3 穴とピアス
穴だらけの私に対して、ぴったりとはまり込むような刺激。胸のうちに開いた疑問を埋めてくれる答え。閉塞した現実を、貫き穿ってくれるような【ピアス】を求めていたのかもしれない。
穴がないなら開けてくれ。
偽物の<愛>ばかりが与えられる世界なんて。正しくもない<愛>なんて。
「どうしてあんなことを?」
放課後の教室。夕日で染め上げられたなかふたりきり、私は慈羽の目を覗き込んだ。彼女の端子は水槽の熱帯魚みたいに宙を彷徨っていた。校則違反なのに隠そうともせず、セーラー服からはみ出させて、これ見よがしに青く光らせている。
介抱され、舌を回すだけの力を取り戻した私は、すぐさま彼女に噛みついた。
本物を探していると言ったくせに、彼女は脱法恋愛なんかに現を抜かしていた。恋愛資格で正当化したところで、どれだけ偽物を重ねても本物になることはない。彼女の言葉が欺瞞でなく、愛の区別がついているというのなら、その行為には一体どんな意味があるというのだ。
「天使が地上にやってくるのは、舞い降りているんじゃなくて墜落しているんだ。天界の、綺麗なお題目ばかりの世界では見つからなかった愛を探して、堕落してくる。頭から真っ逆さまに」
開け放たれた窓から風が吹き、カーテンが揺れた。西日がちらついて、私の敏感な目に染みた。
ふと、一瞬なにかが日差しを遮った。
鳥だろうか。影が窓の外を、素早く通り過ぎた。
「政府が恋愛に資格を導入した理由を知っている?」
重たいものが――例えば、砂の詰まった土嚢みたいなものが――落ちた音がした。
「愛情の価値観を固定して、国民を制御しようって腹づもりだった。行き過ぎた道徳教育を親に行わせる。子供のころから刷り込まれた思想は容易には消えない。幼にしては父母の<愛>に従い、社会にあっては国家の<愛>に従い、老いては子の<愛>に従う。耳障りを良くした<愛>の三従。ただし、<愛>の中身は国家によって厳しく、正しく規定されている」
慈羽は窓を背に、逆光で顔を覆い隠す。彼女は今、どんな表情で私と相対しているのか。うかがい知ることはできない。
「反発する者には快楽を。脱法恋愛、【ピアス】による違法な接合。意図的に作られた、密やかな流行。反抗的な国民たちはみな、快楽に溺れ、偽物の<愛>に踊らされ、思考を停止し、抗えなくなる。正しい<愛>と逸脱した<愛>の両翼を以て、政府は無垢な人間を包んだ。別名、『愛のまどろみ』計画。偽の<愛>によって、無自覚に不自由な私たち」
また落ちた。
また落ちた。
次々落ちた。
一瞬、垣間見えた顔には覚えがあった。絵葉西湖だ。ほかにも彼女の端子を受けた子たち。クラスの子たち、見知らぬ上級生下級生、教師。どんどん落ちてくる。無数に落ちていく。校舎の上から真っ逆さまに。
「社会や国家なんて集団は、そもそも個人の自由を抑制する存在なの。全体の利益のために、個人の自由を制限して、どこから生じたかも定かでない意志で回り始める――リヴァイアサン。そいつは本物の愛を抑制する。鎖を嵌め、足枷を付け、思考を鈍重に、倫理で枠に押し込めようとする。真実の追求を邪魔してくる。だから、まずは怪物を殺す」
学校の屋上からだけじゃない。視界に映る雑居ビル、オフィスの非常階段、高架橋。あらゆるところから人が落ちている。老若男女を問わず、人間が真っ逆さまに。
「なにを……」
私の声は掠れ、最後まで言葉にならなかった。驚きでも恐怖でもない高揚が、私の喉を絡めていた。じっとりと熱く、脳が熟れていく実感があった。
「トイレでの密会は、いわば保菌者を作る作業だったの。【ピアス】を通じて、当人たちも気付かないうちに私の思考に感染させた。彼女たちは【ピアス】から、私というウィルスを広めていった。この病んだ社会全体に、遍く、隅々まで。この【ピアス】から脳を侵した」
「そして……洗脳して、飛び降りさせた?」
狂っている。目の前の女は間違いなく狂人だった。
いかれた思想があり、それを実行するだけの意志と力を持っていた。【ピアス】による思想汚染。彼女は手加減をしていたわけじゃなかった。より恐ろしい、人格を破壊するよりも性質の悪いテロル。いや、これは彼女にとっての愛なのか?
