男達の荒野

一齣 其日

男達の荒野

 増え過ぎてしまった人類が大気圏を越え星の彼方へと旅立っていく時代にあっても、彼らの娯楽は早々変わるものではなかったらしい。

 特に、闘争の舞台はそうだ。

 人はどの時代にあっても、肉と肉とがぶつかり合う様を求め、血が舞う様に高揚する。

 それは、地球から追いやられ火星を新たな住処とし、荒野の開拓に従事するしかない貧困に喘ぐ人々であったとしても、例外ではない。

 作り上げられた街々には、必ずと言っていいほどにリングがあった。

 そして、娯楽を求める人々と同時に、拳に意地と矜持と自負とを握って、戦い続ける男達の姿が其処にはあった。


 …………


 眩く照らされたリングに、鈍色の血が舞った。

 豪快な右のスイングに、雄吾は頬を弾かれるどころか皮を裂かれた。

 第3ラウンド中盤、鎬を削った撃ち合いの拮抗が崩れた瞬間だった。

 ぐらつく上体に、もつれかけた足。

 スイングの衝撃は口の中にまで突き刺さったか、舌に滲むは鈍い鉛味。

 リング外からは口喧しい観客の狂騒がとめどなく飛んでくる。

 いや、飛んでくるのは叫びだけじゃない。

 真正面から拳の連打、リーチの長いジャブがさらに追い詰めんと牙を剥く。

 ガードが下がった顔面に、1、2発。

 からの、右ボディアッパーが反射的に上がってしまったガードの隙間を縫って、突き刺さる。

 鋭い拳だったが、呻きをこぼすなんて無様な姿を晒すほど、雄吾はやわな鍛え方はしちゃいない。

 むしろ、アッパーを撃たんがために間合いを詰めた相手に対し、踏み込んで返すは左フック。

 が、相手は背中を軽く逸らすスウェーで余裕で拳に空を切らせてまた2、3発。

 拳をさらに貰った体で、なおも諦め悪く雄吾がパンチを返そうとした時には、すでに間合いを外されていた。

 あのスイングまでは、確かに撃ち合えていたはずだった。

 それが、今は拳一つも擦りやしない。

 リズムを完全に奪い取られ、コンビネーションに翻弄されてばかりだった。

 歯痒い。

 加えて、見下したようなあの目つきに唇を突き上げながら笑む姿が、無性に腹立たしかった。

 実際、見下しているのだろう。

 そもそもの始まりがそうだった。


『負け犬の子はなぁ、負け犬にしかなれねえんだよ』


 いつか奴が試合で倒したという雄吾のトレーナーもろともに、雄吾自身をも嘲けり笑った奴の言葉が、この試合の発端だった。

 そんなきっかけでも無ければ、雄吾と奴との試合なんて組めたものではなかったであろう。

『エース・ジョンソン』

 アウトボクシングを己のスタイルとしながらも、定石とするカウンターではなく自らアグレッシブに攻め入り、並み居るボクサーの悉くを屠ってきた黒人ボクサー、それが奴だった。

 奴の実力は、火星にいくつも開かれたリングで乱立するチャンピオンの中でも、相応の実力を持つチャンピオンボクサーの一人だと言っても過言ではない。

 現にエースは、数えるのも億劫になる程他のリングに立ったチャンピオンを悠然と薙ぎ倒した実績を持っている。

 対して、雄吾はどうだ。

 年齢は20、青臭い攻撃的なインファイトが持ち味のボクサーだ。エースと同じくチャンピオンボクサーを倒したこともある。

 経歴だけ見れば実力者には変わりないが、リングに立って四年目で技術もまだ荒削りだ。十年以上のキャリアを持つエースに比べれば数段見劣りしてしまう。

 ボクサーとしての立場もそうだが、それ以上に雄吾とエースでは体格にどうしようもない差があった。

 エースは黒人らしく、磨き抜かれた艶のある黒さがあり、加えて大きな体だ。背丈は185を超えてるかもしれない。

 太い骨格を持つ恵まれた体躯に、日々怠らず重ねたトレーニングで手に入れた太く張りの強い筋肉は、リングに立てば誰もを圧倒する存在感を放っていた。

 雄吾の体も決して悪くはない。

 背丈は180を超えないが、筋繊維一つ一つに闘気が編み込まれたような体をしていた。

 彼もまた焼けた鉄を休まず叩くようなトレーニングを重ねたことで、鉄以上に打たれ強い体と容易くは砕けない筋骨をその身に有している。

 それでも、エースの体と並べば現実以上の体格の壁を雄吾に感じさせてならなんだ。

 本来の階級制で見れば雄吾は精々ウェルター級であるが、エースはどう見てもそれ以上。

 少なく見積もっても2階級以上の差が雄吾とエースにはある。

 2階級とはいえ、ボクシングでは階級の壁は厚い。試合を組むこと自体が無茶な話だった。

 だが、火星のリングに階級制は存在しない。

 両者が合意し、リングのプロモーターが彼らの試合に儲けを見込めさえすれば、どんなに無茶な構成だったとしても試合を組むことができる。

 エースと雄吾の一戦も、二人の因縁が勃発し、そこに観客が乗っかったが故に階級差を無視して組むことができた。

 ボクシングのルールが完全に成り立っている地球と比べると、未だ火星のボクシングの未熟さが現れている点でもあろう。

 下手をすればワンサイドゲーム、体格差から生まれた圧倒的力量の差で相手が壊されることも珍しくはない。

 常に危険極まりなさが火星のリングでは付き纏っていた。

 だからと、ビビってなんかいられなかった。

 拳が掠めなかろうが関係は無い。

 がむしゃらに歩んできた己が足跡を、ただの一言でもバカにされたらもう引っ込めやしない。

 あの見下し切った奴の顔を歪めでもしなければ、雄吾の腹立ちはもうおさまらなかった。


「こん……野郎ッ!」


 血が上った。

 体を小さく構えて突進、得意のインファイトを仕掛けようと間合いを詰める。

 エースのボディを狙って、拳を構えた。

 素早いダッシュだった。

 が、真っ直ぐすぎた。

 そいつに合わせて、出鼻を挫くようにまたジャブが飛ぶ。

 このジャブが雄吾を懐へと入らせなんだ。

 リーチが長く、尚且つ疾い。

 今更雄吾が頭を振っても、ジャブが一足早く顔を叩く。

 頭を起こされた。

 足が一瞬でも止まったと見れば、すかさず放った右ストレートを起点に、攻勢に出た雄吾のお株を奪わんばかりに攻め立てた。

 遠い間合いから放たれたパンチは、手数も多く雄吾の体をサンドバッグの如くめった打ちだ。

 アグレッシブさはそのままに、上下に打ち分けて意識も散らしにかかっている。

 体重差がある故か、雄吾の体をガードごと崩しかねない重さもあった。

 サイドへと見えた抜け道もエースの罠だ。踏み出せば待ち構えたかのように真っ直ぐパンチが飛んできて、雄吾の頭にヒットする。

 ならばと、果敢に正面から勝負をかけようとすれば、奴のジャブの出先に瞳が反応した隙を狙って、右ストレートが鼻先を叩く。

 鼻の奥から、熱いものがごふと吹き出した。

 口の中に広がっていた鉄の味が、より深みを増していく。

 フットワークとフェイントを織り交ぜた重い一打一打に、雄吾はもう対応し切れてはいなかった。

 気づけば体はコーナー際、正面からは休むことを知らない連打の濁流。

 こうなればもう突進も何もない、とめどなく撃たれる拳にただただガードを固めるしかなかった。

 第3ラウンド終盤、流れは完全にエースのものとなっていた。

 いっそ、このラウンドで決着をもつけてしまわんばかりの勢いすらあった。

 左、右、左、下、上と拳の連打が雄吾を見舞う。

 亀のようなガードも外側から力任せに腕を崩して、打ち下ろしを雄吾に当てた。

 強引だが、上手かった。

 エースの攻め様に、観客は皆一様にして熱を上げて歓声を起こす。

 とっとと沈んでしまえと、雄吾に野次を浴びせる者すらあった。

 雄吾からしてみれば、なにくそだった。

 その野次や目前の見下した眼差しなど、全てが全て雄吾の闘争心をさらに昂らせるだけだった。


 そうだ、まだテメェに目に物見せてもいねえのに、倒れてなんかいられるかよ……ッ!


