互いに変らないまま二十年後を迎えると信じて止まなかったはずだろう。だが、タイムカプセルは今もなお、あの木の元に埋まり続けているだろう。三十二歳の私たちは自分の人生の面倒をみるのに精一杯で、二十年前の約束を思い出す余裕など誰にも無かったのだろう。あるいは、二十年という時間は、私たちをどうしようもなく別の人間に変えてしまったということも、少なからずあるだろう。


 彼女とは中学、高校と時を重ねるにつれ少しずつ疎遠になっていき、最後に交わした会話の内容すら思い出せなくなる日が訪れるとは、当時の私からすればとても信じられない話だろう。時の流れがもたらす忘却という名の空漠を、その途方も無さを、身をもって痛感することになるとは夢にも思わなかっただろう。


 今にして思えば、私は彼女が好きだったのだろう。そしておそらく彼女も私を好きでいてくれたのだろう。だが、今となってはすべてが遠い昔の話でしかないだろう。いかに過去の記憶が美しく、代えがたいものだったとしても、それは過去の記憶であるという以外になんの意味も持たないだろう。


 私はこの歳になるまで家庭を持つことは無かったが、それはそれで、悠々とした生活を送ったということになるだろう。一方で、自分の人生に満足しているかと言ったらそれは嘘になるだろう。おそらく私の最期は、とても寂しいものになるだろう。今まで目を背けてきた事実が、時間を経るにつれ現実味を増していくだろう。清算を迫られる日は、そう遠くない日に訪れるだろう。だが、すべては受け入れるしかないのだろう。

 

 過去を変えることは誰にも出来ないが、過去に縋りついて、美しい記憶で自分を慰めることは誰にだって許されるだろう。例えば、とっくに忘れ去られた、二十年後の自分たちに宛てたメッセージを、自分勝手に掘り起こしたところで今さらバチが当たることも無いだろう。

 今になって楓の木のことを思い出したのは、天啓のようなものだろう。もう、こんな歳だが――いや、こんな歳だからこそ、やるなら今しかないだろう。


 廃校となった小学校に老人が一人、迷い込んだところでそうおかしな話ではないだろう。思い出を頼りに微かな記憶を懐かしもうという気持ちは、私だけに在るものではないだろう。

 足腰に不安はあるものの、小学校はそう遠くない場所にあるので問題なく辿り着けるだろう。準備にもそれほど時間はかからないだろう。詳細な地図はコンビニでも手に入るだろう。スコップならどこのホームセンターにも売っているだろう。

 十月の中旬は朝の空気こそ凜としているものの、太陽の勢いは徐々に強くなっていくだろう。だから、暑さ対策は万全に備えておくべきだろう。


 タオル、薄い塩水、地図の入ったボロのかばんを肩にかけ、スコップを片手に、最寄り駅から普段とちがう路線に乗って四駅先で降りた私は、なんと驚かされたことだろう。この町は、いつの間にこれほど近代化が進んでいたのだろう。小学生の頃に遊んでいた裏山も、小川も、野原も、駄菓子屋も、みんなビルに成り代わってしまって、一体どこへ行ってしまったのだろう。記憶とは違う光景を前に、しばらく東口でぼんやりと立ち尽くすしかなかったが、通り過ぎる人々はさぞかし私を邪魔に思ったことだろう。

 もはや記憶は頼りにならないだろう。コンビニで買った地図と、小学校の地番を照らし合わせて進んでいくしかないだろう。


 さまようこと小一時間、どうにか小学校へと辿り着けたのは、古くから残されたままのお地蔵さんや、道端に取り残された小さな祠をたまたま見つけて、それが記憶に残っていたおかげだろう。

 時間の流れは、これからも町の姿を容赦なく変えていくだろう。しかし、あのように得体の知れない由緒を持つものたちは、まだしばらく町の片隅に在りつづけていくだろう。


 小学校はどうやら、住民の憩いの場として常時開放されているらしかったが、誰も好き好んでこんなところには訪れないだろう。どう取り繕っても拭いようのない寂れた空気が、人々を本能的に遠ざけるだろう。にも拘わらず、私をどこか落ち着いた気持ちにさせるのは、七十年前の記憶が悪さをしているせいだろう。ずっとこの空気に包まれていたい気もするが、そういうわけにもいかないだろう。夕暮れが近づくにつれ日射の脅威は去りつつあるものの、小一時間の探索による体力の消耗は、自分で思っているより遥かに激しいだろう。帰りの事を考えれば、長居をするべきではないだろう。


 楓の木は、校舎と同じくらいの高さにまで成長し、想像よりも一回り立派な佇まいで私を驚かせたが、この大きさを見れば、きっと誰もが同じように圧倒されるだろう。そして、一本の苗木を巨木にまで育む七十年という月日を想わずにはいられないだろう。紅葉にはまだ早いようだが、あと数週間もすれば見違えるほど美しい紅に染まることだろう。


 木の下には、塗装の剥げた古いベンチがぽつんと取り残されていて、そこに一人の老婆が座っているが、あれは一体誰だろう。どこかで見たことのあるような気もするが、自分の記憶ほど頼りにならないものも無いのだから、おそらく他人の空似だろう。