彼女は呟く。すべては正しい愛のために。
「勘違いしないで欲しいのだけれど、私は常に他人と解り合おうとしてきた。誤差のない、深い相互理解こそが愛の深淵で真実だと信じているから。【ピアス】は愛を手助けする理想的な道具だとすら思った。けれど、【ピアス】には限界があった。ダイレクトに思考や感情を共有しても、それは相手のものにはならないし、なってしまえば洗脳でしかないという事実に落胆した。
伝える時点で、五感による伝達と何ら変わらないと気付いた。違うとすれば情報の速度と正確さぐらい。どうしたって決定的な隔たりがある。相手の自我を取り除かずに、誤差のない相互理解は実現不可能だと悟ったの。他人が他人として存在する限り、完全な相互理解という愛は存在しえないのだと」
慈羽は伸ばした掌を私の掌と重ね合わせた。彼女の手は冷たいチタンの端子とよく似ていた。
「けれど、私は愛の実践を諦めたわけじゃない」
「愛の、実践?」
「他人が他人のままで完全に理解し合えること。洗脳でもなく、誤解もない。本当の愛の追求。私は他人と愛し合うことを諦めたくない。そのために可能な限り、ふたりの間に流れる雑音を消し去らないと。個人を抑制し、思考を邪魔する社会を消さないと。他人はたったひとりいればいい。私とあなた、最小単位まで関係を縮小する。余計な条件、目障りな変数は排除して、ふたりきりの、純粋な愛だけの密室でないと」
「どうして私なの?」
慈羽はぞっとするほど優しく微笑んだ。
「矛盾を、限界を超えて、他人を他人のまま愛せるか。その点において秋名さんは適任なの。あなたは私とよく似ている。本物の愛を求めておきながら、その実他人を心底軽蔑している。この世界で唯一他人を挟まずに成立する、本物の愛を体現しているから」
「それって?」
「自己愛よ」
屈辱の砂を噛んだ。それは私が大嫌いなママと同じだということだ。
「そんなはずない」
「否定することないわ。自己愛は自己保存の観点からして、生物として至極当然の愛情。誰しも少なからず持っている。秋名さんの場合、それが肥大化してしまっただけで」
曰く、私は排他的な超絶ナルシストなんだと。容姿や能力ではなく、自分という存在の殻に籠り自家中毒を起こしているのだと。
彼女は私の分析を語った。それが正解かはともかく、彼女が私を変質なまでに細かく観察していたことに驚いたし、私をみている人間がいたことに快感を覚えている自分がいた。
私の自己愛はママへの抵抗感に端を発し、体質がそれを助長した。自分を卑下し、貶めることで、他人との区別を明確にして自我を保っている。自らが社会不適合者だという考えは、他人を恨む免罪符となる。他人への否定と拒絶は自己の特別感を高め、自身の欠点は裏返り、他者への優位性へと昇華される。そんな他己分析だった。
「似て非なるからこそ、自己愛の限界を越えられるかもしれない」
彼女は期待を込めて私を見つめた。
この女はずっと私のことを狙っていたんだ。
愛の限界を超えるなんてお題目のためだけに、今も人間を落とし続けている。世界でたったふたりの人間にして、厳選した他人として私を残した。
「さぁ、あなたも古い<愛>を壊しておいで」
彼女はポケットから黒くて、重たい、死の実感がする凶器を取り出し、私の手に握らせた。
「これは?」
「これは穴を開ける装置だよ。この世界に風穴を、閉塞を壊して息を吸うための穴を」
冷たい手触りだ。使い方は教えられずとも理解できた。彼女がこれでなにを為せと示しているのかも。
「……ママ」
自然派のママはまだ生きている。ママは【ピアス】をしていないから、慈羽の思考汚染も受けていない。
「間違った<愛>を否定して、そこから新しい、本物の愛をはじめよう。それがあなたの望みでもあるはずでしょう?」
彼女は選択を迫る。
「選んで」
間違いだらけの<愛>か。
世界を貫くピアスか。
自分はどちらになるのか。
掌に収まった重さは、元々体の一部であったかのように馴染んできた。
私は望んでいたはずだ。穴を探していたはずだ。
間違いだらけの世界に穴を開けろ。私が正しくあるためには、間違いを壊さなければ。間違いを押し付けてくる、間違いが蔓延している、矛盾が絞め殺そうとしてくるならば。否定して、破壊するんだ。
世界に穴をあけるんだ。
私は駆けだした。
学校の外では人が落ち続けている。
途切れることなく、ぼとぼと。通学路は血と肉でぬめっていた。
落ちている。次々、落ちていく。
世界は斜陽で、真っ赤に染め上げられている。
夕焼け小焼け。早く家に帰らなきゃ。
ママ。ママ。待っていて。すぐに帰るから。
真っ赤になった私は、息を切らせて家になだれ込んだ。
家の扉を蹴り破り、玄関から転がりながらリビングへ。外の様子を知り怖れ慄いているママを見つけた。へたり込んで、恐怖に目を見開いて、すがるように私を見上げているママ。
私の嫌いなママ。私を<愛>しているママ。自分のことが大好きなママ。
「きなちゃん?」
恐怖と困惑で見開かれた目。なにひとつ私を理解せず、私が向ける気持ちにも気が付かない。今の私がどんなに幸せなのかも。
「ママ、<愛>してるよ」
引き金を引いた。
私は世界に穴を開けた。
穴とピアス 志村麦穂 @baku-shimura
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