 ゴングが鳴った。

 中盤からは、エースがラウンドを完全に支配していたと言っても過言ではない。

 第1、第2ラウンドは、まだ雄吾はエースと鎬を削った撃ち合いができていた。

 否、エースも雄吾と同様にアグレッシブな戦いに付き合って、撃ち合いをしていたと言ってもいいのかもしれない。

 撃ち合うことで、エースは雄吾のファイトスタイルを見切り切ったのだ。

 その証拠に、この第3ラウンドで流れを一気に持っていった右のスイングは雄吾の突進にタイミング良く合わせた一撃だ。見極めていなかったら放てなどできちゃいない。

 守勢に回らざるを得なかった雄吾は、右スイングの一撃以降、黒い身体に拳をひと擦りもできなんだ。

 拳に打たれ続けた雄吾の身体は満身創痍。

 スタミナも無限じゃない。背負ったダメージも相まって、息も上がっているように思えた。 

 このエースは、どんなスタイルで攻められようと全てを凌駕して叩きのめす。

 奴と己との実力差をこのラウンドで明白に突きつけた筈だった。

 なのに、奴は凌ぎ切りやがった。

 コーナーに背を預けさせられて、ガードの上からですら体を貫く重い拳をくらい続けたというのに、ダウンすら取られなかった。

 パンチの嵐に見舞われようと、終ぞ反撃の機会を失わんとしてたは、奴の目を見れば一目瞭然だ。

 瞳の奥に揺蕩う炎は、一層爛として輝きを絶やしちゃいなかった。

 ……不愉快だった。

 呆れるほど猪突猛進な馬鹿をなぶり撃ちにして気を晴らしていたはずが、エースは途端に白けてしまうものを感じていた。

「とっととおねんねしておけばよかったのに……後悔するんじゃあないぞ」

 見下した目つきで相変わらず嫌味なセリフを吐きつけると、セコンドへと踵を返す。

 負け犬にこれ以上時間を使わされるなど、プライドがもう許さない。

 胸の奥で不快な熱さが沸々と煮えていく。

 その熱さすら、エースは不愉快極まりなかった。

 雄吾も同様だった。

 雄吾は元来頭に血が上りやすい。

 あれだけ殴られて、嫌味なセリフを吐きつけられて、腑が煮えない男ではない。

 どころか、相当の不快な熱が奴の腹の中でも煮えたぎってしょうがなかった。

 後ろからぶん殴ってやろうとすら頭を過った。

 そんなことをしてしまえば卑怯者の烙印を押され、正真正銘の負け犬そのものだ。

 どうしたって歯痒い。

 握り締めた拳にはやりようのない怒りが滲み溢れていた。


「怒りに任せるな、バカやろッ!」


 ぐつぐつとした怒りごと、怒声が耳を劈いた。

 仁王立ちにセコンドで待っていたのは、見飽きた髭面の男だった。

「とっとと座れ! 止血だ止血!」

 急かされるように座らされると、髭面の男ーー坂東は慣れた手つきで雄吾の頬から止めどなく流れる血を止める。

 髭もそうだが痣も残るいかつい面と大きすぎる声、いかにも無頼漢な男ではあるがカットマンとしての仕事は丁寧だった。

 雄吾のトレーナーとしても、そうだ。

「もっと防御も意識しろ! フットワークを使え! 当てられることを上等でインファイトを仕掛けるんじゃあねえッ!」

「だああ、うっせえなクソのおやっさん! フットワークだとか防御だとか俺には合わねえんだよ!」

「合わねえで済ませたら、負けるぞお前ッ!」

 ぎらりと剥いた瞳孔に、思わず雄吾は息を飲み込まざるを得なかった。

 自覚はある。

 特に3ラウンド終盤、怒りに任せた無茶な突進は自身を窮地に追い込んでしまっていた。

 なんだったら、怒りに駆られた結果、ピンチに陥った試合も思い出せばキリがなかった。

 血の上りやすさはいつものことだが、ここまでくると笑って済ますこともできなかった。

「大方奴さんはな、お前の動きを掴んじまってんぞ。最初のラウンドで撃ち合ったのはお前を知るためよ。気ぃつけろって言ったのにまんまと乗せられてなぁ……」

 ぐうの音も出なかった。

 でも、相手の拳に応えて、真っ正面に叩き潰さなきゃ気が済まなかった。

 いつかの記憶が蘇る。

 リング外でのすれ違い、ちょっと肩がぶつかったことから始まった奴との因縁。

 ぶつかってきたのはエースの方だったにも関わらず、雄吾といつぞや昔に倒した坂東を見て、途端に奴は見下すような目つきで押し退けた。

『雑魚と負け犬……いや、負け犬の子は負け犬、か。猪突猛進しか取り柄のない野良犬ボクサー、負け犬仕込みらしい噛み付き方だ』

 嫌味な笑みを見せて、坂東共々自身を散々に嘲笑った。

 終いには、拳で噛みつこうとした雄吾を足で引っ掛け倒し、文字通りに反吐を顔に吐きかけて、笑い者にする始末。

 悔しかった。

『負け犬』、そう言った奴の言葉を否定してやりたい。

 勝負もしてねえのに負け犬だと嘯くあの男の顔を、歪ましてやりたい。

 瞳の奥の炎が、また一層の火柱を上げていた。

 坂東にも、それがよく見えていたらしい。

「……ま、お前の気持ちは分かっているつもりだぜ。悔しかったよなあ……ほんの昔、俺があのエースの野郎に負けちまったから、お前もバカにされたんじゃあ……たまったもんじゃあねえよな。それにお前は、ドがつくほどの負けず嫌いだ。じゃなかったら、俺にボクシングなんか教わっちゃあいねえよな」

