原文

愉しみの後にやってくる苦しみの反動は大きい。

それが他者との関わりであれば尚更だ。

では何故に、それでも私は人と触れ合う事を望むのか。

それは一重に、人間同士の交わりによってのみ得られる悦びがあるからだろう。

私は他人の心がわからない、そして同じように私自身の心がわからない。

人は一人一人が違う存在だ、違う心を持っている、それに人は例外なく嘘をつく、それは自覚しているものもあれば、無自覚なものもある、なればこそわからないのが当然なのだ。

しかし、他人と言う鏡を通すと自分の心が、自分と言う鏡を通すと他人の心がわかる。

いや正確には、わかった気になったような幻想を抱けるのだ。

その幻想の快感を何物にも代え難い、その後に苦しみがあるとわかっていて尚追い求める程に。

だがそもそも人をわかるとは、自分がわかるとはどういう事なのだろうか。

鏡と言ったが、その鏡は酷く曇っていて、眼を凝らさなければ見えてこない。

そして鏡である以上、そこに写し出されるものは虚像なのである。

これを言い方を変えれば、人の言葉や仕草等のあらゆる合図から、その人の心を推し測り、それの中の自らと同じ事や、また差異を通して、自らの心も推し測ろうとする行為であり、推し測る以上それは、どこまでいっても確信に似た推測以上にはなり得ないと言う事であろう。

この推測と言うものは都合の良いもので、自らに快いものだけを見ることができる。

より正確には、自らに不快なものは見ないふりができるのである。

であるからして人との触れ合いは、その一時は大変に熱をおびて悦びに満ちているが、その一時が過ぎてしまえば、つまるところ独りになり熱から覚めて、それまでのことを自問自答して、その滑稽さに気付かされた時に酷く居心地の悪さを覚えるのである。

これが私が人中で愉しけれは愉しい程、その後に大きな苦しみが反動としてやってくる、その理由ではないだろうか。

無論これは一つの側面に過ぎず、言葉にして説明する事ができない、もっと単純な社会的動物としての人間の、他者との関わりを求める本能的なもの、そう言った要素に起因する等もあるのだろう。

ただ一つ確かなことは、私にとって他者との関わりは最大の悦びであり、最大の苦しみであると言うことである。

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宴の後に――ビートニクを偲んで―― @MeatOgg

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