 老婆以外に人の気配は感じられなかったので、ここぞとばかりにスコップを地面に突き付けたが、まさか七十年という年月が、腐葉土をこれほどまでに硬くしているとは思わないだろう。認識不足、準備不足、体力不足、足りないものを片っ端から頭の中から追い出そうと躍起になってスコップを振るうが、体力の限界はそう遠くないうちに訪れるだろう。

 たちまち無力感が全身を駆け抜けていくが、抗うだけの気力も残されておらず、ともすれば、一旦休憩とばかりにスコップを放り出し、よろよろとベンチに腰掛けるしかないだろう。先客である老婆からすれば無遠慮な輩と思われるかもしれないが、ちょうど空いている一人分のスペースに座りそうな者がどこにも見当たらない以上、取り立てて気にすることではないだろう。


 かばんから薄い塩水を取り出しつつ、横目で老婆を眺めると――――眺めれば眺めるほどに、思い出が、記憶の奥底からゆっくりと蘇ってくるのはなぜだろう。どこにでもいそうな老婆の横顔が、これほどまでに私を戸惑わせるのはなぜだろう。心臓が激しく鼓動しているのは、おそらく体を動かした後だからというわけではないだろう。

 たしかに彼女の面影が全く無いと言えば、それは嘘になるだろう。小学校を訪れるにあたって、もし偶然、彼女に再会できたらどんなにいいだろうと、全く考えなかったと言えば、それは嘘になるだろう。だからこそ、自分にとって都合のいいようにしか物事が見えていない可能性も疑うべきだろう。都合のいいことなど、そう簡単に起こるはずがないだろう。

 だが何万分の一でも、何億分の一でも、いまこの瞬間だけでも都合よく、運命の歯車が嚙み合うこともあるだろう。どんな時でも可能性はゼロではないだろう。この機会を逃したら、もう二度と巡り合えることはないだろう。

 人違いなら、謝れば済むだけの話だろう。やらずにする後悔より、やってする後悔の方がいいだろう。

 私は塩水で唇を湿らせ、出来るだけ小さく咳ばらいをして、いざ声をかけようと老婆を見ると、全く同じタイミングで彼女はすっと顔を上げ――――


「おじいさん、どこに行ってたんですか。夕ご飯の時間ならとっくに過ぎてますよ」


 その瞬間、太陽がビルの影に隠れたのだろう。オレンジ色の残光が楓の木を照らす様子は、実に美しいものだっただろう。

 老婆の瞳がきれいに見えたのは、純粋な優しさが浮かんでいたからだろう。その瞳に映っていたのは、私ではない別の誰かに違いないだろう。しかし、それが誰なのかを語ろうとするとき、彼女の口からは支離滅裂で、時系列も定かでない言葉ばかりが飛び出すだろう。そういう意味で言えば、私たちは同じように物事を見ているのだろう。私の目に映る彼女もまた、すでに私の知る彼女ではない、別の誰かなのだろう。


 時間とは、途方もなくすべてを飲み込んで無に還してゆくのだろう。いつしか忘却という名の空漠に、誰しもが、途方なく、際限なく、どうしようもなく、飲み込まれてゆくだけなのだろう。

 そう確信した途端、目の前に空白が広がって、

































「おばあちゃん、そろそろ帰りましょう」


 三十代くらいのショートカットの女性が、老婆に手を貸して立ちあがらせようとしていた。私は、茫然とその光景を見ていた。女性が軽い会釈をして、老婆と一緒にゆっくりと去っていく。


 一人取り残された途端、今日やってきた事のすべてに、まるで確信が持てなくなっていた。そもそも、どこまでが本当の話なのかよく分からなくなっていた。楓の木は本当に私たちが植えたのだったか。タイムカプセルなど本当に埋めたのだったか。大体、この小学校を本当に卒業したかどうかすら、今では確証が持てない。

 すべては寂しさのあまり生み出した妄想に過ぎなかったのかもしれない。だが、どこからが現実で、どこからが虚構だったのか、今となってはすべてが心もとなく、確かめようもなかった。


 どれだけ時間がたったのだろう。名前を呼ばれたような気がして顔を上げると、見慣れないワンピース型の白衣を着た女性が立っていた。校門のあたりには数台のパトカーが止まっているようだった。


「探しましたよ。今日はずいぶん遠くまで来ましたねぇ」


 聞き覚えのあるような声だったが、それが誰の声なのか、はっきりとは分からなかった。差し出された手を握ると、言いようのない暖かさを感じた。同時に、自分の手がすっかりと冷え切っていることに気が付いた。


「さぁ、帰りましょう」


 私は促されるままに立ちあがり、かばんを肩にかけ直した。もうすっかり日は沈んでいて、どこからか風が吹いてきた。微かだが、刺すように冷たい秋の風だった。


 校門のあたりで振り返ると、楓の木は暗闇の中でぼうっと佇んでいて、かさかさと未熟色の葉を揺らしていた。

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