「……んだよ、藪から棒に」

「いや、つい昔のことを思い出してな」

 彼らの縁は、雄吾が坂東の財布を掠め取ろうとしたことからだった。

 当時、まだ周りの浮浪児と比べても貧弱だった雄吾を、坂東は苛立ち紛れにめった打ちにしようとした。

 同期に嵌められたことでボクサーの道を断たれ、そう経っていない頃だったのだ。

 冴えが残っていた拳で、何度も何度も向かってきた雄吾を容赦なく叩きのめした。

 夢を諦めきれない拳は、浮浪児相手だというのに馬鹿みたいに本気になっていた。

 そんな坂東相手だったのに、ガキはしつこいくらいに噛みついてきた。

 うんざりしたのを今でも坂東は覚えている。

 ズタボロになってようやく雑巾のように転がったガキは、しかし、まだ瞳に光を失ってはいなかった。

 痩せさらばえ飢え切り動けそうにもない野良犬が、なのに、まだ牙を剝いて喉笛を喰らわんばかりの光を宿していた。

 己より格上の男を前にし、数多の傷を背負ってさえも、前のめりに立とうとしていた。


 負けてやるか

 このまんまで、終わってたまるか


 夢を見た。

 その尋常じゃない執念を宿す少年に、失った筈の夢を坂東は見てしまった。

 勝負を決めるのは、いつだって執念だ。

 コイツなら自分が辿りつけなかった高みへと行けるかもしれない、そう思ってしまった。


『俺を倒したいんならボクシングだ! 強くなりたいなら、俺からボクシングを学んで、そして俺を倒しに来いッ!』


 挑発がよく効いた。

 負けず嫌いで意地っ張りなこのガキは、強くなるためなら努力を惜しまなかった。

 時に意地を張り合い、馬鹿みたいな喧嘩を繰り返しながら、切磋琢磨する日々を続けて十年以上が経っていた。

 ガキの頃に見た瞳の光は、より一層に輝いてボクシングに打ち込み、リングを追放されても現役さながらの実力を持つ坂東相手に、互角以上のスパーをするようになっていた。

 腕試しに火星のリングでも次々と勝ちを収めた。

 挫折もあったが、そいつを乗り越え一端のチャンピオンを倒せるくらいに強くなった。

 ただ、血が上りやすく侮辱されたツケを払わせようと、怒りのままにエースに挑戦状を叩きつけた時なんかは、頭を抱えるほどだった。

 けれど、よく考えてみればそういうところを見込み、そんなボクサーであれと育てたのも、また坂東だった。

 いつか地球のボクシングに挑もうなら、ここで躓いてなんかいられない。

 どうせなら、かつて負けてしまった己にもリベンジがしたかった。

 勝ちたいのは、雄吾だけではないのだ。


「いいか雄吾ッ! お前は負け犬なんかじゃあねえ。俺が負け犬だとしてもお前は違う! 怒りに呑まれるなよ……お前が負けてやるかと、心の根っこから勝ちてえと戦う限り、お前は負け犬じゃあねえッ! お前は、いっぱしのボクサーだッッ!」


 心臓が強く叩かれるような声音に、雄吾はハッと前を向かずにはいられなかった。

 雄吾を映した眼差しは、これっぽちの迷いも見受けられない。

 気持ちの良いほど真っ直ぐで、芯が通った眼差しだった。

「奴は強えがな、お前には武器を授けたはずだぜ。もう真っ向正面猪突猛進だけが取り柄なんかじゃあねえ、怒りだけがお前の力じゃあねえんだ。散々練習しただろ! テメェにも俺にも、互いに幾つも痣を残すくらいやったろ! 思い出せッ! そして勝ちを掴んでこいやッッ!」

 気合いの張り手が、背中に刻まれる。

 じんと焼けるような感覚は、くっきりと浮かび上がったであろう紅葉跡を想像させた。

「ばかやろッ、強く叩きやがって」

 悪態をつきながらも瞳の光はそのままに、表情はセコンドに戻ってきた時とは違い、澱んだものの一切が抜けていた。



 第4ラウンドが始まる。

 グローブを叩き合わせると威勢よく雄吾は立ち上がり、既に黒い巨体が待っているリング中央へと歩み出た。

 唇を突き出し、黒々としたマウスピースを見せつけるような笑みに変わらずの嫌味ったらしさを覚えるが、ここで誘われたら奴の思う壺だろう。

 両者構えた。

 開幕早々、笛のような呼気が鳴る。

 エースの鋭いジャブが飛んだ。

 正確な狙いだ。

 正確すぎて、やたらに読めた。

 顔面なら頭をずらし、ボディなら腕で防ぐ。

 グローブが下がったところを続けてフックが飛べば、上体を沈めて躱しつつ返しにボディへと狙いを定める。

 当然、すかさずの牽制が行手を阻むが、軸足でターンを繰り返しつつ次の隙を窺い続ける。

 動きを追い打つジャブが仕切りに飛ぶが、上体の振りとがっしりと閉じたガードで頭を上げずに対応すれば問題は無かった。

 身体が軽かった。

 視界も怒りに駆られて攻撃一辺倒になっていた時分と比べると、霧が晴れたように広かった。

 有効打は出せてはいないが、攻撃はしっかりと捌くことができている。

 奴が雄吾のスタイルを撃ち合いで見切ったように、ある程度の奴のリーチとパターンを体が覚えつつあったのだ。

 坂東が言うように散々練習をしたんだ、怒りに身を任せなくとも、やろうと思えばこれぐらいはお茶の子さいさいだった。

 少し冷えた頭で考えれば、撃ち合いで血が上りやすい雄吾をヒートアップさせて、動きが単調になったところを狙い撃つことが奴の作戦の内だったのかもしれない。

 伊達に傲慢なチャンピオンを気取ってはいないのだ。

 とはいえ、思惑を理解しつつある頭とは裏腹に、受けに回るのはやはり雄吾の肌には合わない。

 焦れったかった。

 奴が攻撃を重ねる度に、胸の奥が疼いて仕方がなかった。

「どうしたよ、尻尾を巻いて逃げに徹するなんて……臆病風に吹かれたかァ?」

 また、頭に血が上りそうになる。

 疼く胸を的確に突いてくる奴のいやらしさに、今にも突進したくてしょうがない。

 本能に身を任せたまま噛み付いていけたらなら、どれだけ楽だろう。

 馬鹿みたいに殴り合えていたなら、どれだけ楽しいだろう。


『ボクシングは馬鹿みたいに殴り合うだけが能じゃあねえ! 思考と練習で身につけた技術の応酬、んでもって先に我を通してぶっ倒すのがボクシングの醍醐味なんだよッ!』


 坂東が練習の時、口を酸っぱくして言っていた台詞を思い出す。

 スパーで殴り合いに興じた隙をつかれた時、いつもぶつけられた台詞だった。

 毎度倒された時に聞くものだから気に食わなかったが、今はこの台詞が雄吾の足を押し止めていてくれているようにも思えてならなんだ。


 そうだ、結局俺はどんな理由があったって、負けたかねぇのはおんなじなんだ

 勝ちてぇんだ

 そう思うんなら、これまでの俺を信じてどっかしと構えろよ

 怒りに駆られて突っ込んだら最後、奴に嘲られる前に己ん手で積み重ねたもんを不意にしちまうって話だぜ


 こうなると試合は次第に膠着だ。雄吾が果敢に出てこないのもあってか、エースは中々攻めきれていない様だった。

 ヒートアップした先の雄吾と違い、このラウンドの雄吾は終始冷静な立ち回りを見せ、決定的なチャンスを与えようともしない。

 かと言って迂闊に攻めれば、こちらの方が噛み付かれるだろう予感をエースは感じていた。

 獲物を狙う野獣の冷たい刃のような鋭い視線が、絶えず雄吾の瞳にあったからだ。

 我慢弱い二人の、我慢比べ。

 雄吾も焦れったかったが、仕留めきれないエースの焦れったさも同等か、それ以上。

 このラウンドで沈めると腹に決めていたなら、なおさらだ。

 激しい撃ち合いと一転した地味な攻防に、時計の針が秒を刻むごとに観客の文句が増していく。

 タイムが、1分を切った。


「チッ……面白くねえなッ」


 舌打ちが鳴るや、等間隔で繰り出していた左ジャブが、いきなりに速度を増す。

 一発がガードをくぐり抜けて雄吾の頬にヒットした。

 エースがさらにギアを一つ上げたらしい。

 一発でも当たれば、戦端をこじ開けるには十分だった。

 雄吾の意識が顔面に向いた一瞬に、エースの拳がさらに火を噴いた。

 狙いはボディ、繰り出された三連打が同時に迫る、そんな錯覚すら覚えた疾さだった。

 顔面に向かっていた意識を下げ、雄吾はガードを正面で構え直し応えるしかなかった。

 否、三打目はボディではない――左スイングだ。

 コンパクトなスイングが、二発のボディジャブを正面で受けたガードを越えて、雄吾の側頭部を捉えた。

 上がったギアに気を取られ、反応が遅れた。

 頭が揺らされる。

 テンプルから一拳分ずれていたのが不幸中の幸いだったが、痛みに一瞬気が逸れる。

 スイングの勢いに押され、上体が左にブレたところに、今度は右ボディフック。

 ガードも間に合わず、脇の腹が穿ち切られた。

 重い一打だった。

 体がくの字に曲がる。

 この好機を、エースが逃す訳がなかった。

 どうだ、今にも仕留めにかかろうと牙を広げるように振り下ろしの左を掲げているじゃあないか。

「グッバイ、アンダードッグッ!」

 フィニッシュブローが風を切る。

 肩から腕を捻り込み体を大きく使った拳は、岩に穴一つをも穿たん凄まじさ。

 一瀉千里、幕引きの一打には申し分ない。


 ――もし、奴がここで見落としていたことが一つあるとするならば、体が折れても雄吾の瞳はひたすらに前へと向けられていたことだろうか。


 刹那、リングに稲妻が弾けた。

 肉を叩いた音は、観客の狂騒をもかき消していた。

 顎が上向き、足が軸を失ったように折れ曲がる影が一つ。

 エースだった。

 気づけば、体が折れていたはずの雄吾が懐に飛び込んで、グローブをここぞとばかりに突き上げている。

 カウンターアッパー

 それは、坂東が雄吾に授けた己が技術の粋の一つだった。

 雄吾には見えていた、エースの顎先に坂東が散々構えていたミットの影が。

 腹だってやわな鍛え方はしちゃいない、ミットが見えたのにパンチが打てないなんて体はしちゃいなかった。

 何より、あんなコンビネーションで一つで雄吾の執念は欠片も揺らいじゃいなかった。

 勝ってやる

 坂東が思い出させてくれたクリアな意志が、一歩を力強く踏み出させた。

 迷いの無い拳を繰り出すことができた。

 顎へのダメージは、ダイレクトに脳を揺らす。

 しかも、エースの場合は堰を切った勢いで繰り出したフィニッシュブローへのカウンターだ、脳へのインパクトは二倍も三倍も上だった。

 口から、散々見せつけていたコーティングブラックのマウスピースがこぼれそうになる。

 足がふらふらと千鳥になり、どさりとリングに尻餅をついた。

 ダウンだ、レフェリーが容赦なくカウントを告げる。

 エースの思考は、まだ理解が追い付いてはいなかった。

 ダウンをしたこと以前に、自身がクリーンヒットを貰ったことすら信じ難いことであったのだ。

 雄吾との撃ち合いでも、ダメージというダメージは一切もらっていなかった。

 そもそも、幼少期に父親からボクシングを叩き込まれてからというもの、並はずれた才能を持っていたエースは火星のリングに上がって以降は一度もダウンをとられたことが無かった。

 どうしたことだ

 この俺が、どうして奴の背中を見上げているんだ

 呆然としていた意識が、我に返る。

 カウントが3を超えて、ようやくエースは自身がダウンをとられていることに気づいた。

 カウントギリギリまで休めばいいものを、ダメージが残る体をエースは無理矢理立たせて、ファイティングポーズを取った。

 格下相手にダウンをとられ、ダメージが残っているからとギリギリまで回復に甘んじる姿など、プライドが許しをしなかった。

 レフェリーが再開の合図を取る。

 ここぞとばかりに雄吾が突っ込む。

 遅れず、挽回を狙うエースもジャブにストレートとを向かってくる雄吾に浴びせにかかった。

 しかし、脳へのダメージが回復し切ってはいないのか狙い通りにパンチが伸びない。

 猛威を振るった一閃が、今は虚空ばかりを打っている。

 雄吾が懐へと飛び込むのも、わけがなかった。

 飛び込みと同時に汽笛を上げたは、雄吾が十八番のレバーブロー。

 急所狙いの一打にエースは反撃も叶わず、一瞬の悶絶。

 続いて、ボディフックにショートストレートと、一心不乱の拳が弾幕が絶え間なくエースを打つ。

 接近戦となれば雄吾の独壇場、ここぞとばかりに両腕のエンジンを唸らせた。

 絶え間ない一打一打が、奴の体を内側まで深く鋭く刺していく。

 エースは、嫌味ったらしい笑みを浮かべる余裕すら失っていた。

 獲物を射抜くような視線が、外れてくれない。

 鬱陶し、い……ッ

 辛うじて腕を伸ばし雄吾を突き放すようにすると、逃れるようにサイドステップ。

 追撃をガードとスウェーを織り交ぜて躱し弾幕から逃れると、さらに後退。

 自身の距離で、もう一度勝負をかけるつもりだった。

 なのに、体を置いたポジションは、リーチの長いエースのパンチすら届かない大きすぎる距離だった。

 間合い以上に雄吾から大きく距離を取っていたのだ。


 どうした、なんて距離にいるんだ

 いや……俺は一体何をしているんだ


 エース自身、己が行動を疑わずにはいられなかった。

 困惑の最中に鐘が鳴って、第4ラウンドが終わりを告げる。

 ノックアウトどころか、エースの方がダウンを取られる始末だった。

 ありえない

 脳髄がただその一言ばかりに支配されそうになっていた。

「……負け犬の星生まれの負け犬相手に、どうして俺がダウンを取られるんだ」

 呼吸が荒くなりそうだった。

 自身への怒りが鉛のように重く溜まる一方だった。

 負け犬の星――火星のリングでは誰にも負けたくなかったのだ、この男は。

 セコンドに戻ると、一人の男が心配そうな目つきでエースの様子を見ようとした。

「俺に構うな……ッ!」

 怒気に満ちた声音は、セコンドに有無をも言わせなかった。

 気が立っていたエースを、もう誰も宥めることはできない。

 ダメージを診ようとしたセコンド陣、ましてやそれが自身の父だったとしても、だ。


 そうだ、この父こそがエースにとって全ての始まりだった。


 まだ幼かったエースに夢を託すような眼差しで、彼はボクシングを叩き込んでいったのだ。

 彼の父も、かつては地球でボクサーをしていた。

 地球のボクシングのレベルは高かった。火星と比ぶべくもない。

 並のボクサーではランキングの上位に行くことも難しいほど、強豪がひしめき合っている。

 父は、夢に敗れた。

 うだつの上がらない戦績では、地球という本場でボクサーを続けること自体がもう許されなかった。

 所属していたジムからも見放され、ボクサーをするだけの金も尽きた。

 30を超えた年齢では地球での仕事にもありつけない。

 敗れた男の末路が、火星での開拓従事。

 未だ火星には広い荒野が広がっていた。百年以上の月日が経とうとしても開拓の手が足りぬほどで、行きだけなら費用も掛からなかった。

 旅立った先で、父は家族を作り息子に恵まれた。

 仕事はきつく賃金も安かったが、地球でボクサーをしていた頃よりは恵まれていたのかもしれない。

 そう思おうとしても、敗れたはずの夢の灯火が胸のどこかで燻っていた。

 火星でリングを見つければ、足を運んでいた。

 ボクシングの情報を絶えずどこかで仕入れていた。

 ついには、息子にボクシングを手解いていた。

 夢のバトンを繋ぐような、そんな思いをどこかに抱えながら、年端も行かない頃から息子にボクシングを叩き込んでいっていた。

 エースは、そんな父親が心底惨めに思えてならなんだ。

 自身で夢を叶えられず負け犬を選んだくせに、息子にボクシングを叩き込んでまで追い縋ろうとする姿は、醜悪の一言に尽きた。

 上手くできなければ怒声に拳、地球にすら届かないぞと涙を流し散らしてトレーニングは苛烈さを増す。

 かと思えば、度々諦めた夢を子供のように息子に語ってくれるのだ。

『お前は、父さんの夢を叶えてくれよ』

 そう語った父の瞳は息子に向ける代物ではなかった。

 神にでも懇願するような潤んだ眼差しは、子供ながら気持ち悪くてしょうがなかった。


 本当に、惨めだ

 見るに耐えない

 こうは、なりたくない


 エースの中でその思いが日に日に強くなっていった。

 自身の力量が上がれば上がるほど、父に対する軽蔑が増していってしょうがなかった。

 そのうち、軽蔑の視線はこの星そのものになった。

 夢破れ、生活すらままならなかった者たちが最後に行き着く果ての星。

 安い賃金でいいように働かされ、その日その日を生きることで精一杯。

 まさに、負け犬どもの吹き溜まり。

 ……この火星こそが、負け犬の星だ

 チャンピオンを名乗ってもう久しいが、そんなものは虚しいだけの肩書きだ。

 たかが火星にいくつもあるリングのチャンピオンベルトなんて、価値をつけるのも馬鹿らしい。

 エースは、この星で終わりたくはなかった。

 負け犬の星で負け犬の王になったとて意味がない。

 負け犬どもに囃し立てられるなんざ、御免だった。


 ましてや、そんな負け犬にいいように噛みつかれ、挙句に逃げるようなことをするだと……ッ?!

 そんなの、恥そのものじゃあないか……ッッ!


 顎と腹とが、じくじくと焼けていく。

 刻まれた拳が、恥の刻印のように思えてならなんだ。

 腹の底に溜まった怒りの煮えたぎりは、マグマの熱をも超えていた。

 プライドはもう、ズタズタだった。

 許せない、許せやしない

 あの鬱陶しいくらいに噛みついてくる負け犬もそうだが、それ以上に己が心底許せない。

 負け犬相手に勝ち誇る価値は無いが、負け犬相手に辛勝するなどあってはいけなかった。

 ましてや、逃げるように距離を取るなど、あり得てはならない。

 圧倒的な力量差で、負け犬に負け犬らしい惨めさを突きつける。

 負け犬は、這いつくばるのが似合いの姿なんだ。


「そうだ……負け犬のくせに、どうして俺がここまで……ッ!」


 闘気と殺気とが混じり合い、触れれば火傷じゃ済まない重圧がエースから溢れ滲む。

 黒い体が焼けた鉄のようになって、全身熱気を放っているようだった。

 彼の父を含むセコンド陣も、もう近づくことができなかった。

 観客すら、異様な雰囲気に息を呑んだ。あれほどの熱狂は水を打ったように鎮まっていたが、緊張感だけはビッチリと会場に張り詰めている。

 当然、正面に対峙する雄吾と坂東もその異様な空気を感じていないわけがなかった。

 だがどうして、呑まれきってはいなかった。

「奴さん、相当キレちまってんな。こりゃあ何しでかしてくるかわからんぜえ雄吾」

「上等ッ。あいつがその気なら喜んでぶつかるだけだぜ、おやっさん」

「だあから喧嘩っ早いんだよ、お前は! 言ったろ、怒りに任せ過ぎんなって!」

「るっせえなぁ、キレてるわけじゃあねえよ。……でもよ、熱くなったっていいだろ。どちらにしろ、俺はクールにボクシングはできねえんだからなッ」

「……! ……たっく、この馬鹿は」

 呆れたように雄吾を見やる坂東に対し、なんだその顔はと雄吾は小突く。

 異様な空気の中にあっても、どこか意気揚々とした二人だった。

 そのうちに、勝負を決める鐘は鳴った。

 第5ラウンドが始まる。

「んじゃあ、勝ちを掴んでくるぜおやっさん」

「おう、もう好きにやってこいバカやろッ」

 また一発気合の張り手に押し出されて、雄吾はコーナーへと飛び出していく。

 中央に近づくほど……向かいのコーナーからゆらりと立ち上がった黒い体に迫るほど、重圧は肌を焼かんばかりに熱くひしめいている気がしてならなかった。

 鳥肌が立つ。

 背筋に一層ゾクゾクとしたものが奔る。

 なのに、胸の奥で疼く原始的な高揚がここに来て一段と昂って仕方がない。


「ボックス!」


 レフェリーの合図。

 そして、颶風が唸った。

 虚をついた右ストレートが、開始一秒が経つか経たないかに雄吾の顔面を叩き抜いていた。

 間もおかず、体全体で踏み込みながらボディフック。

 レバー狙いの一打、ストレートの反動をうまく使ったコンビネーションだ。

 が、ここは右腕を固めたガードに阻まれた。

 拳を咄嗟に額で受け切り意識を保っていたのだ、雄吾は。

 とはいえ、エースの攻め手は緩まない。

 ピリピリとした緊張感を味わう余韻も無い かった。

 フックを引いた左が、今度は弾くようにしてまた頭へと。

 コイツを左のグローブで落としても、息を吐くのも許さず右のフックがテンプルに奔る。

「ちぇ、ッ!」

 ウェービング、上体を左へ弧を描くような形で沈めエースの拳に空を切らせた。

 左拳を構えるのも忘れない。

 回避こそ攻めへと盤上を返す要だ。

 ガラ空きになったはエースが脇腹、ここに渾身のレバーブローを叩き込む。

 その筈だった。


 ゾッとした。


 狙いのその先に見たエースの貌に、ゾッとしてしまった。

 余裕ぶっていたあの笑みが、どこにもない。

 それだけならばまだいい。

 ぶつかった視線は、自身の他を何も見ちゃいなかった。

 雑念も惑いも、何もかもが置いてきぼりだった。

 執念すら超えた怒りを奴の瞳は雄弁に語る。

 それも、雄吾という存在をも否定しかねない度も過ぎた怒りの業火。

 ――妄執

 そうだ、狂気じみた妄執だけがそこにはあった。

 悪寒が背筋で騒ぐ暇も無かった。

 妄執が、雄吾を捉える。

 爆ぜるのに導火線は要らなかった。

 気づけば、眩いライトが雄吾の視界を焼いていた。

 エースの左が浮き上がろうとする頭を撃ち上げたのだ。

 雄吾が放とうとしたレバーブローの一歩も二歩も先を行く、閃光じみたアッパーだった。

 咄嗟にあげた右のガードも無惨に叩き潰された。

 雄吾の体が崩れる。

 体格差もそうだが、重量のあるパンチをモロに頭に喰らってしまっていた。バランスを失うのも無理はない。

 上体が左にのけぞり、視線もあらぬ方向を向いている。

 鍛え上げた足腰が辛うじて大地を掴み倒れまいと堪えていたが、虚しい抵抗でしかなかった。

 弩弓劈く。

 右ストレートだ。

 気持ちが良くなる程真っ直ぐに雄吾を弾き飛ばしていた。

 大地を掴んでいた足が離される。

 キャンバスに地鳴りが響いた。

 ライトが眩しい。

 観客の狂騒と、後からレフェリーのカウントが鼓膜の奥でこだまする。

 視界の端には、奴の大きな黒い体が微かに見えた。

 クリーンヒット、物凄いインパクトだった。

 否が応でも、奴の実力が本物どころか桁違いであることを実感させられてならなかった。

 撃たれた瞬間、頭に火花が散った。

 身体中の神経が四散したような感覚に呑まされそうになった。

 頭蓋の中で、脳髄は幾度骨に叩きつけられただろう。

 この試合で喰らったどんな拳よりも、よく効いた。

 いっそ、感情が一番乗った拳を喰らわされた気分でもあった。

 妄執過ぎた怒りをダイレクトに芯へと叩きつけられたようだった。

 これが、言葉にならないほど気持ちがいい。

 なにせ、ふんぞりかえり傲慢に満ちた奴の本音が、ようやく拳から垣間見えたのだ。


 どうやら、やっとこさ奴と同じリングまで上がれたみてぇだな……

 だったら、ンなとこで終わってなんかいられねえよなァッ!


 カウントが5を越えたあたりだった、雄吾がむくりと起き上がったのは。

 凄絶なストレートを喰らったとは思えない、軽い起き上がりぶりであった。

 その姿に、観客席からは波が立つようなどよめきの声。

 素人から見ても、エースのあの拳は相当なダメージを入れたと思わせていたのだろう、無理も無い話だ。

 事実、威力に疾さ、タイミングにおいて、全てが全て感嘆すべきストレートだったのは確かだ。

 チャンピオンという肩書きにも恥じない相ボクサーの拳だった。

 しかしなんてことはない、雄吾にとってはいつも喰らうパンチとおんなじなのだ。

 あの坂東とのスパーリングで散々喰らってきた拳と、そう変わらない。

 ボクシングを始めてからたった二人のオンボロジムで、血みどろになるまで撃ち合い続けたスパーリングを今日までやってきたのだ。

 どちらかが音を上げるまで……いや、意地っ張りな二人なもんだから、どちらかがリングに立てなくなるまで続く、地獄のようなスパーリングだった。

 ケンカの延長戦で殴り合うのもしょっちゅうだった。

 感情の乗った拳など喰らい慣れたものだ。

 スタミナも限界を超えて足はガタガタ、ファイティングポーズをやっと取れた状態に、本気で襲い掛かってきた血に塗れた拳の方がずっとよく効いた。

 そんな己が、たかがパンチ一つで倒れていられるわけがなかった。

 ここで立たなきゃ何をやってきたんだ、って話だ。

 強くなる為に馬鹿みたいに喰らった拳たちと、鬼になってくれたあの坂東に、顔向けもできない。


 それにまだ、俺は勝ちを掴んじゃあいねェッ


 カウントエイト、十分に休むと雄吾は立ち上がり、ファイティングポーズを取る。

 瞳は妄執に憑かれた黒い肉体を、真っ直ぐに見据えていた。

 奴は、さして驚きも見せなかった。

 雄吾が起き上がった時点で、今にもうずうずと攻めかからん様子ばかりを見せている。

 獲物を喰い散らかさんと涎を垂らし、牙を剥いた野獣を想起させる姿だった。

 ゾクゾクした。

 正念場に、胸の奥から満ちた熱いものがさらに加速していく。


 強え、ホントにアンタは強えよ……そんだけ強いんじゃあしょうがねえぜ……

 でもな……勝つのは、俺だッ!


 再開の第5ラウンド、合図がなるや双方勢いよく飛び出していった。

 先の先、エースのストレートが伸びる。

 そいつを掻い潜って、雄吾が狙うはボディフック。

 懐に入ってパンチが放たれるに合わせて、ショートフックが雄吾の頬を目掛けて弾かれた。

 相打ちだった。

 互いの頬に腹にと、グローブが深々と突き刺さっていた。

 が、構わない。

 そう言わんばかりに両者一歩も引かずにまた、拳。

 顔を狙って、エースの拳が怒涛に唸る。

 腹を目掛けて、雄吾の拳が苛烈に吠える。

 撃ち合いだ。

 試合序盤のような、相手の手を探るための撃ち合いではない。

 意地と矜持と自負とを拳に握り、相手をぶっ倒さんがための撃ち合いだった。

 皮が破れる。

 肉が波打つ。

 骨が焼ける。

 言葉にもならない拳の応酬が続く。

 雄吾が腹の肉を抉り取らんばかりにブローを放てば、エースが顔の皮を剥がさんばかりにストレートを放つ。

 エースがテンプルを刈り取らんばかりに拳を撃てば、雄吾がレバーを穿ち抜かんばかりに拳を撲つ。

 急所をやられても、苦悶に歪むのは一瞬だけだ。

 次の瞬間にはまた前を向いて、男達はまた噛み合う。

 一歩も譲るな。

 片時も目を離すな。

 鍛え上げた強靭な肢体に、磨き抜かれた牙が何度も何度も突き立てられる。

 拳と拳とが交わされるたびに、鎬を削って火花が散る様が見えた気がした。

 瞬きするのも勿体無かった。

 飛び散る汗にも舞い踊る血にも、気を取られてなんかいられない。

 ぶつかり合う肉と肉の様を瞳に焼き付けんと、観客の誰もがリングの二人を追っていた。

 興奮と熱狂は胸まで昂らせ、狂騒にとうとう会場全体がどよめき震える。

 そんな荒れ狂った渦の中心にあって、一人だけ自身にもある熱を許せない男がいた。

 

 何が噛みつきあいだ……

 負け犬相手にこんな興奮も昂りも……俺は望んじゃあいねえんだよッ!


 流れが、変わる。

 拮抗を破らんエースのボディアッパーが、雄吾の体をガードごと弾き飛ばした。

 ロープへと叩きつけられ、身体が撥ねる。

 受けた腕には、拳の焼き印がくっきりと刻まれていた。

 怒りに満ち満ちた拳だった。

 たかが一打だがされど一打、ひと拳で流れを変えてしまえるエースの底力に、戦慄。

 そうだ、互角の勝負などこれっぽちも望んではいないのだ、このエースという男は。

 負け犬風情に撃ち合いに持ち込まれるなど言語道断。

 これ以上の拳の応酬は、自身のプライドにさらなる恥を刻むだけだった。

 自身が圧倒的強者であることを、今一度証明しなければしょうがない。

 負け犬に本気になっちゃいられなかった。


「いい加減に斃れやがれ! 延々と噛みつきあいに付き合われちゃあ、このエース・ジョンソンの名が廃るんだよォォォッ!」


 妄執、猛る。

 ロープに撥ねつけられた雄吾を狙い、左が放たれる。

 黒く漲った背筋の筋肉が躍動し、目にも止まらない疾さを叩きつけた。

 芸術的な一閃だったが、拳の描いた軌跡に雄吾の顔面は無かった。

 ――下だ。

 撥ねた反動で沈み切り、拳を潜ってピーカーブー。

 間髪入れずにダッシュ猛進、懐目指して地を蹴った。

 それこそが、エースの真の狙いだった。

 雄吾の進む先、懐に忍ばせ見せたは右拳。

 どこまで行っても、負け犬が最後に頼むはインファイト。

 この奴の切り札を潰してこそ、勝利は真のものとなるのだ。

 猪突猛進の雄吾をギリギリまで引きつける。

 タイミングを間違えればラッシュの餌食を覚悟で、エースは測っていた。

 背中が粟立つ。

 迫れば迫るほど、感じたことの無い悪寒に逃げ出したくてしょうがない。

 なれど、逃げてたまるか。

 足でしかとリングを掴んでは決して離しやしない。


 俺は負け犬相手に逃げるような、臆病者ではない……ッ!


 間合いに、入った。

 左ストレートを戻すと同時に、腰が捻り右の腕がしなる。

 肘を支点に掬い上げるような軌道で拳を奔らせた。

 ピーカーブーの死角、ガードを抜けた下から顎先目掛けて、妄執の牙が剥く。

 アッパーカット

 目に物を見せてやれ、この負け犬に。

 くれてやれ、兇猛甚しき引導を。



 だが、そいつをタダで受け取るほど、雄吾は諦めのいい男だったろうか。



 否、断じて否だ。

 太刀風が吹き荒れた跡に、斃れるべき影はどこにもなかった。

 鳥肌どころか全身の毛が逆立つほどの剛毅果断な拳が抜けた横に、その諦めの悪い眼差しはあった。

 咄嗟の反応ではない。

 振り上げた引導を躱しエースの右サイドへと踏み込んだ左足は、余りあるほど力強いものであった。

 読み切っていたのだ、雄吾は。


 負けたくねェ

 勝つんだ

 勝ちを掴むのは、この俺だ


 そこに、負け犬がどうとかいう澱んだ熱は、脳髄のどこをどう探してもありはしなかった。

 とっくに、忘れてしまっていた。

 奴の嫌味ったらしさだとかも、憎らしい記憶だとかも、彼方へと置き去りだった。

 あるのは、拳を撃ち合うことでさらに研ぎ澄まされ、より純度に磨きのかかった熱量の意志。

 見据えた相手が強者であればあるほど、純度の上がりようは限りない。

 怒りよりも、妄執よりも、何よりもこの強者にただ勝ちたい。


 ――勝ちへの、渇望。


 純粋極まった勝ちへの渇望に身を委ねた肢体は、本能でエースの動きを読み切ってみせたのだ。

 されど渇望は、まだ本懐を成しちゃいない。

 ガラ空きの右脇に、研いだ左を狙い澄ます。

 雄吾の瞳にまた映るは、坂東が構えた見飽きてしょうがないあのミット。

 上げ切った黒い腕を振り下ろそうとしても、もう遅い。

 エンジンが、火を噴く。


 踏み込み切ったアクセルは、ブレーキをもぶっ壊した。


 炸裂のレバーブローは、一ミリのブレもなかった。

 拳は見えたミットを正確に捉え、肉ごと中身を抉るようにして串刺した。

 内臓を掴まれるような激痛に、腕や足の感覚が遠くなる。

 一度喰らったはずの拳なのに、威力は一段も二段も上だった。

 にも関わらず、エースは反撃の拳を構えようとしていた。

 妄執も、ただの一打で沈むほど打たれ弱くはなかった。

 けれど、所詮はただの妄執だった。

 渇望は、妄執を超えていく。

 

「怒りに任せて勝てるほどボクシングは……俺は甘かねェんだよッッッ!」


 返す右で今度は顎を捉え、撃ち抜く。

 間髪入れずにボディアッパー。

 畳み掛けるような右フック。

 まだだ。

 まだ、拳はエンジンを苛烈に蒸す。


 叩く

 殴る

 抉る

 穿つ

 打つ

 伐つ

 撲つ

 撃つ


 そして俺は、勝つ……ッ!

 勝ちを、掴むッッ!


 止まらない。

 ブレーキをぶっ壊したアクセルは、もう止まりようがなかった。

 眼差しは絶えずぶれず、見えたミットに次々と拳を叩き込む。

 一秒だって惜しかった。

 奴は正真正銘の強者だ。

 この強者相手に一瞬でも気を緩めてみろ、痛い目をもらうのは己の方だ。


 拳を休めるなッ

 アクセルを踏み続けろッ

 勝ちに向かって、一心不乱に喰らわせ続けるんだッ


 獰猛甚だしきラッシュだった。

 あのエースの巨躯が拳を浴びれば浴びるほど、膝が折れ曲がり腰が沈んでいきそうになっていく。

 ガードを固めようとしても、呼吸すら忘れた雄吾の拳が二度も三度も突き刺さる。

 ブラックコーティングのマウスピースが、勢いよく口から溢れた。

 舌が無様に伸びて、血の混じった唾液がだらりと垂れる。

 絶え間なく続く痛みの嵐に、足腰がもう重力にすら耐え切れなくなっていた。

 今この場にある己自身を、エースはとうてい認めることができなかった。

 

 ……ふざける、な……ッ

 このエース・ジョンソンが……このまま負け犬なんかに……どうして負けなきゃいけないんだ……

 負けていいわけが、ない……ッ!


 妄執、なお絶えず。

 ラッシュを浴びながらも辛うじて伸ばした腕、執念のスイングがリングに弧を描く。

 振りが大きすぎる。

 打点はテンプルをも越えてしまっていた。

 形振りも構わなかった。

 拳が剥いた先は、雄吾が後頭部。

 ラビットパンチ

 それは、ボクシングにおける最悪の反則打。

 延髄にダメージが与えられれば、一生物の後遺症が残る可能性もあった。

 躊躇いも戸惑いも、たった一瞬だけだった。

 男は、自負をも捨てて勝ちを選んだ。

 負け犬を前に汚泥を舐める

 その事実を、己が尊厳をドブに投げつけてしまうほどに許すことができなんだ。

 悪夢呼ぶ鎌が、雄吾へと迫る。

 鋒が、延髄を捉えようとしていた。


 その妄執果てない意地すらも、雄吾は置き去りにしていった。


 オーバーヒート、肝を正確にぶち抜くは針をも振り切ったアクセルが一撃だった。

 最後の最後まで、雄吾はミットの芯を捉えて外しやしなかった。

『俺が、勝つ』

 目の前の怒りにも妄執にも惑わされない。   

 其処に立つ強者を見据え、勝ちに向かう己が意志と渇望と執念とで、ひたすら一途に駆け抜け切った。

 己がボクシングを――『我』を、男は通してみせたのだ。

 渾身のレバーブローは、エースの神経を微塵も残さず寸裂にまで追いやった。

 比にもならない激痛に、四肢全ての感覚が上塗られていく。

 純度凄まじき熱意を前に、澱んだ妄執は遂に焼き尽くされていった。

 鎌は落ち、黒い巨躯を支えていた腰が脆くも崩れる。

 あれだけの意地を見せた男が沈む姿は、あまりにも呆気がなかった。

 キャンバスに倒れ伏したチャンピオンは、先の巨躯が嘘のようにこじんまりと見えてならなんだ。


「……何、かの……間違い、だ」


 カウントが告げられる最中、悶絶の渦中にあってそれでも立とうともがく口から、戯言のようなものが漏れる。

「まぐれだ……こんなの、ラッキーパンチに決まってる」

 縋るような、声音だった。

「あの、カウンターさえな、ければ……あの、アッパーさ、え……当ててりゃ……俺が、負けるわけがない、はずなん、だ……!」


「じゃあ立てよ……そこまで言うんなら、立ちやがれよッ!」


 エースは、目を剥いた。

 見れば、カウントを告げるレフェリーの向こう側……先ほどまで散々見下ろしていたはずの男を、今はどうして見上げていた。

 堂々とした、立ち様だった。


「まぐれだなんて金輪際言わせねェッ! 俺は負けんぜ……何度やったってテメェに勝ってやる……いくらでも、何度でも、かかってきやがれッてんだッッ!」


 息の荒さに加え、無茶な撃ち合いによって満身創痍の体を抱えているはずなのに、その啖呵はどの拳よりも力強かった。

 なんて男だ、と思わずにはいられなかった。

 見下すどころか、なお真っ直ぐ見据えて焚き付けてきやがる。

 負け犬とはとても呼べまい、いっぱしのボクサーの姿があった。

 エースは、足掻く。

 足掻かなければ、しょうがなかった。

 反則打までしたというのに、なんだこのザマは

 ここで立てなければ、正真正銘の負け犬じゃあないか

 辛うじて残ったしぶとさで、己が足でリングを掴み巨躯を起こす。

 格好つけにも程がある啖呵を前に立てなければ、面子もあったものじゃなかった。


「俺は、負け犬……じゃあ、ない……!」


 しかし、現実は非情だった。

 ぷつりと、何かが切れた気がした。

 体に漲っていたはずの力が、感覚が、どこにも無い。

 微かに燻った怒りだけでは、背負ってしまった数多の傷を押し退けることはできなかった。

 起きあがろうとした巨躯が、再び沈む。

 初めて味わった汚泥は、何よりも苦い悔いの味がした。


 そしてテンカウント、決着だった。


 レフェリーが雄吾の腕をとり、高らかに掲げ上げる。

 勝者は煌々としたライトと興奮冷めやらぬ観衆の祝福を未だ渦を巻く熱狂と共に一身に浴びていた。

 勝った

 俺が、勝った

 ただそれだけで、全身の緊張が解けた気がした。

 レフェリーから腕を離された途端、よろける体。

 糸の切れた人形のようだった。

 体の自由がまったく利かない。

 指先を動かす力さえ無かった。

 このまま、リングに真っ直ぐ落ちていくのだろう、そう思った。

 けれど、体が感じたのは冷たいキャンバスではなく、暖かい人の肉の感触だった。

「無茶してくれたな、バカやろが」

 坂東だった。

 スパーリングで何度雄吾の拳を喰らったかもわからない体が、今は雄吾を優しく抱き止めていた。

「結局無茶苦茶な攻め方しやがって……何度肝を冷やしたかわかんねえな!」

「るっせえよ……その割には自信満々な笑みで頷いてたくせに」

「そうするしか無かったんだよ。リングに送り出した後は、今までやったこととてめぇのボクサーを信じるしかねえんだからな!」

「……よく言うぜ」

 坂東の肩を借りると、観衆の拍手喝采をよそにリングから降りていく。

 試合の終わったリングに、用など一つもありはしなかった。


「……トレーニングだ」


 雄吾がポツリとそうこぼしたのは、騒めきも次第に遠くなってきたところだった。

「なんでぇ、試合が終わったばかりってえのによ。気が早すぎやしねえか?」

「……足りねえんだよ……やっぱまだ、こんなもんじゃあ足りねえんだ……」

 それもそのはずだった。

 一歩一歩を踏み締めて歩く度に、あの男につけられた傷が身体中を激しく噛みついてきていた。

 そう簡単に体からは抜けてくれそうにはない熱が、今も骨やら臓腑やらを焼き続けていて仕方がなかった。

 負けたくない

 喰らっちまった拳のどれもが、今も血反吐を吐くほどそう叫んでいるように思えてならなかった。

 やはり、強者だった。

 生半可じゃない執念が奴にはあった。

 それこそ、妄執の獣と化して形振り構わない手を打ってくるほどに。

 自身でも呆れるくらいに威勢のいい啖呵を切ったが、何もせずに次も勝てるなんて思えるわけがなかった。

 むしろ、ああいう奴ほどリングで再会した時、ひと回りもふた回りも次元を超えた実力を備えて立ってくる。

 あのまま敗北の汚泥を舐めっぱなしなんて、考えられない。

 負けず嫌いな男というのは、転んだらただじゃあ立ち上がらないものだ。

 それを、誰よりも雄吾は知っていた。

 この男だって、そうだからだ。


「奴はまた、どっかで立ち塞がってくる。何年か……案外、数ヶ月も経たない内にずっと強くなってな……それまでに俺ももっと強くなりてェ、こんままじゃあダメなんだ。奴に……いや、奴だけじゃあねえ。誰にだって負けたかねえんだよ……ッ!」


 滾りは絶えない。

 未だ知らぬ強者どころか、ついさっき下したばかりの男にすら、雄吾は牙を剥けずにはいられなかった。

 瞳の奥に燻る焔は、終わってしまった昨日の勝利に目もくれず、明日の荒野ばかりを見据える。

 男が行こうとする荒野に目指す場所どころか、果てなんてものもありはしない。

 火星の荒野はずっと広い。

 行き着く先も知らない。

 なのに、力強く歩もうとする背中が男にはあった。

 坂東は、心が疼かずにはいられなかった。


「しょうがねえな! でも、まずは食って体を治すんだなッ! トレーニングはそっからだ。下手にボロボロの体を動かしてダメになったら元も子もねえからなァ!」 


 こうなれば、もうとことん背中を押すしかなかった。

 てめえのボクサーが行き着く先を生きている限り見届けることこそが、この男をボクサーにした己が通すべきだろう筋であった。

 己の夢と重なるのか。

 夢を超えた先を見せてくれるのか。

 或いは、己の夢とは全く違う道を歩むのか。

 未来のことなんて何もわかりはしない。

 ただ、てめえのボクサーがどう歩もうと、退屈しないことだけはわかりきっていた。


「まずは肉だ、勝ちの祝いに肉を食うぞッ!」

「肉ッ! 肉かぁ……くそ、その響きを聴くだけで腹がすいちまってしょうがねえッ」

「でもよ、一人で全部喰らおうとすんなよ? いつもそうやって俺と喧嘩になるんだからなぁ!」

「へっ、どうだかな……肉となれば話は別だ、譲る気なんてさらさらねえぜ」

「て、てんめぇッ……!」


 男達が語る明日は、他愛もないがひどく明るい。

 そうだ、腹を括った二人に阻むものは何もない。

 清々しいくらい潔い背中が隣にあれば、どこまでも遠くへと行けるはずだ。

 途方もなく広がる無尽の荒野だって、ちっとも怖くはなかった。

 

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男達の荒野 一齣 其日 @kizitufood

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